MilanoからLondon、東京に移り住みましたが、変わらず日常生活を書き記そうかと。。
ミラノ通信 - 我が為すことは、我のみぞ知る



docomo 25周年とミスチル25周年なのね。

1992年かぁ。。。まさにこの写真の渋谷の街を毎日歩いていましたね。1992年は高校を卒業した年だ。高校生活の残り2年間を渋谷で過ごしたんでね。名古屋から1990年の3月に東京に来た。振り返ると、自分が人生の中で最も努力をしたのではないかと思った程、名古屋の公立高校受験では頑張った。とは言え、県下第一位の旭丘には行けず、でしたけど…。


高校受験をしたことがないうちの両親にはこの苦しみ、努力など分からないんだろう…。

 


高校受験でどれだけ苦労をしたことか…。なのに、1年したら転校?親が転勤をしたら子供が一緒に付いていく、と言う、愚かで、浅はかな考えに乗ってあげたけど、こんなに人の人生を勝手に変える権利は親如きにはない。自分に子供がいた場合にはどうするかと言えば、確実にひとり暮らしさせるな。それが子供の希望であればね。それだけの苦労をし、残りたいと言う希望は当然あるだろうから。その苦労に対しての考察が何もなく、考えもよらない人間には言っても仕方ないが、自分は同じ仕打ちを子供にはしない。何度か書いているが、1989年の高校1年生の中で、東京の高校に転校希望の人は推定で200人以上。もっといたような気もするが、受け入れ高校は都立5校に私立3校程度だったかな。募集人員は2-3人ずつくらいだった。実際には5-6人受け入れたらしいが、それでも40人程度しか都内の高校に転校できなかった訳だ。倍率5倍の高校受験って…。これがどれだけ苦しかったか。。。こんな仕打ちを何故させられなければならないのか。。。。。

そんな恨み言をほぼ毎日考えながら過ごし始めた渋谷、1990年…。

1992年までの2年間、正直言えばかなり暗い心持ちのまま渋谷で過ごした…。かなり偏差値を落として転校せざるを得ず、諸々巻き込まれて自分の目指す東大に行けなかったら、この先の人生はどうなるんだ、と言う不安ばかり…。高校に入る前から、弁護士になろうと思いながら、球蹴りと勉強をしていた名古屋の高校生活を剥ぎ取られ、渋谷と言う見知らぬ街で過ごすことになった不安…。

結局は東大はセンター試験こそ通ったが、二次試験で落ちるなど、全て自分の責任だとは思っているけどね。。。

 

それでも尚、法学部のないICUに行ってでも法律を勉強しようと思ったのは、故奥平教授がいると教授の書籍を読んでどこで教えているか、分かったからだ。


理不尽な選択肢しか選択させないと言う愚かな人間に対してのアンチテーゼ…。自由と責任と言うものを何処までの年齢に認めさえ、それを制度的にどう担保するべきなのか、と言うことを考えるために、ICUであっても法律を選択した。卒論研究で行った、「表現の自由」と言うのは、愚かな親に対してのアンチテーゼで、必然的に選んだようなものだ。浪人の時にはホントに色々と本を読んだ。ジョン・スチュアート・ミルの自由論、マックス・ウェーバーなんかもその時に読んで、こう言う考え方があるんだな、と。外山滋比古、佐伯啓思なんかの本も読み漁り、そして、故奥平教授の本も読んだ。1992年に19歳になった時だ。これは河合塾駒場校時代だな。だから渋谷生活よりもあとだ。

ただ、故奥平教授の書籍への出会い、そしてICUと言う選択は、浪人をし、色々と考えたからこそ成立した、とも言える。

まぁ、人生なんてそんなもの…。2年間の挫折があってこそか…。自分のあの時の努力の仕方では多分東大には行けなかったんだろうね。。。悲しいけど、それが現実。とは言え、そんな結果が出るともまだ知らず、高校時代には死ぬほど勉強、、、もしたけど、物凄く沢山の本を読んだ。

 

その中で、故奥平教授が書かれていた書籍を読んだのであったがそれが1992年。

 

その本も、渋谷の本屋で買ったな。この東海銀行の横、マルイの方に向かって歩いたところに、大きな本屋があった。なんだったっけな?記憶力が良いと先日も言われたのだけど、渋谷にあった、大型書店の名前は忘れてしまった。淳久堂だったかなぁ…。

 

1992年から1993年に掛けて、まさに浪人時代、この渋谷の辺りでも過ごしたなぁ。

 

1990年4月から1992年3月までの間、井の頭線で吉祥寺から渋谷に向かう時、1つでも多くの英単語を覚え、1つでも古語の単語の意味や文脈を理解するために必要以上に早く高校に行っていたのが懐かしい。吉祥寺で始発を待ち、井の頭線に座って行くためにね。渋谷に着くまでの29分間。。。めいいっぱい勉強してたな。自分自身の世界を切り開くためにね。


誰かに抑圧されて生きていくのは嫌だと心底思っていたから。
それが親であったとしてもね…。自分で切り開くしかないからな。




高校時代は、広尾から、渋谷に向かって歩いて帰っていた。

尾崎豊が歌ってた東邦生命ビル(今は別名)のところから歩道橋渡ってね。ここに座って歌っていたんだな、なんて特に尾崎豊の歌をそこまで聞いたことがある訳でもなかったから正直、感慨はなかったけど。

 

1992年当時聞いていたのはTM Network、渡辺美里かなぁ。

 

申し訳ないけど、1992年時点では自分のトラックにはミスチルは入っていなかった気がする。浪人になった1992年4月からは音楽聞いてないかも。。。ICUに入った1994年には、ミスチルばっかり聞いていたけどね。カラオケ全盛期、歌うのはミスチルばかりだったかな。アトミックハートを擦り切れる程聞いたかなぁ。

この当時の渋谷、ホントに懐かしいなぁ…。

五島プラネタリウムのあったビルで時間潰したりしてね。あの中に、香港映画とかのグッズショップとかがあったんだよなぁ。ブルース・リーが着ていた?本物だと書いてあったけど、よく分からなかった黄色のツナギが置いてある店とかに行ったりしてね。プラネタリウムも一度だけ行ったかなぁ。。。星に興味がないんだな、って思ったのはその時だw。そしてそこでブラついたあと、反対側のハチ公側に渡り、今は無き、東海銀行の横を通り過ぎてセンター街に行ったりしてね…。

 

1992年頃、渋谷で何してたんだろ…w。

 

井の頭線で河合塾駒場校に通ってから帰宅していたなぁ。なんか、もう、五島プラネタリウムとか、東海銀行とか、河合塾駒場校とか、とっくにないものばっかりだな…。


考えてみたら、docomo使い続けて21年目か…。

一番最初に携帯を買ったのは1997年の2月。就活をすると言うので買った。吉祥寺の井之頭通りと吉祥寺通りの角にある携帯ショップで買った。当時は010から始まる番号だった。機種はF201。富士通の携帯だった。それからあとはPシリーズを使っていたなぁ。みんな、PだとかFだとか、好きなメーカーの携帯機種を買ったりしてね。当時はそこまで端末代が高くなかった。090統一されたとは言え、あの頃から今使っているメインの携帯の番号は変わっていない。

 

21年間もdocomoで、同じ携帯番号使っている…。

 

そう言えば、携帯を買った、そのタイミングでポケベルを止めた。ポケベルは東京テレメッセージ使ってたいたな。あの頃は公衆電話から相手のベル番に早く打つために変換表で、パパパッっとプッシュボタン打ってたね…。だから10円いっぱい持っていたし、公衆電話のある場所を沢山知っていた。


ポケベルってw。


歳、食ったなぁ…。
25周年かぁ。。。
つまり高校を卒業してから25周年か…。

どんなところで成長したんだろうな…。
悲しいが自分では分からないもんだな。。。。
このCMを見て、少しだけ悲しくなった。

でも、自分で切り開いていく。
自分のやりたいことがまだ実現出来ていないからね。
この先の人生、まだまだ頑張りたい。

docomoの50周年のCMの時には、まだ働いているかな?
68歳か...。



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