風に聞け

外資系企業に勤めるビジネマンです。時たまアジア・ヨーロッパ映画についても書きます。

よっちゃんの残したもの

2011年06月10日 | 忘れえぬ人々
よっちゃんは、おそらく僕より2歳年上の友達だった。

「ゆーちゃん、あそぼ!」と、いがぐり坊主頭で色黒のよっちゃんは、よく僕の家の前から僕を呼んだ。 よっちゃんは、僕の小学校入学を最も喜んだ人達のなかの一人であった。というのは僕より2年前から小学校に通う彼にとっては、僕の入学によって彼の退屈な学校生活に一つの楽しみができたのだろう。

彼は授業中にもかかわらず、自分の教室を抜け出しては、
「ゆーちゃん、なにしてんのん、あそぼ!」と、廊下の窓から授業中の僕の教室にそのいがぐり頭をのぞかせた。 僕の担任は、その年初めて教職にいた優しい女先生だった。
「よっちゃん、自分の教室からでてきたらあかんやないの」と言いながらも、そんな彼のために僕の席のすぐ横に机と椅子を用意し、一日中彼をそこに座らせて授業を続けた。

本来彼のいるべき場所は、当時特殊学級と呼ばれる障害をもった子供たちを集めたクラスであった。しかし、厳密に言えば障害をもつ子供もいたが、その何人かは複雑な家庭環境に育ったゆえに何がしらのハンディーを背負った子供たちであった。彼はそのような環境の一人で、他の一般の子供達にとっては、アウトロー的な存在の一人でもあった。

彼は僕と遊ばない時は、いつも一人で遊んでいたようだ。彼は、高度経済成長初期の当時まだ完成したばかりの名神高速道路の高架下に彼の隠れ家をもっていた。そこで彼が一人でする遊びといえば、拾った煙草を吸うなど、あまり子供らしい遊びではなかったが、人を傷つけるような遊びでもなかった。 当時まだ僕も小学校の1-2年生であったが、何度か彼に誘われるままに煙草を吸ったことがあった。彼にとっての煙草は、同じような環境にいる多くの子供達のように、煙草を吸う今の自分に、その環境から自立し抜け出した自分の姿を、重ねる手段であったのであろう。見よう見まねで煙草を吸った僕に、彼はとても嬉しそうにしていたことを思いだす。

僕は、やがて成長するにしたがい、よっちゃんと二人で遊ぶより、他の多くの子供たちと野球などのゲームをして遊ぶことを好むようになった。時々よっちゃんはそんな僕に付き合い、他の子供たちと共に遊んだが、彼は野球などのゲームがあまり上手くなかった。次第に僕は、そんな不器用な彼に苛だちを感じるようになっていった。それでも彼は、そのいびつで人懐っこい笑顔を僕に向けることを忘れなかった。

やがて僕達も時とともに成長した。そして、よっちゃんは小学校卒業と同時にに寄宿生活の施設に入れられてしまった。 しかし、彼は何度かその施設を逃げ出しては街に戻ってきた。僕は一度だけ覚えている。その日が僕がよっちゃんに逢った最後の日だ。

施設から逃げ出した彼が最初に訪れた場所は、僕の家であった。彼の家は僕家のすぐ前であったにもかかわらず、家によらず直接僕の家に来て、
「ゆーちゃん、あそぼ」といって以前とか変わらぬ声で僕を呼ぶのだった。
「よっちゃん、どうやって帰ってきたんやあ?」という僕の質問に、彼は
「線路ぞいに歩いて 帰ってきてん。」
「家に帰ったんかあ…あかんやないか…おこられるでえ…あほちゃうかあ…どこにおるんや今。」 僕はそんな彼にいらいらして聞いた。

どうやら近くの神社の軒下で寝泊まりをしていたらしいことや、施設から線路沿いに何キロも歩いて帰ってきたことは、のちに彼が施設に引き戻されたことを、大人たちが話している時に聞いた。その日を最後に僕はよっちゃんに逢っていない。

色々な友達がいたが、彼の存在は僕に何か大きなものを残していった。当時の彼は、僕の好きな友達ではあったが、少年時代の成長過程にあって、次第に色々な友人との付き合いを覚えてゆく僕にとって、なにかうざったく重荷な存在になっていった。しかしそれにもかかわらず彼はひたすら僕を慕い続けてくれた。

ずっと後になって、僕が高校生になったとき、よっちゃんの家庭の複雑さを知ることができた。彼の母親はよっちゃんが生まれるずっと前、娼妓であったらしいことも。

長い時の流れを経た今になっても、彼の事を時折思い出す。よっちゃんがなぜ僕のことをあんなに慕ってくれたのかは僕にはわからない。ただ、彼はどういう態度を示す僕であっても、すべての側面において受けとめてくれた。

今になって想うことは、彼が私に教えてくれたこと、与えてくれたことの多さである。それは、「ゆーちゃん、あそぼ」という、彼の人懐っこい声といがぐり頭の笑顔の記憶とともに、鮮やかな記憶として残っている。

「最高の贈り物は、あなたの一部を分け与え ること」
ラルフ・ウォルド・エマーソン

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幸せ探し

2010年07月02日 | 心の旅
「人間の最上の財産は、あなたの足元にあります」 (ホーソン)

子供の頃、四つ葉のクローバーを家にもって帰ろうと必死になって探したことがある。
結局、見つからなかったが、ある時、偶然それを見つけた。沢山の同じ色の三つ葉の中に混じって、ぽつんとそれはあった。

そこは「一度みたはずの場所」だった。

大人になり、必死で働いた。少しでも上にいきたい。何かを買いたい、欲しいモノは何でも手にいれたい。人の上にたちたい。しかし、いくら頑張っても幸せな気分など味わったことがなかった。

遂に病気になり全てをうしなった。地の底に落とされた。二度と立ち上がれないと思った。「絶望」という気分を初めて味わった。

しかし、そこで見たものは「世間 が基準にしている幸せ・・・物、お金、環境、会社では自分は幸せになれない」という真実。決して満たされることがない。幸せは心に育てるもの。教えられてえた知識、常識、世間体、そんなものは基準にならない。

自分の心の奥底から聴こえてくる声。それは子供の頃の自分。

それが教えてくれる。幸せはすぐ近くにある。

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竹野先生のシャツ

2010年06月27日 | 忘れえぬ人々
小学校入学と同時に、僕の通っていたA市内の市立小学校の花形だった「ブラスバンド」に、なんにも考えずに、「ほれ、しゅしゅしゅ・・・」と入ってしまった。

しかしながら、なんせこの担当の竹野先生が熱血で、神戸の北区の遠いところから、通勤。そして、毎朝7時から練習開始。噂によると先生は片道2時間かけて、学校に通っていたらしい。 日曜日以外は、夏休みも、冬休みも、春休みも、毎日毎日練習で。あまりのハードさに耐え兼ねて「せんせい、僕(or あたし)辞めます。」など言おうものなら、「バシーーーーン!」とそのオーケストラ・タクトでお尻を叩かれて・・・。それを目にした僕は、びびってしまい、とうとう5年生まで、虫の吐息で続けてしまった。

朝もたとえ5分でも遅刻をしようものなら、タクトでバシーン!何度やっても、思いどうりに演奏できないものなら、タクトでバシーン!・・・とにもかくにも、厳しいT先生であった。

しかし先生は、僕らを大人に接するように接した。 僕はその先生の事を今でもはっきり覚えていることが、ひとつある。竹野先生の来ているシャツは、きれいに洗濯されているのだが、いつも同じだったことである。情熱家の竹野先生のとても厳しい練習でつらいものもあったが、その同じシャツを見ていると、先生の何かとても質素な部分が感じられ、とうとう辞めますの一言が言えず、小学校のほとんどの期間を終えた。

子供だったので、よくわからなかったが、先生は周りの先生からは、あまりよく見られていなかったようだ。ときおりT先生支持派の父兄の話を盗み聞きしたところでは、あまりの情熱家であったため、まわりの先生から、なにやらやっかみみたいなものが存在していたようであった。しかし、こどもだったのでよくわからなかっが、大人になって今考えると、社会ではそういう状況に置かれることが多くある。集団としての和を尊びすぎるあまり、情熱をもった人々を企業は見殺しにしてしまう。

練習はとても厳しく、ほとんど笑わず、常に厳しい接し方をする先生であったが、春休みや夏休みには必ず、こども達を集め、有志の先生方と、僕らをハイキングに連れていってくれた。そういう時の先生は、普段では見られない笑顔で、とても楽しかった記憶として残っている。 とにもかくにも、めちゃちゃくちゃ厳しい先生であったが、先生を悪く言う子供はおらず、僕らは強い絆でつながっていたように思
う。

僕が、5年生になったと同時に、先生は転勤で別の学校に移動となった。先生のいなくなったブラスバンドは、自然と消滅してしまい、僕の小学校生活の最後の1年は、早起きをせずに済んだのだが、めちゃくちゃ寂しかったのを今でも覚えている。

人間を育てるというのは知識を詰め込むだけではできない。本当に必要なのは、竹野先生が教えてくれたように、その人の魂の奥底に灯をともすことである。

「教育とは、バケツを満たすことではなく、火を燃えあがらせることである」 ウィリアム・バトラー・イーツ

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まだ見ぬ世界へ

2010年05月30日 | 心の旅
「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」
寺山修司

過去と現在 はつながっている。
現在は過去からの延長だ。
しかし、人は「未来も含め」それが一枚のキャンバスに、
色が描かれたように見がちだ。
違っている。

現在と未来は、全く別。
未来というキャンバスはまっ白。
僕たちは好きな色をそこにおける。

たとえ今日、違う色を描いしまったとしても、
明日はまたまっ白なキャンバスが準備されている。
毎日、僕たちは好きな色を描ける。

嘆く必要はない。
毎日毎日新しい24時間がすぐ目の前にある。

僕たちには素晴らしい未来が待っている。
既に見たものでなく、まだ見ぬものを見てみよう。

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花売り娘とレディー

2010年05月28日 | 風のふくままエッセイ
人はいかに遇されるかによって、その人物になってゆくのである。 (ゲーテ)

オードリー・ヘップバーンのミュージカル映画「マイ・フェアレディー」 街の花売り娘だったイライザは、ヒギンズ教授のもと言葉をならう。

言葉だけでなくレディーとしての振る舞いも身につけ、ついには舞踏会にデビューするまでになる。

その大成功に喜ぶヒギンズ教授。しかし、イライザはいつまでも小娘のように自分を扱う教授に失望し、教授の屋敷を出てゆく。

彼女を迎えに行った教授に対して、イライザは言う。
「花売り娘とレディーの違いは、どう振舞うかではなく、どう扱われるかなのです」

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アトムは何処へ行った

2010年05月27日 | 風のふくままエッセイ
今のように、おもちゃというものに多くの選択肢はなかったし、多くのおもちゃを持っている子供などあまりいなかった時代。 時折、家族で出かけた際に、
「おもちゃ買ったろか?」 との両親の問いに対しても、
「ううん。いらへん。ぼく欲しくないねん。」
おそらく、両親の生活事情を、子供なりに感じ取っていた答えであろう。 いつも同じ答えであったそうである。

ひとつだけ両親の記憶にもあるおもちゃがある。それはセルロイド製のアトムの人形で、幼稚園児が大きく手を広げて、抱きかかえるくらいの大きさのものであったらしい。両親とっては、思い切った買い物であったのではないかと思う。

それが、折角買ってもらった数日後には、どこかへ行ってしまった。
「どっかに忘れてきたんちゃうの?」 という母の問いかけに対して、
「わかれへん」
僕は、どこかに忘れてきたのか、誰かに取られたのかすら、まったくわからない様子で、ただそう答えたそうである。

そんなやりとりを、横で見ていた父が言ったそうである。
「どこか、遠く
の空に飛んでいったんちゃうかあ?・・・」

その後の僕は、笑みを浮かべ、ぶつぶつと独り言を言いながら、毎日のように、窓から空を見上げていたそうである。

今でも、そのセルロイド製のアトム人形は僕の中に生きている。

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「ラブレター~パイラン(白蘭)より」 【韓国】

2010年05月27日 | アジア映画
浅田次郎の短編小説「ラブ・レター」を原作と する韓国映画。ガンジェ演ずる俳優は「シュリ」で有 名なチェ・ミンシク。ヒロインのパイラン役には香港 女優のセシリア・チャン。まだ、今の韓流ブーム前の 作品。今日の韓流ブームの中でも、この作品は何故かほとんど語られることがないようだ。それは物語のパイランのように、映画自体もひっそりと存在している。

人は、自分以外の人を通じて自分を振り返るときがある。自分の力だけではどうしようもなく、変えようもなかった日々のくらし・・・それが他の誰かとのほんの僅かな接点で変わってゆくことがある。そして、そんな僅かな接点が積み重なって今の自分があるのかもしれない。

三流やくざでどうしようもない屑のような生活を送るガンジェ(チェ・ミンシク)のもとに、ある日訃報が届く。それはかつて金欲しさのために偽装結婚した中国人女性パイラン「白蘭」(セシリア・チャ
ン)の死の知らせだった。 彼女の顔すらも知らないガンジェだったが、遺体を引き取りに彼女が暮らした海沿いの小さな町を訪れる。 そこにはパイランが、病のもとで書いたガンジェ宛ての一通の手紙が遺されていた。病と闘いながら必至に働いて言葉を覚えていったパイランの最後の手紙。そこにはカンジェへの、素朴で純粋な気持ちが切々と綴られていた。

***

カンジェさんへ
この手紙を読んだとしたら、
私に会いに来てくれたんですね
ありがとう。

でも、
私は・・・ きっと死にます。
短い時間でしたがカンジェさんのやさしさに感謝してます。

私はカンジェ さんのことをよく知っています
忘れないために写真をみているうちに、
カンジェさんのことを好きになりました

好きになったら、
今度は寂しくなりました
一人で過ごすのがとても寂しくなりました
ごめんなさい。

写真の中のあなたはいつも笑ってます
ここの人たちはみんな優しいですが
カンジェさんが一番やさしいです。

カンジェさん
私が死んだら、
会いに来てくれますか?

もし許してくれるなら、
ひとつお願いがあります。

あなたの妻として死んでもいいですか?
勝手なお願いでごめんなさい。
私のお願いはこれだけです。

カンジェさん
あたなにあげるものが何もなくてごめんなさい

この世界の誰よりも・・・・
愛してる
カンジェさん 
さようなら 

***パイラン最後の手紙***

中国人孤児のパイランは、韓国の親戚を訪ねたもののすでに海外に移住してしまっていた。途方にくれた彼女は、就労のためにやむを得ずカンジェと偽装結婚する。そして、海沿いの小さな町で職を得ることができた彼女は、結婚書類作成の際に渡された1枚のカンジェの写真を見ながら、彼への感謝の気持ちと想いをもって毎日を生きていた。

一度も逢うこともなかったパイランの遺した手紙を通して、欠陥だらけの自分の人生と自分自身を振り返り変わってゆくカンジェ。そして、孤独で不遇な身でありながらも素朴でけなパイランの姿。そして、ラストシーンではカンジェへの想いを綴った手紙がパイラン(セシリア・チャン)の麗しい声で静かに読み上げられる。

また、それを演じるセシリア・チャンの可憐な美しさに引き込まれるだ。

人はひとつの曇りもない美しさに触れたとき浄化される。それがこの物語の主題であり、パイランのけなげな美しさと、それに触れたカンジェが悟る姿に心打たれる。そしてそれはスクリーンのなかのカンジェではなく、この物語に触れた自分自身もだ。

見終わった後も、その切ないラストシーンの余韻が永遠に心に残りつづける至極の名作のひとつ。

by yan...xxxyanxxx@mail.goo.ne.jp

コンパス

2010年05月27日 | 忘れえぬ人々
子供の頃、小学校の3年くらいだったと思う。ぐれかかったことがある。 怪我をして数ヶ月学校を休んだ後、学校に行くと、授業は遥かに進んでいて、世界はすっかり変わっていた。怪我をする以前のその場所での僕は、比較的勉強もでき、運動、美術なんでもでき、そこは自分の思うがままの世界だった。それが、数ヶ月という空白の時間は、僕を遠い場所に置いていってしまった。

授業の合間、何をいっているのかわからないまま、空虚な時間がすぎてゆく。そんな生活は僕を次第に非行という方向に連れていった。そして、何度か補導もされた。

ある日、学校帰り、一人近くの市場をなんということもなく、ぶらぶらしていた時のことだ。果物屋にならぶ色とりどりの果実、肉屋のおじさんの量り売りの姿、豆腐屋の水に浮かぶ豆腐、そんな市場の光景を眺めながらぶらぶらしたあと、小さな文具屋にはいった。 そこには、色とりどりの鉛筆やノート、筆箱、そんなものが並んでいた。それらを手にとっては眺めたりしていた時、ひとつの銀色のコンパスが目にはいった。

コンパスは使ったことはなかたが、それが正円を描く道具だということは知っていた。手にとってみるのは初めてだった。 僕は、そっとそのコンパスを手にとってみた。

金属製のコンパスは子供僕の手に、程よい重さに感じられた。先端部の針、そしてもう片方の先端部の芯、開いたり閉じたりしてみた。 そして次の瞬間、 僕は文具屋のおじさんがこちらを見ていないことを確
認し、自分のポケットに入れ、その文具屋を出た。

誰もみていない。

そのはずなのに、市場の中のすべての人が自分をみているような感覚。自分の心臓の鼓動が全身に振動してゆくのを感じながら、その市場を逃げるようにして去った。 家に帰った後も、心臓の鼓動に押しつぶされそうになりながら、つまかってしまうのではないかという恐怖感。いや、誰にもわからないという自分への返答・・・・そんなことを考えながら、盗んだコンパスをポケットからとりだし、じっと眺めた。やがて、その鼓動もおさまっていった。

落ち着きをとりもどした僕は、誰もいない部屋で、そのコンパスで白い画用紙に初めての円を描いた。 そして、その円をずっと眺め続けた。その円の中の空間が僕を閉じ込めてしまったかのような感覚で。

xxxyanxxx@mail.goo.ne.jp

ため息ではなく

2010年05月26日 | 心の旅
「人にはどんな状況でも、その状況に対する自分の反応を、自ら選択できる自由が与えられています」(ビクターフランクル:「夜と霧」「それでも人生にYESといおう」 の著者。ナチスのユダヤ人収容所での体験をへて世界的な心理学者となる )


ため息ではなく
感謝の言葉を

苦悩ではなく
安らぎを

努力ではなく
休息を

責めるのではなく
理解を

どんな時も
感謝と安らぎを

そして
自分のなかに染み付いた
反射的反応を拒否し
自らの選択によって生きる道を

こんな気持ちで毎日を過ごせたら、どんなに素晴らしい人生を生きることが出来るだろうか。

by yan ... xxxyanxxx@mail.goo.ne.jp

人の心  ジョバリの窓

2010年05月25日 | 心の旅
この世で一番遠い場所は、自分自身の心である。(寺山修司)

心理学で、「ジョハリの窓」というものがある。人は「様々な自分」というものをもっていいて、「ジョハリの窓」によれば人の心には、四つの領域があるという。

A「開いた窓」 自分にも、他人にもわかっていて、自然にふるまえる領域。
B「隠した窓」 自分ではわかっているが、他人には隠している領域。
C「盲目の窓」 他人からは見えるが、自分自身が自覚していない領域。
D「暗い窓」  自分にも他人にも分からない領域。

人は、人の心を知ろうとしてする。理解しようとする。理解しているつもりになったりする。 でも、ほんとにわからないのは、ほかでもない「自分自身」だ。 人は、人の心を知ろうとして、迷路に入り込む。そしてその迷路の中で、ふと立ち止まって自らのことをも同時に思う・・・本当の自分とは何なんだろう・・・答えは永遠に出てこないかもしれない。

「窓」から顔をだす人の心は、 一瞬一瞬ごとに変化している。 それを捕まえようとすることは、降る雪の結晶を掴もうとして、手のひらに溶けた滴(しずく)に似ている。

by yan...xxxyanxxx@mail.goo.ne.jp

『周庄』、運河の老人

2010年05月23日 | アジア悠々~アジアを想う
『周庄』は、運河の街である。東洋のベニスのようだと呼ぶ人もいる 街のいたるところを流れる運河、そこを行き交う小舟、運河沿いにならぶ柳の並木、茶館の格子窓。そして、石畳の路が街中に続く。何百年と変わらぬ風景の中に人々が暮らしている。昔見たような風景と香りがこの小さな街には漂っている。

上海から車でわずか90分の距離にある街であるが、高層建築の並ぶ大都会・上海と比べ、人々の時間はとても静かだ。 そんな「周庄」
の運河沿いの道を歩いていると、一人の「魚売りの老人」を見つけた。 急激な経済発展、日々豊かになる人々の生活。そんな中国の中にも、それらとは無縁のまま、毎日を暮らす人の姿がある。 世界中のほとんどは豊かさとは無縁に暮らす人々。

普段の生活をしているとそのことを、忘れてしまっている。「日常生
活」から離れ、「非日常」である旅先でこういった人々を見かけた時だけ、こんなことを考えたりする。しかしながら、そんな彼らにとっては、これが彼らにとっての「日常生活」なのだ。 カメラのファインダーの中の彼は、石畳の道端にだまって座りただ一点をじっと見つめていた。それは、まるで何百年もそこに座り続けている油絵の中の老人のように。

もう、あれから4年がたとうとしている。あの老人は今でもあの石畳の道端に座っているのだろうか。

by yan...xxxyanxxx@mail.goo.ne.jp

それは別の意味

2010年05月22日 | 心の旅
「思い出は、人間の最も偉大な財産である。」(ピート・ハミル)

思い出と共に生きる。それは過去ばかりを見て生きている後ろ向きの言葉かと思うことがあるだが、それは違う。

日々の生活はささやかな人との接点の連続だ。生きているということは人との関わりをなしにはありえない。

思い出の中には、楽しいものもある。それとは逆に辛く悲しいものもある。

今までの自分自身の人生の歩みのひとつひとつが、人生のアルバム写真の中にスナック写真として貼られている。

時々そのアルバムを眺めるのもよいものだ。その時点では辛く哀しい思い出であっても、時間の流れとともに、それが別の意味をもっていたことに気づくことがある。

by yan...xxxyanxxx@mail.goo.ne.jp

旗 (第一部)

2010年05月22日 | 忘れえぬ人々
今から六年前の八月。急にアメリカへの帰国が決まったフレッドから、あることを頼まれた。
 「アメリカへ帰国する前に、どうしてもこれを持ち主に返したいんだ。」

彼が僕に見せたものは、第二次世界大戦時に作られたと思われる絹製の国旗だった。その日の丸の周囲には、戦場へ赴く若者へ送る多くの人々のメッセージが書かれていた。

フレッドは僕より2歳上のアメリカ人だ。だから、彼が、直接この絹の旗を手にいれたわけではない。彼が日本へ初めて来たのは、20年前である。その絹の旗は、彼の祖父からその時手渡されたものだった。

「フレッド。わしはこの旗をなんとしてでも、持ち主のもとに返してあげたんだ。だが、わしはもう長くない。だから、自分の手でこれを返すことはできないだろう。でも、お前ならいつか持ち主を探しだせるかもしれない。日本へ行ったら、持ち主を探して、返しておくれ。頼んだよ・・・。」

フレッドの祖父は癌だった。彼は孫のフレッドに自らの想いを託したのだった。しかし、彼の祖父は、その絹の旗をどこでどのようにして手に入れたのかを、決して語ることなく亡くなってしまった。

僕らは、その絹の旗に書かれてある○○神社という名前を手がかりに探すことにしたが、フレッドが帰国するまでの残り時間は10日あまりしかない。僕には、それがとてつもなく気の遠くなるようなことに感じた。

しかし、インターネットで、それらしき神社が熊本県に存在するということがわかったのだ。だが同時に、フレッドはあることも心配していた。

その絹の旗に名の書かれてある奥さんと思われる女性は、今では別の人生を歩んでいるかもしれない。彼がコンタクトすることによって、今の生活を乱すことになるかもしれない。突然アメリカ人が尋ねてきて、どのような反応を示すのだろうか、というような事だった。

そんな心配はあるものの、我々は思い切ってその○○神社に電話をかけ、そのような事情も含めて説明しすることに決めた。我々は、ただこの旗を持ち主のもとへ届けたいだけなこと、そしてその行為が持ち主の人生を傷つけてしまうような事態になる可能性があるのであれば、あきらめるつもりであることも。

最初に、○○神社へ電話をしてから約7日目。先方から連絡があった。事情を説明しておいた○○神主からの電話であった。それは、フレッドが帰国する3日前のことだった。

「みつかりましたよ。奥さんは今もご健在です。大変驚かれています。それと同時に、はやりご心配されていました。でも、旗は返せますよ。」


当日の熊本は、その年の国体の開催地ということで、その開催前日と重なり、東京からの直行便が取れず、我々は早朝の羽田発・福岡行の飛行機に乗り、そこからローカル線を乗り継いで目的地まで行かなければならなかった。フレッドの帰国2日前ということもあり、東京と熊本間を日帰りしなければならないという強行軍の旅でもあった。

僕らは、早朝の羽田発福岡行きの飛行機に乗り、そして福岡からローカル線に乗り継ぎ熊本へと向かうことしにした。その旅の間、普段は陽気なフレッドがずっと無口だった。そして時折思い出したように、「奥さんは喜ぶだろうか?迷惑なことじゃないだろうか?アメリカ人に突然こんなものを渡されて彼女を傷つけはしいないだろうか?」、と僕に問い掛けた。

彼は旅の途中、何度も同じ質問を繰り返した。

「大丈夫。きっと喜ぶよ。心配することはない。」その度に、僕は自分自身の内にもある同じ不安感に気づかれないように、彼に言った。

それは、とても夏の陽射しの強い日だった。

•••続く

旗 (第二部)

2010年05月22日 | 忘れえぬ人々
対面の場所は、○○神社のある○○村役場に設定されていた。半日以上をかけた長い旅を終え、ようやく○○村役場に到着した僕らを待ちうけていたのは、○○神社の神主○○さんだった。そして僕らは、到着するなりすぐさま、助役室へと案内された。

「わざわざ遠いところまでお越しくださって、ありがとうございます。役場の助役が今日は助役室を提供してくれていますので、早速、ご案内します。」

「中にはもう、奥さんが来ていらっしゃいます。」助役室の前で、神主○○さんはフレッドにその扉を開けるよう促すように云った。

フレッドは、ゆっくりとそのドアを開た。開けられた扉から広がる助役室には、凛とした一人の小柄な老婦人が立っていた。

 フレッドは、彼女の姿を見た瞬間、今までの長旅の心配事がまるで嘘であるかのように、とても豊かな微笑みを浮かべながら、ゆっくりと彼女のもとへ近づいていった。その老婦人はただ無言のまま涙を浮かべた目で、次第に近づく背の高いフレッドを見つめていた。そして、言葉ひとつかわさぬままフレッドは、老婦人を優しくだきしめた。彼女はフレッドの胸で泣いていた。

その部屋にいた者誰もが声を発さなかった。最初の言葉は、彼ら二人が発するものであると誰もがそう感じた。外から聞こえる真夏の蝉の声だけが、二人を包み込んだ。

 
「まぶたを閉じても、この旗のどこに、何が書かれているかはっきりと憶えています。」老婦人は時折こぼれる涙をぬぐいながらその旗の思い出を静かに語り始めた。

この絹の旗は、主人を送り出す宴が終り、二人だけになった夜、渡しましたものです。それは、召集令状が来たその日の夜のことでした。それが二人で過ごした最後の夜です。そして翌日、彼は出兵して行きました。召集されて暫くは、彼は同じ熊本県内の駐屯地にいましたが逢うことは許されませんでした。しかし、いよいよ戦地へと出兵する夜。軍隊の知り合いを通じ、その夜彼が戦地へと旅立つことを聞きました。彼と逢うことは許されないが、彼に汽車の窓をあけておくように伝えておくので、開いている窓があるとそこに彼がいると思いなさいというものでした。

私は、駅から離れた高台から、いつ通るかもやしれない汽車を朝から待ち続けました。待っても待ってもそれらしき汽車はなく結局夜になってしまいました。

そして夜になり、それらしき列車が遠くに見えたのです。そして、その列車の一つの窓から灯りがこぼれていたのです。

私にとって、あの人の最後の姿は、遠くを走る汽車の車窓から洩れる灯りです。その灯りの中にあの人がいたのかどうかはわかりません。でも、私は、あの灯の中に、必ず私を見つめているあの人がいるんだと信じて、線香花火のように儚(はかな)く遠くへ消えゆく夜汽車の灯りに向かって、懸命に手を振り続けました。それは、私が21歳の時でした。

あの人の妻になった、半年後のことでした。

その老婦人は、彼女の膝におかれた「絹の旗」に、その穏やかな眼差しを落としながら、亡き夫との「最後の思い出」を静かに語った。それは時折、蝉の鳴き声の聞こえる八月の午後のことだった。

「随分と迷いましたが、今日ここに来て良かったと思っています。」老婦人は、話を続けた。
「私は、主人を失ったあと、再婚しました。再婚先へは自分が再婚であったことは、今まで、隠してきました。再婚相手はとても良い人で、子供や孫にも恵まれ、幸せな人生を送ってこれたと思っています。その再婚相手も数年前に亡くなりましたが、今も子や孫達に囲まれ、幸せに暮らしています。」

そういいながら、彼女の横に座る、大学生の孫にその穏やかな視線を移した。

「これで、私の戦争は終わりました。ずっと終わらなかったものが、今やっと終わりました。たしかに、辛い記憶ですが、今こうして、こんなに暖かい人に出会え、ほんとうに幸せです。」 我々は、静かに彼女の、話を聞いた。

「ここに来る決心をした時、私は子供や孫達に、私の物語を打ち明けました。今日ここへは、その孫の一人が連れてきてくれました。そして今私は、自分だけのためのだけでなく、孫達のためにも、私の話を伝えておくことが、私の仕事だと思えるようになりました。」

静かに彼女の話を聞いていた彼女の孫は、恥かしそうに微笑み返した。

•••続く


旗 (第三部 完結)

2010年05月19日 | 忘れえぬ人々
熊本から東京への帰路は、羽田空港への便が取れた。○○村役場から熊本空港へは、車で約1時間の旅だ。予定の便に乗るため、我々は空港へと急いだ。だが、空港へ近づくにつれ、周辺道路の警備が厳しくなった。

「おそらく、明日から熊本国体が始まるからだと思う。」私は、フレッドに説明した。しかし、空港へ近づくにつれ、それは何か少し違うように思えてきた。路辺道路には警察・自衛官の数が次第に多くなっていったからだ。

空港に到着すると、そこには誰かを待つ人たちが溢れていた。皆それぞれが小さな国「旗」を持っていた。そしてその理由は、我々が搭乗する予定の熊本から羽田行き便が到着すると明らかになった。

空港ゲートには誰かを待つ人々で溢れかえっている。旅人の我々はその意味が理解できなかったが、人々が笑顔を投げかけているその先の到着ゲートを人々と同じように見守った。

その時である。ゲートから現われたのは、穏やかで優しい笑顔を浮かべながら出てくる皇太子殿下の姿だった。

そしてその瞬間、待っていた人々からは溢れんばかりの笑顔がこぼれ、割れんばかりの歓声が空港中に沸き起こった。フレッドもとても幸せそうな笑顔を浮かべながら小旗を振っていた。

その夏のその日、その瞬間、快晴の熊本空港には、無数の「小さな旗」が、「幸せと平和の象徴」としていつまでも揺れていた。

「 不幸な物語のあとには、かならず幸福な人生が出番をまっています。」(寺山修司)

***あとがき***

あまりにできすぎた話で、今思い返すと、それは僕が観た夢物語ではなかったかと錯覚を起してしまう。だが、これは事実として僕がみた真実だ。
 
時代の潮流にその人生を狂わされてしまった一人の老婦人と、異国の地で命を落としたその夫との哀しい最期の思い出。生きて帰ってきてほしいという祈りを込めた絹の旗は、その願いも届かず敵国であったアメリカ人の手に渡ってしまう。それが、半世紀以上という時の流れと、二つの世代を超えて、その旗は遥か海を渡って、再び持ち主のもとへ帰ることになる。

戦争という悲劇の嵐に巻き込まれた勝者と敗者、当事者とされた天皇のそれぞれが背負った悲しみは、その孫達に平和というバトンで手渡される。

この日、かつて哀しみの象徴であった旗は平和の象徴として揺れていた。

不幸と幸福、哀しみと喜び、祈りと失意。人の人生というものは長い視線でみると、その運命というもののなかのどこかに帳尻があわせるような方程式が隠されているのかもしれない、と僕は思う。

•••長い文章を最後まで読んでくれて有難う。
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