◎末松太平事務所  (二・二六事件関係者の談話室)

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

29.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」  軍人勅諭と蹶起主意書 池田俊彦さま

2017年07月12日 | 今泉章利
29.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」  軍人勅諭と蹶起主意書 池田俊彦さま

なぜ二・二六事件はわかりにくいのか。
鬱陶しい日が続き、なんとも体調がすぐれない。70歳を前に、身体が馬力の落ちたエンジンのようですといっても、今の元気のいい若い人には、ピントこないだろう。今の車は古くなっても馬力は落ちないのである。
今は、製造技術が発達して、価格も安いので、十分に動いているエンジンを積んだの車を廃車にするのに何の抵抗もない時代だ。無理もない。昔は、車はとても高級品であったから、エンジンの馬力が落ちたらエンジンを取り出し、シリンダーの機械加工やピストンリングの交換などをした。私の子供頃の人々は、虎の子の車をいたわり使っていた。しかし、こんなことが、つい昨日のことでも、今の若い人にはまるで通じない。そんなことを喜んでやる自動車修理職人などもいつの間にかいなくなってしまった。逆に、今常識である出来事が、20年もすれば、すぐにわからないことになってしまう。心しなければならない。
二・二六事件もまったく同じようである。
事件を起こした主意は、「蹶起主意書」に書かれている。とはいえ、難しい言葉がならび、国語辞書を引くのも嫌になる。いやになると解説本を探す。しかし、その解説本が解説になっていない。書いている人の理解が浅いのである。
しかし、私は、この趣意書が、軍人勅諭に呼応していることに、最近気がついたのである。 解説はともかく、まずは明治15年(1882年)に書かれた軍人勅諭を、次に、その54年後に書かれた昭和11年(1936年)に書かれた蹶起主意書をいきなり読んでいただきたい。そこには、半世紀以上も、軍人勅諭を胸に刻み、大元帥である天皇の統率される兵として精励刻苦、全力を尽くしてきた軍人の姿が浮かんでくる。
そして、日清日露をへて、歴史が移り、様々な国際問題、国内問題をが「昭和11年」をいただくように高まり、蹶起主意書が、かかれるのである。明治憲法は、欽定憲法にて「侵すべからず」しかし、近代自由主義からの、法匪、官匪、持てるものと持てざる者の差は広まり、「矛盾は国の命運」を左右するまでに深刻となっている。

(1)陸海軍軍人に賜はりたる勅諭(軍人勅諭)(明治15年、1882年)

我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある.
昔神武天皇躬(み)つから大伴物部の兵(つわもの)ともを率ゐ,中國(なかつくに)のまつろはぬものともを討ち平(たひらけ)け給ひ高御座(たかみくら)に即かせられて天下(あめのした)しろしめし給ひしより,二千五百有餘年を經ぬ。此間(あいだ)世の樣の移り換るに隨ひて,兵制の沿革も亦(また)屡(しばしば)なりき古(いにしえ)は天皇躬(み)つから軍隊を率ゐ給ふ御制(おん おきて)にて時ありては皇后皇太子の代(かわ)らせ給ふこともありつれと,大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき。中世(なかつよ)に至りて文武の制度皆 唐國風(からくにぶり)に傚はせ給ひ、六衞府を置き左右馬寮(さうめりょう)を建て防人なと,設けられしかは,兵制は整ひたれとも打續ける昇平(しょうへい)に狃(な)れて朝廷の政務も漸(ようやく)文弱(ぶんじゃく)に流れけれは、兵農おのつから二(ふたつ)に分れ古(いにしえ)の徴兵はいつとなく壯兵の姿に變り、遂に武士となり、兵馬の權は一向(ひたすら)に其武士ともの棟梁たる者に歸し、世の亂と共に、政治の大權も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ

世の樣の移り換りて斯(かく)なれるは人力(ひとのちから)もて挽回すへきにあらすとはいひなから、且(かつ)は我國體に戻り且は我祖宗(わがそそう)の御制(おんおきて)に背き奉り浅間しき次第なりき。降(くだ)りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政(そのまつりごと)衰へ、剩(あまつさえ)外國の事とも起りて其侮(そのあなどり)をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖(おほじのみこと)仁孝天皇皇考(ちちのみこと)孝明天皇いたく宸襟を惱し給ひしこそ忝かたじけな)くも又惶(かしこ)けれ。

然るに朕幼くして天津日嗣(あまつひつぎ)を受けし初(はじめ)、征夷大将軍其政權を返上し大名小名其版籍を奉還し、年を經すして海内(かいだい)一統の世となり古の制度に復しぬ。 是文武の忠臣良弼(りょうひつ)ありて朕を輔翼(ふよく)せる功績なり
歴世祖宗の專(もはら)蒼生を憐み給ひし御遺澤(ごゆいたく)なりといへとも、併(しかしながら)我臣民の其心に順逆の理(ことわり)を辨(わきま)へ 大義の重きを知れるか故にこそあれされは 此時に於て兵制を更(あらた)め我國の光を耀(かがや)さんと思ひ此(この)十五年か程に 陸海軍の制(せい)をは今の樣に建定(たてさだ)めぬ
夫兵馬の大權は朕か統(す)ふる所なれは其司々(そのつかさつかさ)をこそ臣下には任すなれ 其(その)大綱は朕親(みずから)之を攬り 肯(あへ)て臣下に委ぬへきものにあらす 子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して 再(ふたたび)中世以降の如き失體なからんことを望むなり
朕は汝等軍人の大元帥なるそ されは朕は汝等を股肱(ここう)と頼み汝等は朕を頭首(とうしゅ)と仰きてそ其親(したしみ)は特に深かるへき 朕か國家を保護して上天(しやうてん)の惠に應(おう)し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも 汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし
我國の稜威(みいつ)振はさることあらは 汝等能く朕と其憂(うれひ)を共にせよ 我武維(これ)揚(あが)りて 其榮を耀さは 朕汝等と其譽(ほまれ)を偕(とも)にすへし 汝等皆其職を守り朕と一心になりて 力を國家の保護に盡さは 我國の蒼生は永く太平の福を受け 我國の威烈は大(おおい)に世界の光華ともなりぬへし
 (以下略)

2.蹶起主意書 (昭和11年、1936年)

謹んで惟(おもんみ)るに我が神洲たる所以(ゆえん)は万世一系たる 天皇陛下御統帥(とうすい)の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇(はっこういちう)を完(まっと)うするの国体に存す。
此(こ)の国体の尊厳秀絶は天祖肇国(ちょうこく)神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方(まさ)に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋(とき)なり。

然(しか)るに頃来(けいらい)遂に不逞凶悪の徒簇出(ぞくしゅつ)して私心我慾(がよく)を恣(ほしいまま)にし至尊絶対の尊厳を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)之れ働き万民の生成化育を阻碍(そがい)して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随(したが)つて外侮外患日を逐(お)うて激化す、所謂(いわゆる)元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。

倫敦(ロンドン)〔海軍〕軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃(せんせつ)を図りたる三月事件或(あるい)は学匪(がくひ)共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にしてその滔天(とうてん)の罪悪は流血憤怒真に譬(たと)へ難き所なり。
中岡、佐郷屋(さごや)、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰(ふんとう)、相沢中佐の閃発となる寔(まこと)に故なきに非ず、而(しか)も幾度か頸血(けいけつ)を濺(そそ)ぎ来つて今尚些(いささ)かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安(こうしょとうあん)を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲(いってき)破滅に堕せしむは火を賭(み)るより明かなり。
内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(ちゅうりく)し稜威(みいつ)を遮り御維新を阻止し来れる奸賊(かんぞく)を芟除(せんじょ)するに非ずして宏謨(こうぼ)を一空せん

恰(あたか)も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍(えいじゅ)の我等同志は、将(まさ)に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡〔世〕状に憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。
臣子たり股肱(ここう)たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪(ちんりん)を飜すに由なし、茲(ここ)に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅(ちゅうめつ)して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭(つく)し以つて神洲赤子の微衷を献ぜんとす。 
皇神皇宗の神霊冀(こいねがわ)くば照覧冥助(めいじょ)を垂れ給はんことを


 昭和拾壱年弐月弐拾六日  陸軍歩兵大尉 野中四郎 外同志一同



この事件を理解するには、明治憲法において、天皇が統帥権を有して軍隊を率いていたこと、そして半世紀以上も、毎日、この勅諭を復唱する軍人を、理解することが必要である。

歩一の陸軍少尉、池田俊彦さんが、法要のとき何の挨拶も抜きに、胸から取り出した蹶起主意書を大きな声で、読まれた時の横顔をのを思い出す。 
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