偽りの絶歌〜遺族の損害賠償訴訟が酒鬼薔薇聖斗の実名住所を剥ぐ⇒対A手記から飛び出る暴露事実

2015年06月23日 15時27分15秒 | Weblog
20005文字数

[A+A両親]との賠償額
▼第2の事件=山下彩花(死亡)・山下京子(母)への慰謝料=8000万円[1999年示談成立]
▼第2の事件=女児(生存)=刃渡り13cmのナイフで腹部刺され2週間のケガ=2000万円[1999年示談成立]
▼第3の事件=土師淳(死亡)・土師守への民事訴訟賠償額=1億4000万円[1999年判決]⇒Which1億4000万円or1億420万円裁判記録調査中です

➊男性Aの両親が1999年に出版した
《『少年A』この子を生んで…父と母悔恨の手記》(文藝春秋)
の印税は慰謝料に充てられた、
❷他に当初、A両親が毎月8000円、Aが毎月4000円を遺族に支払っていた。

❸Aの両親は退職金や手記本『「少年A」この子を生んで……』の印税などで、
これまでに約8700万円(2015現在)を返済。
Aの仮退院後も返済を続け〜〜
2015直近で毎月7万円(Aが1万円+両親が6万円)を支払っていた[⇔資料=週刊朝日2015/6/26号・.dotより]。

➽A手記印税≒5000万円=1500円(税抜)×10%×30万部=4500万円
➽14000(1億)+8000+2000=2億4000万円(2億)≒2億円⇔初期賠償総額

20000万円ー8700万円≒1億2000万円⇔賠償総額の残額

当然ながら、Aの必要生活額を超える5000万円の一時収入で
賠償残額に充当せよ!!と+手記出版での慰謝料など損害賠償訴訟裁判はできる

[太田出版=資本金4200万円・設立1985年・社員数23名]=この出版社も被告に
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・絶歌に対し被害者遺族が損害賠償を求める訴訟を起こす案が浮上
・訴訟を起こせば、結果的に被告の実名や住所が公に出る事になる
・遺族に近い弁護士が【元少年Aの住所や名前を把握】している
・この弁護士によると<もっと驚くべき社会復帰後の過去がある>と言う

被害者遺族が訴訟を起こせば……
◆『絶歌』出版の“酒鬼薔薇聖斗”現在の住所・名前が暴かれる日◆
2015/6/18日刊サイゾー(文=ジャーナリスト・片岡亮)

「酒鬼薔薇聖斗」の“現在(名前・住所)”が、公にさらされるかもしれない。

「出版差し止めは難しくても、被害者の遺族がこの本の内容に対し損害賠償を求める訴訟を起こせば、
結果的に被告の名前や住所が公に出てしまうことになる。
いま複数の弁護士が、その動きを後押ししようと動いている」

ある弁護士の情報では、
すでに遺族に近い弁護士が「酒鬼薔薇聖斗」の住所や名前を把握、
遺族の希望さえあれば訴訟を起こせる状況にあるという。

1997年に神戸連続児童殺傷事件を起こした自称「酒鬼薔薇聖斗」は先ごろ、手記『絶歌』(太田出版)を出版したが、
被害者の遺族からは抗議の声が上がっているほか、
著者名が少年法で守られたままの「元少年A」である事や、
ナルシスティックで自己顕示欲が見て取れる内容に、世間からの批判が巻き起こっている。

アメリカではニューヨーク州で犯罪者が、
自らの犯罪行為をネタに出版、販売して利益を得ることを阻止する「サムの息子法」と呼ばれる法律があり、
犯罪行為を商業利用することを禁じている。
同様の法律は他州や世界各国で類似したものが存在するが、
日本ではこれがないため、「酒鬼薔薇聖斗」は出版元の太田出版ともども、堂々と利益を手にできる状況だ。

◆「酒鬼薔薇聖斗」は、
児童の首を切るなど2人を殺害した上、
新聞社に「挑戦状」を送るなど、あまりに残酷な事件を起こしながら、
少年法の適用で罪には問われず、医療少年院を経て2004年に社会復帰した。

社会に守られて更生の道を進んだ元少年犯罪者が、
被害者遺族をさらに痛めつけるような本を出版したことで、
遺族からは出版社に回収要請があった。

しかし、現時点では法的にこれを差し止めることは難しい。

「でも、今回のケースを契機に新しい日本版の『サムの息子法』を作りたいと考える弁護士も少なくないです。
そのために大きな波風を立ててきっかけ作りにしようと話している弁護士もいて、
32歳の酒鬼薔薇聖斗が、少年法そのままの匿名で、
過去の犯罪をビジネスに利用した事に対する報復として、
合法的に著者の現在を白日の下に引っ張り出すための裁判案を練っています」(同)

ネット上には酒鬼薔薇聖斗に妻子がいるなど確証のない話も書きこまれているが、
この弁護士によると
■「それよりも、もっと驚くべき社会復帰後の過去がある」■という。

「これは以前、彼Aを支援していた人脈から漏れ伝わってきた話だそうですが、
それが事実なら更生プログラムの失敗ともいえる話で、世間からの反発はより増すでしょう。
もし、
彼の実名と住所が表になる合法的な手段が取られた場合、
おのずとこの話も暴露されるかもしれません」(同)

◆酒鬼薔薇聖斗は、
本の中で、ネットカフェやカプセルホテルを泊まり歩く生活をしていたと記しているが、
事件を追ったある記者からは
■「退院した直後の時期、セレブの出入りする事で有名な都内の超高級マンションに滞在していた」■という話も聞かれる。

いずれにせよ、
記者の間でも続々と現在の生活についての情報がキャッチされており、
このまま「少年A」でいられるとも思えない状況だ。
「酒鬼薔薇聖斗」は本のあとがきに
「自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい」
「僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの生きる道」
と自己愛に満ちた出版理由を書いているが、
自分の身元が明らかになったとしても、堂々とその姿勢を貫けるのだろうか?

(文=ジャーナリスト・片岡亮)
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《絶歌は幻冬舎プロジェクトチームが祭り上げて作った作品》
ウソの多い虚文となれば、
ダマされて買った人々は皆➽BOOKOFFへ捨て投げ!!

元少年A32が、当初は幻冬舎から出版する計画だった。
幻冬舎の見城徹社長(64)によれば、
・2012年冬に、【元少年A(酒鬼薔薇聖斗)】名で封書が届き、
・2013年にAと対面したと言う。
Aは「本を書きたい」と訴え、執筆が始まった。
〜しかし〜
・2015年に入って見城社長は出版しない事を決断し、2015/3に太田出版を紹介
・酒鬼薔薇聖斗から手紙を受け取った見城徹が、Aと3度会い、
《生活費400万円以上を貸して》太田出版に紹介をした(週刊文春pageタイトル)。

➽幻冬舎=1993設立・資本金3億・社員数81名
見城徹は角川書店をヤメ、仲間5人で1993に幻冬舎を立ち上げた。
➽2009幻冬舎事件=元社員の着服横領,8年間にわたり総額9億円

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少年A手記の影の仕掛人は幻冬舎・見城徹だった!
セコい事に、見城社長はこの出版権をゆずった際に【太田出版からお金を受け取った】とも
2015/6/18LITERA・田部祥太

批判を集めている神戸連続児童連続殺傷事件の元少年Aの『絶歌 神戸連続児童殺傷事件』(太田出版)。
その矛先は、元少年Aだけでなく、版元の太田出版にも及び、ネットにはこんな声があふれた。

「こんな出版社潰せよ、犯罪幇助だろ」
「出版したやつら全員地獄に堕ちる」
「太田出版は許さん!」
「太田出版不買運動」
こうした事態に6月17日には同社の岡聡社長が「釈明文」を発表する事態にまで至ったほどだ。

しかし、実はこの騒動には、出版の本当の仕掛人でありながら、太田出版に押しつけ、マンマと逃げ切った仁がいる。
それが幻冬舎の見城徹社長だ。

「実は『絶歌』は、太田出版ではなく幻冬舎から出版される予定だったのです。

それを幻冬舎の見城社長が途中で出版を降り、太田出版に紹介したということのようです」(出版関係者)
最初の経緯ははっきりしないが、
幻冬舎は数年ほど前、少年Aとコンタクトをとり、それ以降、出版に向けてプロジェクトチームを組んで原稿を完成させていた。

実際、今年2015になり「週刊新潮」がこの動きをキャッチ。
「『少年A』の手記出版を企図した『幻冬舎』への風当たり」(2015/1月29日号)として記事にしている。

この際、幻冬舎総務局は「週刊新潮」の取材に対し、
「出版の予定はなく、元少年やその関係者に接触したこともありません」と回答。
また、見城社長本人も「万万が一、予定があったとして、出したらいけないの?」と否定、
「大体、手記を出したところで、売れないって!〜」などと語っている。

しかし、幻冬舎や見城社長がどう否定しようが、
実際「元少年A」の手記は幻冬舎でつくり、
その後に、見城社長が太田出版に持ち込んだようだ。

この経緯に詳しい出版関係者がこう証言する。
「幻冬舎で「元少年A」の手記出版に向け動いていたのは間違いない。見城社長直々でね。
見城は「元少年A」と何度も会い話をしながら原稿の手直しも進めていた。
その上、経済的に困窮していた「元少年A」に【印税の前払い】として百万単位の金を渡していたらしいです」百万単位の金=400万円以上

しかし、
"ある時期"から見城社長は手記出版に難色を示すようになったという。
その1ッの原因として指摘されるのが、あの『殉愛』騒動だ。

昨年2014/11月に幻冬舎から出版された『殉愛』(百田尚樹)は大きな騒動を巻き起こしたことは記憶に新しい。
当代きっての売れっこ作家だった百田が故・やしきたかじんの未亡人の証言を元に書かれた『殉愛』だが、
未亡人の一方的な主張や◆嘘◇が次々発覚し、大きな批判を浴びたのだ。

「見城社長としては『殉愛』はベストセラー間違いなしだと意気込み、
様々なメディアに根回しまでしてプロモーションを仕掛けた渾身の一作のつもりだった。
しかし発売直後から内容の◆ウソ◇が次々と暴かれて、大バッシングが巻き起こった。
この騒動がトラウマとなり、さらに批判に晒される事が必至の元少年A の手記を出す事を尻込みし始めたんじゃないでしょうか。
それで、結局は、旧知の太田出版に話を持っていったという事でしょう」(週刊誌記者)

しかし、
見城社長と言えば「顰蹙はカネを払ってでも買え」というのを座右の銘とする出版業界きっての仕掛人だ。
しかも、
2011年には米国人女性殺害事件の市橋達也の手記『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』を平然と出版している。
にもかかわらず、
『殉愛』騒動だけで見城社長が「元少年A」手記という超ド級の話題本を手放すとは思えない。

この点について、
見城をよく知る人物がこんな解説をしてくれた。
「見城さんの変化の背景には、安倍首相や官邸との関係があるんじゃないでしょうか」

見城社長は第2次安倍内閣発足以降、安倍首相と急速に近づき、何度も食事するなどブレーン的立場になっている事は周知の事実だ。
一方でテレビ朝日の放送番組審議会委員長として権勢を振るい、安倍首相の意向を代弁する形で番組に介入する動きも見せている。

「見城さんはもともと上昇志向が強いんですが、時の最高権力者と昵懇になった事で、さらにそれが強くなっている。
最近は、完全にエスタブリッシュメント気取りで、本気でナベツネのような政界フィクサーをめざしている気配もある。[establishment=政策決定に影響を及ぼす]

『元少年A』の手記についても、当初、乗り気だったのに、
その後どんどん安倍首相や官邸との距離を縮めていく中で、心変わりしたんじゃないでしょうか。
世間からの逆風が予想できる今回の手記出版は安倍首相にも迷惑をかけると、配慮したのかもしれません」(知る人物)

いやはや、安倍首相のお友だちになった途端、
出版人として慎重になり、ベストセラーを手放してしまうほどになってしまったのか!!。

しかも、セコい事に、
見城社長はこの出版権をゆずった際に、
【太田出版からお金を受け取った】ともいわれている。

現在の見城社長はもはや出版人などでなく、
身も心も安倍首相のお友だち、フィクサーなのかもしれない。

[LITERA田部祥太]
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「酒鬼薔薇聖斗」事件から18年!
「少年A」の手記出版を企図した「幻冬舎」への風当たり
◆[週刊新潮2015/1/29号]全文◆

あの忌まわしい“記憶”が、あらぬ形で甦りかねない――。
1997年に世間を震憾させた、神戸連続児童殺傷事件。惨劇からまもなく18年が経とうという中、
「酒鬼薔薇聖斗」を名乗っていた“元少年”の手記を出版せんと画策する向きがあるというのだ。

 ***

一連の事件は、97年2〜5月に発生。神戸市須磨区で小学生が相次いで襲われ、2人が死亡、3人が重軽傷を負った。
同1997年6月下旬、通称「タンク山」で土師(はせ)淳君(享年11)を殺害した容疑で、
区内の【中学3年生だった14歳少年A】が逮捕され、全貌が明らかになっていく。

同1997年10月、医療少年院に収容された彼Aは、一時、中等少年院に移り、
2004年3月に仮退院。以降、まるで都市伝説のように、全国で“生息情報”が乱れ飛んできたのだった。

さる司法関係者によれば、
▼「出所後は、
法務省OBの人間を中心におよそ10人の支援チームが結成され、彼Aの生活を支えてきました。
現在でもサポート役がそばにおり、被害者の命日には毎年手紙を送っていますが、直接対面しての謝罪は、いまだ果たせていません」(司法関係者)

そんな折、耳を疑うような話が舞い込んできた。
この“元少年A”が近々、手記を上梓する予定だというのだ。

さる事情通によれば、
「版元は幻冬舎です。1年以上前から人づてに元少年Aと接触し、すでに聞き取り取材を終えている。
名前や写真は載せないものの、事件を懺悔する内容の手記という形で、原稿も出来上がっているのです」(事情通)

▼幻冬舎は、
1993年、角川書店を退社した見城徹社長が設立。
1998年には郷ひろみの告白本『ダディ』が大当たりし、2003年に株式を店頭登録。
その後、経営陣による自社買収(MBO)を実施するなど、何かと話題には事欠かない。

今回の手記は初め春先の刊行を見込んでいたと言い、

「2011年1月には、英国人女性殺害犯・市橋達也の“逃亡記”を出版して物議を醸しましたが、今回はさらなるハレーションが生じるのは明白。それもあって、企画は慎重かつ極秘に進められています。一方で、少年院時代から書き溜めてきた小説や詩なども入手しており、これらの“作品”を出す案も浮上しています」(同事情通)

■「いけないの?」

が、肝心の遺族はまるで蚊帳の外である。実際に、淳君の父・守さんは、
「本を出すとは、全く聞いておりません」(土師守)
と、驚きを隠さない。

「そもそも、商業ベースでやることではないでしょう。5月の淳の命日には毎年コメントを出させて貰っていますが、まずは彼(元少年A)が、自分の言葉で私たち家族に対して返事をしてくれればいいこと。その内容を人に見せないのは、当然の礼儀だと思います」(土師守)

現在でも命日が近づくと、元少年Aからは弁護士を介して手紙が届くのだが、
「内容を読む限り、彼の理解が、私たちの望んでいるような答えを出せるレベルに至っているかと言えば、まだ暫くは難しいと思います。小説や詩にしても、“メディアに出るようなことはして欲しくない”と、早い時期から要望してきたのですが……」(土師守)

そうした不信感は、おのずと版元にも向けられ、
「出版の話が本当であれば、あまりにも被害者や遺族を蔑ろにしているとしか言いようがありません。遺族に伝えることがまずなすべきことで、この話が嘘であってほしいと願っています」(土師守)

当の幻冬舎は、
「出版の予定はなく、元少年Aやその関係者に接触したこともありません」(幻冬舎総務局)

それでも見城社長に問うと、
「万万が一、予定があるとして、出したらいけないの? 彼は残虐な殺人を犯したけれど、法に従って少年院に入って、反省して出てきているわけでしょう。新たに犯罪を犯してもいないのに手記がダメなら、何のための法律ですか!!」(見城)

そう畳み掛けつつ、含みを持たせるのだ。
「僕は、あの市橋の手記で懲りたんだ。まだ裁判が始まる前で、たまたま被害者が海外の人だったから何も言ってこなかったけれど、やっぱり公判前はまずかった。僕は、本を出すたび、“果たして出してよかったのか”と反芻しているんだよ」(見城)

とはいえ確信犯には違いなく、つまりは、あくまで算盤ずくというわけだ。
「遺族だ、被害者だって言うけれど、屁理屈だよ。元少年は毎年遺族に手紙を書いているわけだし……。君たちだって、いちいち被害者に取材しないでしょう。大体、手記を出したところで、売れないって」(見城)

もしや、なかった事にするおつもりか。

↑[週刊新潮2015/1/29号]↑
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👇犯罪・罪を本にして、元犯罪者がカネ・儲けるのは許されるのか!!の問題👇

酒鬼薔薇事件で注目【サムの息子法】は日本にも導入できるのか?
2015/6/15[星野宏明弁護士]

◆犯罪者が自らの罪を商業的に利用する事、自体が問題視されている◆

《サムの息子法》と呼ばれるニューヨーク州の法律。
■《サムの息子法》の内容■

ニューヨーク州の「サムの息子法」と呼ばれる法律は、
犯罪者が手記を書くなどして当該犯罪行為を基に収入を得た場合、
遺族など被害者側の申立てにより、手記出版による収益を取り上げる事ができるというものです。

➽1976年に、大手出版社がニューヨークで起きた【連続殺人事件の犯人】に
手記を書かせて売ろうとした事がきっかけで制定されたものです。

その後、
➽1984年に連邦レベルでも犯罪被害者法が制定され、
出版による収益だけでなく、没収された保釈金や犯人の差押財産も基金として
遺族や被害者のために分配される仕組みができました。

■日本にも《サムの息子法》を導入できるか?■

今回、酒鬼薔薇事件の犯人による手記出版に対し、遺族被害者が、差し止めを求めていますが、
日本でも導入する事は憲法上可能だと考えます。

➊導入する際に最大の問題となるのが、憲法が保障する表現の自由との関係です。
憲法が保障する表現の自由により、たとえ犯罪者による事件に関する出版であっても、
原則として国家(政府・裁判所)は制限できません。
もっとも、
他人のプライバシー侵害や名誉棄損を伴うものは例外的に差し止めできる場合がありますし、
いかなる時も表現行為を絶対的に抑制できないわけではありません。

犯罪加害者による出版である事だけを理由として、事件関係の出版を一律に禁止する法律は、
規制範囲が広範になりすぎるため、憲法違反のおそれがありますが、
アメリカの《サムの息子法》と同様、出版行為を認めた上で、
印税など犯人が出版により得る収益を没収するという内容であれば、
表現の自由の問題をクリアする余地はあると思います。

❷厳密にいうと、憲法上は、犯人の収益没収による財産権侵害についても問題となります。

これまで憲法学でも深く議論されていない問題ですが、
出版行為自体は認めた上で、収益没収も全額ではなく、例えば70%〜90%没収とするなどすれば、
違憲を回避することは十分可能だと思います。

《サムの息子法》は、
アメリカでも無制限の出版制限は表現の自由を定めた合衆国憲法に違反するとして、
制限内容を限定するよう判例で指摘されました。

日本で導入する場合も、
正面から憲法の➊表現の自由や❷財産権侵害が問題となりますが、
犯罪被害者保護の重要性が認知されつつある昨今、今後議論を深めていく価値がある論点だ。

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↑アメリカ・ニューヨーク州【サムの息子法】↑

サムの息子=デヴィッド・リチャード・バーコヴィッツDavid Richard Berkowitz=酒鬼薔薇聖斗の様にSon of Samを使いマスコミ・警察に手紙を送った。
1976年から1977年にかけて、ニューヨークで若い女性やカップルら13人を44口径拳銃やショットガンで銃撃(1人は刃物で刺)して6人を殺害し、8人に重軽傷を負わせた。
1977年8月10日、ニューヨーク市に隣接するヨンカーズで逮捕された。
その後、殺人と共に2000件の放火を自供(犯人が丁寧に2000を記録していた)。
懲役365年となった(ニューヨーク州に死刑がない)。2015現在62歳で模範囚として服役している。

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少年A=東慎一郎(あずましんいちろう)=改名前
1982年7月7日午前6時15分生まれ
(2015現在32歳)
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👇1997/7/10に少年Aは検事の前で以下の様に、再現して紙に書いた👇
《だが・・<大怨>であるのに、[大恐]と書いてしまう》


さあ ゲームの始まりです
愚鈍な警察諸君
僕を止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の大恐に流血の裁きを⇔<大怨>

SHOOLL KILL⇔<KILLER>
学校殺死の酒鬼薔薇

▽補足▽
・淳頭部(口)に入れた犯行声明文には⇒KILL
⇒口には2通あり、2通目には酒鬼薔薇聖斗と書いた紙。
・第二犯行声明文(神戸新聞社に送る)には⇒KILLER



「今書いたように、土師淳君の口にくわえさせる文章を書きました。なお、この文章の中で、『愚鈍な』という文字は、僕が別の本で読んで覚えていた文字であり『積年の大恐に流血の裁きを』というところは、先程話したように、『瑪羅門の家族』というマンガの本の第3巻の目次のところをそのまま書き写したのです。今書いた文章だと『恐』という文字を書きましたが、僕自身、この時はそのマンガを見ながら書いたのであり、僕が覚えていた字ではなかったので、間違っているかもしれません」

この時・・
▽検事は少年Aに質問する。
「『汚い野菜』という表現は、どういうところから考えたのか」

▽少年A
「これは僕自身の言葉です。僕は小さい頃、親に『運動会で緊張するなら、周りの人間を野菜と思ったらいいよ』と言われていました。そこで僕は、周りの人間が『野菜』に見えてしまうのです。その他、ほとんどの文章は、僕は頭で考えたものであり、テレビで言っているような、何か小説から引っ張り出したといったものではありませんでした。
この手紙には、マークを書いていますが、これは僕のマークであり、ナチスドイツの逆卍をヒントにしたものです。ナチスドイツの逆卍については、テレビでも見たことあるし、僕自身ヒットラーの『我が闘争』という本を読んでいました。この僕のマークは、小学校の頃に作ったものです。
英語でSHOOLL KILLと書きましたが、その時僕は、これでスクールキラーと呼ぶものだと思っていたので、このように書いたのです。
この手紙を書いた用紙は、部屋にあったスケッチブックに書きました。この手紙を包んだ紙も、同じスケッチブックの紙でした。包んだ紙の表の面には、『酒鬼薔薇聖斗』と赤いペンで書き、その名前の下に同じマークを黒のペンで書きました。裏の面には何も書きませんでした。
『酒鬼薔薇聖斗』とは、別の機会で話したように、僕が小学校5,6年生の頃に、悪い方の僕自身に付けた名前でした。
『酒鬼薔薇聖斗』についてもマークを作っていました。そのマークは(調書にはその絵が添えられている)でした」

▽検事
「酒鬼薔薇聖斗のマークもあると言いながら、なぜこの時は君のマーク(逆卍風車)を付けたのか」

▽少年A
「分かりません。これらの文章は、5月26日の夜、僕の部屋で一気に書きました。なお、この文章を書くのに利用した『スケッチブック』や『瑪羅門の家族』の第3巻は、後で燃やしたと思います。このようにして、僕は、警察の捜査を撹乱させる目的で、土師淳君の頭部の口にくわえさせる手紙を完成させました。僕は、土師淳君の首を友が丘中学校の正門に置きに行くためには、家の者が寝静まった夜中がいいと思いましたので、夜中になるのを起きて待ちました。そして正確な時間は覚えていませんが、平成9年5月27日の午前1時頃から午前3時までの間に、土師淳君の首を置きに行ったのです」

この日、男児の行方不明事件として警察が捜索開始。

▼1997/5月27日
少年Aは、深夜未明、男児の首を友が丘中学校の校門前に置きに行くために、自室の天井裏に置いていた黒色のビニール袋を取り出す。さらに、男児の首にくわえさせる手紙をジーパンのポケットに入れる。ビニール袋は補助カバンに入れるた。少年Aの部屋は2階にあるため、1階に下りるには階段を下りねばならない。同じく7月10日の少年Aの供述によれば、

「しかし、僕の家の階段は、上り下りすると『ギー』という音がしますし、両親の部屋は、その階段のすぐ側なので、階段を下りて行けば、両親に見付かってしまう可能性があると思いました。そこで僕は、僕の部屋の窓から外へ出ることにしたのです。でも、重たい淳君の首を持ったままで、窓から外へ出るのは難しいと思いました。そのため、僕は、僕の机の中から電気コードを2,3本取り出し、それをつないで、片方の端を土師淳君の首を入れている補助カバンにくくりつけ、それを庭まで降ろしました。その後、今度は僕が窓から降り、先に降ろした補助カバンを持って、自転車置き場まで行き、僕が使っているママチャリの前のカゴの中に、その補助カバンを入れました。そして、ママチャリに乗って、友が丘中学校の正門に向かって行ったのです。僕の家から友が丘中学校の正門までの道順については、今検事さんから受け取った地図に赤のボールペンで書き込みました」

(この時、担当検事は、
少年Aが任意に作成し、提出した図面を受け取り、資料二として本調書末尾に添付する事にした)

「友が丘中学校の正門の手前は、今地図に書いたように、車道ではなくて、歩道を通って行きました。僕の家を出た後、友が丘中学校の正門までは、誰とも会いませんでした。・・・〜・・」

「・・僕が、友が丘中学校の正門前に来て、自転車を停めた後、自転車の前カゴに置いていた補助カバンの中から、淳君の首を入れた黒色のビニール袋を取り出したのか〜とにかく淳君の髪の毛を持って、その首を取り出しました。中学校の正門は、図面に書いたように、右側に塀があり、その左側に横に押す鉄の扉がありますが、その扉は閉まっていました。僕は、まず正門の右側の塀が目に入ったので、その塀の上に淳君の首を置くことにしました。

僕は、
■淳君の頭部の首付近を両手で持って、《背伸びをしながら》■
その塀の上に淳君の首を置きました。
そして、塀の上に置いた首が、どの様な感じに見えるのかと思い、
2〜3歩後ろに下がって、淳君の首を見たのです。
ところが、その時、淳君の首の据わりが悪かったのか、淳君の首が手前に落ちて、地面に落ちました。僕は、まさか淳君の首が落ちるとは思っていなかったので、一瞬淳君の首が塀の上から消えたと思い、下を見ると淳君の首がありました。地面に落ちた時に、音はしたと思います。

そこで、僕は、淳君の首をどこに置こうかと考えまたが、正門の前だと、一番目に付くところだと思いましたし、地面の上ならば据わりもいいだろうと思い、淳君の首を持って、正門の鉄の扉の中央付近に、顔を道路側に向けて淳君の首を置きました。
淳君の首を置いた後、僕は、ジーパンのポケットに入れていた手紙を取り出し、淳君の口にくわえさせました。手紙の向きは、丁度酒鬼薔薇聖斗という文字が見えるように、縦にくわえさせました。
「酒」という文字の方を口にくわえさせたのです。
そのくわえさせた様子を僕は5〜6分位眺めていました。その間、僕は、学校の正門前に首が生えているというような「ちょっと不思議な映像だな」と思って見ていたのです。

淳君の首を5〜6分位眺めた後、僕は、再びママチャリに乗って家へと帰りました。
家に帰った後は、やはり家の側にある鉄の棚を利用して、窓から2階の僕の部屋へと戻りました。
部屋に戻った後は、眠たくなかったので、朝まで起きていました。

▽検事「5月27日午前5時頃に、中学校の正門に来た人が、淳君の首はなかったと話しているようだが、その点はどうか」

▽少年A「単なる思い違いです。何故なら、僕の親は、午前5時頃には、台所にいるので、とてもその様な時間帯に淳君の首を持って家を出ること等不可能なのです。少なくとも午前3時頃まででなければ、親に知られずに行動することは出来ないのです。従って、淳君の首を正門前に置いたのは、遅くとも午前3時頃までだと思います。
その後、5月27日のテレビを見ていると、その日の内に淳君の首が発見されたことが分かりました。淳君の首が発見されるように置いたのですから、その点については、当たり前のことなので、何とも思いませんでした。

ところが、その後、その日の内に、「タンク山」のケーブルテレビアンテナ施設の「局舎」の床下に隠していた淳君の胴体部分も発見されたのです。このニュースを見た時は、正直言って、「早すぎる」と思い、びっくりしました。僕は、今回の事件を起こす前から、いつも新聞の番組欄と三面記事の欄は見ていましたので、今回の事件を起こした後も、新聞記事を読んだりしました。また、テレビ等も見たりしたのですが、連日、淳君の事件の報道は、大きくなされていました。それらの報道を読んだり見たりした僕は、

僕が思った通りに、マスコミは、
➊犯人像を30代から40代の男としたり、
❷黒のブルーバードが目撃されたとか、
❸犯人は××(A自宅近辺)地区以外の人間である等と報道していました。

しかも、その報道の内容は、ほとんど嘘でした。
ここまで上手く行ったので、そうなると僕は、今後何をしても、僕が犯人だということは分からないだろうと思うようになりました。はっきり言って、調子づいてしまいました。
そこで、僕は、新たに「神戸新聞社宛の手紙」(第二の声明文)を書くことにしました・・・」

ーーーーーーーーーーーーーーーー

■1997/5月27日早朝■
2枚の紙片(犯行声明文)が添えられた被害男児の頭部が市内の友が丘中学校正門前で発見される。紙片のなかで、少年Aはみずからを「酒鬼薔薇聖斗」と称し、捜査機関などに対する挑戦的な文言をつづっている。

警察は記者会見で、
「酒鬼薔薇聖斗」を「さけ、おに、ばら…」と文字ごとに分割して読み、何を意味するか不明と発表、報道機関も発表と同じ表現をした。


■テレビ朝日の特別報道番組でジャーナリストの【 黒田清 】が ■
「サカキバラセイトという人名ではないか」と発言。

これ以降、マスコミや世間でも「さかきばら・せいと=人名」という解釈が広がった。
犯人が未成年で本名が公開されなかったことから、事件解決後の今でも、
この事件の犯人を「酒鬼薔薇」または「酒鬼薔薇聖斗」と呼ぶ人もいる。


1997/6月4日、神戸新聞社宛てに赤インクで書かれた第二の声明文が届く。内容はこれまでの報道において「さかきばら」を「おにばら」と誤って読んだ事に強く抗議し、再び間違えた場合は報復する、としたものだった。また自身を「透明なボク」と表現、自分の存在を世間にアピールする為に殺人を犯した、と記載している。この二通目の声明文には校門前で発見された男児に添えられていた犯行声明文と同じ文書が同封されていた。最初の犯行声明文は一部文面を修正した形で報道されていたが、神戸新聞社に届いた声明文に同封されていた犯行声明文の一通目には、修正前と同じ文章で同封されていた。具体的には、遺体と共に発見された文面の5行目は「人の死が見たくて見たくてしょうがない」だが、「人の死が見たくてしょうがない」と変更して報道された。神戸新聞社に届いた文面には、事件に関わった人物しか知ることができない「人の死が見たくて見たくてしょうがない」と書かれていたため、この声明文はいたずらではなく犯人によるものだと確定された。いわゆる秘密の暴露である。

■■1997/6月28日、少年A逮捕■■

少年A逮捕以降の動き
・6月29日、兵庫県警捜査本部は、少年Aを男児殺害・死体遺棄容疑で神戸地検に送検。10日間の拘置が認められる。
・6月30日、頭部を一時、自宅に持ち帰ったなどの供述が報道される。
・7月1日、頭部切断は儀式とする供述が報道される。
・7月2日、少年Aの顔写真が掲載された『フォーカス』が発売される。犯行の経緯について「カメを見せる」と誘ったなど供述が報道される。
・7月6日、兵庫県警が向畑ノ池の捜索で、金ノコギリを発見。その様子が報道される。
・7月8日、拘置期限が切れたこの朝、地検は拘置延長を請求。神戸地裁は10日間の拘置延長を認める。池からハンマーが発見される。
・7月9日、別のハンマーが向畑ノ池で発見される。
・7月11日、少年Aをバスに乗せ、タンク山とその周辺を実況見分。
・7月15日、2月と3月の通り魔事件で少年Aを再逮捕。
・7月16日、午前に捜査本部は通り魔事件で少年Aを送検、10日間の拘置請求が地検で認められる。
・7月17日、少年宅から押収された犯行メモの内容が報道される。
・7月21日、警官2名が、少年Aの二人の弟に対し、少年Aが再逮捕された通り魔事件について、Aの学校での行動、言動などを聞く。特に少年Aの母方の祖母の死の前後の様子を執拗に尋ねる。
・7月24日、警官が少年Aの両親に対して、被害者側に対し電話なり、詫びをすることを促す。この際、警官は「誤認逮捕はありえない。もし、誤認逮捕であれば、兵庫県警は今後存続しないでしょう」と話す。

少年Aの犯行時の心境
▼1997/5月24日の第3の犯行時、男児を殺しているときは、一生懸命殺そうとしているにもかかわらずなかなか死なない男児に対して腹が立ったりしたものの、同時に男児を殺しているという緊張感、あるいはなかなか死なない怒りなども含めて、殺していること自体を楽しんでいた。最終的に男児が死んだと分かったときには、殺したことと男児が自分だけのものになった満足感でいっぱいになり、その満足感は過去2回の殺人で得られるであろうと思っていた満足感よりももっとすばらしいものであった供述。

▼1997/3月16日午後0時25分、神戸市須磨区竜が台の公園で女児2人を襲った際には、後日、ハンマーで殴った女児が死んだことを知ったが、一瞬のことなので大きな満足は得られなかった。男児の場合は殺すのに時間がかかったため、それだけ大きな満足感を得ることができた。しかし、男児を殺した満足感もあまり長続きはせず、死体をどこへ隠そうかと考え始めた時には、はや満足感は消滅していた。


■その後の少年Aの処遇

・1997年10月13日、
神戸家庭裁判所は少年Aを医療少年院送致が相当と判断、関東医療少年院に移される。
・1999年、
第2の事件で死亡した女児の遺族と少年A側で約8,000万円の慰謝料を支払うことで示談成立。
・2001年11月27日、
治療が順調であるとの判断から、東北中等少年院に移る。
・2002年7月、
神戸家庭裁判所は、治療は順調としながらも、なお綿密な教育が必要として、収容継続を決定。
・2004年3月10日、
成人したAは少年院を仮退院。この情報は法務省を通じ、被害者の家族に連絡された。
・2005年1月1日、Aの本退院が認可される。
・2005年5月24日、
被害者少年の八周忌。Aが弁護士を通じて、遺族に献花を申し出ていた事が明らかになる。遺族は申し出を断った。
・2007年3月、
第2の事件で死亡した女児へ、医療少年院退院後、初めて謝罪の手紙が届けられた。
しかし遺族は「必死に生きようとする姿が見えてこない」と賠償についても疑問を投げかけた。

■少年Aに関する話
少年Aが在籍していた友が丘中学校の当時の校長である
【 岩田信義 】は、少年Aには問題行動、正確にいえば、風変わりな行動が多かった
と証言している。

他の生徒の靴を隠して燃やす、ラケットで何もしていない生徒の頭を叩く、カッターナイフで他の生徒の自転車のタイヤを切るといった行為があったといわれ、少年Aが在籍していた小学校からは「刃物を一杯突き刺した不気味な粘土細工を制作していた」という報告を受けたという

担任の話によると、少年Aの表情は総じて動きに乏しく、注意しても教員の顔を直視することがなく、心が別のところにあり、意識がずれ、言葉が届かない感じを受けたという。

しかし、これら少年Aの行動は思春期前期の子供にままみられるパターンであり、非行と奇行のはざまにある行動だと岩田は指摘している。

中学校では入学早々から繰り返される少年Aの問題行動に手を焼いていた。Aの保護者も精神科医に診察を受けさせていたが、精神科医は学校の中で指導する方がいいという判断を下し、児童相談所には通所させなかった。それを受けて、学校は重点的に少年Aを指導し、事実、1年生の2学期になると問題行動は減ったという。

それでも、教員の一部にはうちの学校で事件をやったとするならば少年Aではないかという認識が煙のように漂っていたという。岩田はそういう話を聞くたびに「軽々しく口にすべきではない」と静止したが、岩田も「ひょっとしたら」と思っていたという。

▼1996年5月11日、当時、中学2年生の少年Aは母の日のプレゼントに母の花嫁姿の絵を描いて渡す。前日に「母さん、何がほしい?」と聞く少年Aに、母は「気持ちさえこもっていたら、別に何でもええよ。無理せんで」と答える。すると、少年Aは両親の結婚式の写真を押入れから出すと、「母さん、この女の人、誰や?」と問うので、「母さんなんやけど」と答えると「へー」といって、少年Aはその写真を見た後、マンガ用の画用紙の裏に一気にその絵を描き上げ、母に手渡すと、スーッと2階へ上がっていった。少年Aが母にプレゼントをしたのはこれが初めてであった。

事件前の少年Aの自宅の斜め向かいの家の雨樋にはいつも石がたくさん詰まっていたが、これは少年Aがネコめがけて投げ付けていたものが溜まったものであった。ところが、少年Aの母はそんなこととは露知らず、隣人に知らせ、親切にも自宅の2階に案内し、そこからわざわざみせていた。近所では少年Aが投げ付けた石であることをほとんどの人が知っていたが、この母だけが知らなかった。

少年Aは、第3の事件の犯行の9日前の5月15日から、友が丘中学校には登校せず、母親とともに神戸の児童相談所に通い始めていた。これは、5月13日に同級生を公園に呼び出し、自分の拳に時計を巻き付けて殴り、歯を折るなどの怪我を負わせたため、5月14日に学校から父親が呼び出しを受け、その後、両親が相談の上、学校を休ませ、児童相談所を紹介してもらったためである。暴行の原因は「少年Aが身体障害者の子供をいじめていた」と被害者の同級生が塾でいいふらしていたためと少年Aは答えているが、少年Aは「犯行ノート」に「アングリ(聖なる儀式)」を遂行する第1弾として学校を休むことにした」と書いていた。

▼1997/7月24日、警官が少年Aの父に対し、被害者への謝罪に関し、たずねた際、
警官は少年Aの父に対しこう質問した。
「お父さん、2月10日、3月16日の被害者の名前はご存知ですか?」
これに対し、少年Aの父は答えられなかった。

■マスコミ報道の様子
被害少年の首が学校の校門に晒されるという猟奇的な事件であった点から、マスコミはこの事件の報道を連日行った。この事件は海外においても報道の対象になっている。

当初マスコミは、頭部が発見された早朝に中学校近くをうろついていたとされる「黒いポリ袋を持った20代から30代のがっしりした体格の男性」について繰り返し報道していた。
各マスコミは犯罪心理学者や作家にプロファイリングを行わせたが、犯人が未成年男子であるという分析をしたのは「16歳から23歳くらいの男性」としたロバート・K・レスラーのみであり、14歳という年齢は誰も的中しなかった。
犯人逮捕後、マスコミ取材はますますエスカレートし、一部には、少年Aの写真を同級生から高額で買い取ったり、関係者や近隣住民にしつこくインタビューを求めるなど報道被害と批判される行為を行った。

■少年Aの情報漏洩騒動
少年法61条に、「家庭裁判所の審判に付された少年犯の氏名、年齢、住所、容貌などが明らかとなる記事や写真を、新聞および出版物に掲載してはならない」と制定されている。だが「審判に付される前」を狙って、新潮社が少年の顔写真を掲載した雑誌を販売。これ以降、新潮社の雑誌では少年の情報漏洩が続いた。

写真週刊誌『FOCUS(フォーカス)』(1997年7月9日号)に少年の顔写真と実名が掲載されることが判明すると、直ちに大半の大手業者は販売を自粛決定したが、新潮社は回収せず販売を強行、一部の書店で販売された(即刻完売)。さらに翌日、『週刊新潮』が少年の顔写真を目隠し入りで掲載して販売。翌日、法務省が『FOCUS』および『週刊新潮』に回収勧告するが、双方は拒否。『FOCUS』発売直後、ウェブサイトで犯人の顔写真が数多く流布された。

また、審判終了後、『文藝春秋』(1998年3月号)に、検事供述調書が掲載される事が判明。一部で販売自粛、各地の公立図書館で閲覧停止措置となる。後の法務省の調査で、供述調書は革マル派が神戸市の病院に侵入してコピーしてフロッピーディスクに保存していたことが判明。塩田明男が逮捕された。立花隆は、これを雑誌に掲載するか否かについて当時の編集長平尾隆弘から緊急に相談を受け、2時間で7枚に及ぶ調書を精読、「どんなことがあっても掲載すべき」との判断を下す。少年法61条に抵触するか否かについては、この法令が報道することを禁じているのは、あくまで、本人のアイデンティティを推知できるような要素であって、それ以上ではない-従って、この調書を載せること自体は少年法61条に抵触することは全くないと判断。掲載を推薦し「文藝春秋」(1998年3月特別号)に掲載された。立花隆自身バッシングが起こることは確実と予想してのことであった。 立花は『FOCUS(フォーカス)』に少年の顔写真と実名が掲載されたことについては、別の理由から反対している。

その後も『FOCUS』には、少年の犯行記録ノートや神戸市教育委員会の指導要録など、本来なら外部に流出するはずのない資料が次々と掲載された。

■少年法の壁
いわゆる少年事件では加害者の住所氏名すら被害者に伝えられず、審判は非公開でどんな事実認定がなされたかすら知るよしもない。それは、わが子を失った親が、「子供はどれほど苦しんだのか。何か言葉を残したのか。そして、目は閉じていたのか」(土師守『淳 それから』)すら知りえるすべがないということである。加害者が嘘をついたり、被害者に対し中傷したとしても、被害者側は反論や否定すら出来ない上、処分が出てもその内容すら知りえない。被害者側は完全に蚊帳の外に置かれる。

第3の事件の被害者の父とその弁護人・井関勇司が取り組んだのは、
まず「少年審判への関与と情報開示の要求」であった。そのため、まず担当判事である井垣康弘に要求したのは「加害者の法律記録および社会記録(鑑別結果、調査票など)を見せてほしい」ということであった。これらは、加害者側の弁護人には閲覧や謄写が認められているが、被害者側の弁護人には認められていない。従って、この要求に対して井垣判事は拒否した。また、「遺族に審判廷で意見を述べさせてほしい」との要求も行ったが、これも否認された。これに対して「それならば、少年は退廷させてからでいいから、審判廷で意見を述べさせたい」との要求を行ったが、これも却下された。
しかし、その後の粘り強い井関弁護士の交渉が実を結び、最終的には、公式の審判では無理だが、判事室で判事が被害者遺族に会って話を聞くということになった。これは、画期的な異例の事態であった。

この「異例の意見聴取」は、第4回審判が開かれたのと同じ10月13日、約30分間にわたって行われた。17日には神戸家庭裁判所での最終審判で、少年Aの医療少年院送致宇の保護処分が決定したが、家裁は「正確な報道のための資料提供の観点から」という理由で「処分決定の要旨」をマスコミに公表した。これはあくまでもマスコミに向けたものであって、被害者へはあくまでもマスコミを通して知らされた。言うまでもなく、それまでも事件に関する情報は、被害者側が知るルートはすべてマスコミであった。

■マスコミによる暴力
被害者側が知りえる事件の情報はすべてマスコミを通じたものであったが、同時に被害者はマスコミから24時間監視され、多大な苦痛を味わっている。特に猟奇的な犯行であった第三の事件では、犯人が逮捕されるまでは、被害者宅に数多くのマスコミが張り付き、周囲の道路は違法駐車の車で交通渋滞ができ、被害者宅ではカーテンすら開けられない状況が続いた。かつ、犯人は両親ではないかとの憶測すら乱れ飛んだ。土師守はこれを「マスコミによる暴力」と表現した。
また、1999年2月10日には、文藝春秋社から、犯人の供述調書(検事調書)7枚分が掲載され「少年Aの全貌」という見出しの『文藝春秋』3月号が発売された。事前に警察からこの情報を聞かされていた土師守は勤めている病院の売店で買い求めるが、最初の解説の部分を少し読んだだけで、その後の記事は読んでいない。奇しくもこの日は、被害男児の誕生日でもあった。
弁護士・井関勇司は「遺族の心情を考慮すると問題だ、興味本位で読まれるのはつらい」と土師にかわってコメントを発表した。

■民事告訴
1998年8月26日、第3の事件の被害者の両親は、少年Aおよびその両親に対して総額1億4000万円の支払いを求める民事訴訟を起こす。訴訟に先駆け、弁護人である井関勇司らによって、少年Aの両親の資産状況が調査されたが、すんでいた家屋も借家で、支払能力なし、との判断であり、また訴訟に対して犯人の両親は事実関係をすべて認めるとの意思を示していたため、争点にならず、開示も期待できない状況であったが、「裁判所という公式なものの中で、きちんと犯人の両親の責任を認めてほしい」という2人の強い意志により、訴訟は起こされた。途中、和解勧告が出されたものの、成立せず、
1999年3月11日に全額の支払いを命ずる判決が出た。両親は、「現在の法律では、少年犯罪の場合、その責任の所在と償いということがうやむやになっている場合が多いが、その意味においても、この判決は意義のあるものだと思います」とのコメントを出した。

このしばらく後に、少年Aの両親が手記を出版することになった
(『「少年A」この子を生んで…父と母悔恨の手記』 文藝春秋)。
被害者の両親の疑問に答えること、賠償金支払いの目的などがあったとされるが、
被害者側の土師は不快に感じ、出版の中止を望んだ。

◆少年Aの母が2002年5月に少年Aと面会し
冤罪の可能性★について尋ねた際、
彼Aは「それはありえない」と語っている。

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大須田勉
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