WTCL

Watchtower Classic Library (1949-1969)

ものみの塔ライブラリ未掲載文書

輝かしい奉仕の宝 ハズレット姉妹の経験

2017-08-13 19:06:00 | 公開文書


輝かしい奉仕の宝 メーブル・ハズレット MABEL HASLETT Watchtower 1967.01.01 21p

「エホバの聖徒の死は、そのみまへにて貴し」。

生涯をともにした、愛する夫の死に直面した私は、詩篇のこの美しいことばから大きな慰めを得ました。(詩、116:15)
このことばは、夫の葬儀に際し、ものみの塔協会の日本支部の監督が、心をうつ告別の話の中で引用したものです。また各地の霊的兄弟から数多くの慰めの手紙が寄せられました。それで私は夫のために喜ぶことができます。これまで夫のドンと一緒に神に奉仕できた長い歳月を回顧する時、すべての良い賜物を与えてくださる私たちの創造主に対して心から感謝するのみです。

ではこれから私たちの過去の世界にご案内しますから、私の想像の旅に一緒に加わってくださいませんか。今私の目の前にある古いアルバムを開いて、昔の写真を見ていますと、数々の楽しい思い出が心によみがえってきます。ではご一緒にアルバムの、ページをめくってみましょう。よろしいですか。



聖書の真理に初めて接する

アルバムにあるこの写真は五十年前の夏に撮ったものです! こ写真の若い二人は二十歳になったばかりのドンと私です。この時私たちは婚約しました。私たちの宗教的な背景ですかっ,私はそれまで聖公会所属の学校に通っていました。この写真には卒業当時のクラス全員が写っています。この時、黒い修道服を着た,「シスター」が、神に仕える最善の道は私たちの学校に多額の寄付をするような金持ちと結婚することですと語りました。
一方、ドンは、バプテスト教会にはいっていましたが、それは教会のフットボールチームの試合に出るためでした。

その後、一九一六年八月、初めて聖書の真理のすばらしいことばに接しました。真理のことばは私たちの心の琴線に触れ、二人はただちに真理に一致して生活することを決め、ニユーヨークのマウント・バートンにあった聖書研究生の小さいグループに交わりました。一九一六年十月一日、「宮」で行なわれた公開講演に初めて出席しました。ここは当時マンハッタン地区の聖書研究生の中心的な集会場所として用いられ、プロードウェイに近い西六十三番街にありました。ここでは活動写真とスライドで呼び物の「創造の写真劇」がよく上映されていました。その日の講演者はだれだったと思いますか。ものみの塔協会の会長チャールス.T.ラツセルその人だったのです。私は今でもその鋭い眼や、話のあとで私たちと握手をかわした時の親しい笑顔を思い起こせます。

それから二、三週間、あのすばらしい,「創造の写真劇」の続きを見ました。この写真劇は偉大な創造主のみ目的の全体を教えたものです。この写真劇を見たほかに、引き続き研究し、また当時の伝道にも定期的に参加した結果、これこそ生涯をかけて果たしたいと願っていた事柄であるという確信が深められました。それはつまり愛ある私たちの天の父に仕えることです。(当時の伝道は「聖書研究生月刊」をニューヨークのアパートや地下鉄で配布することでした) ドンと私は、婚約はしたものの、独身のままの方が神によりよく仕えられるのではないかと考えていました。

当時、集会場の,「宮」の地下室にあったプールで、毎月第一日曜日に浸礼を施す取り決めがありました。しかし、十月三十一日、ラッセル兄弟の死を伝える悲しい知らせに接したのです。ラッセル兄弟の告别式は十一月十二日の日曜日に行なわれました。それで、一九一六年十二月の最初の日曜日、ドンと私はそのプールで浸礼を受け、神のみ心を行なう献身を表わしました。以来、一九六六年二月二十日のドンの死まで、私たちは不完全な人塔間ながら最善を尽して神のみ心を行なうようにたゆまず努めてきました。

苦難の時期

一九一七年、私たちはさらに大きな奉仕の特権をいただきました。ドンは夏の休暇中ニューヨーク・ブルックリンのものみの塔協会の本部で働き、私は、「聖書研究」第六卷を希望者に貸して読むようにすすめる伝道に忙しく参加しました。やがて七月十七日、「完成した奥義」と題する第七巻が発表され、これを契機に、組織の内外では緊張した空気が高まってゆきました。狂気じみた戦争熱につかれた人々と牧師たちは、この少数の御国伝道者に対して激しく反対しはじめたのです。しかし私たちが手をこまねていたわけではありません。(一九一七年十二月三十日の日曜日の朝、まだ暗いうちに私たちは起きて、聖書研究月刊の特別号の一せい配布に参加しました。この特別号には強烈な音信、「バビロンの倒壊」がのせられていたのです。

あなたは、一九一八年とー九一九年当時の動乱期のできごとをきっとご存じでしょう。
この時期にはものみの塔協会のラザフォード会長をはじめ他の役員が投獄され、当時聖書研究生と呼ばれていたエホバの証人は迫害を受けました。それはエホバの組織内の真理に新しい若い人々にとって波乱に満ちた時でした。ドンは、私に扇動的な文書を与えて配布させたという罪に間われましたが、私の住んでいた町の警察の署長に面会したところ、署長は私の目の前で自分の机の引き出しから「完成した奥義」をー冊取り出して次のように言ったものです。「メーブルを告発した者たちよりもメーブルの方がはるかに尊敬できる人間だと私は思っている」。

あの当時の苦難の日々、私たちはできるだけの事を行ない、また勉強のために時間を上手に用いました。やがて戦争も終わり、投獄された兄弟たちの釈放に対する私たちの期待は高まってゆきました。この目的のために行なわれた全国的な署名運動に加わりました。そして遂に兄弟たちの釈放のすばらしい知らせが伝えられたのです。一九一九年三月二十六日の夕方、その知らせを聞いた私たちは兄弟たちの帰還を喜ぶ歓迎の食事を整えました。

私はドーナツを百個ほど作ったのを覚えています。刑務所の粗末な食事を九カ月もとってきた兄弟たちはとても喜びました。ドーナツに手を伸ばすラザフォード兄弟の姿は今でも目に見えるようです。ラザフォード兄弟や他の兄弟たちが刑務所での経験を話された時の情景は忘れられません。背の低いディチェッカー兄弟が腰掛けの上に立ち、皆に見えるようにして話をしたことも思い出されます。

一緒に奉仕を増し加える

間もなく御国の伝道は再興され、急速に発展しました。戦後初めてオハイオ州シーダーポイントで開かれたすばらしい大会の出席者六千人の中に私たちも加われたのは大きな喜びでした。心を奮いたたせるこの大会で、ドンは私に黙って、ベテル奉仕の願書に署名し、一方、ドンには何も言わずに私は全時間奉仕の申込書に署名したのです。そして大会も終わって帰る道々、二人は互いに永遠の別れを告げました。しかし今から考えると、それはヘブル語のオラームが意味する永遠でした。つまりそれは文字どおり「永遠」ではなく、「不定の時まで」という意味です。

そう、ここにある別の写真は、いっか、ベテルの屋上で撮ったものです。ベテルの家族の数人が写っています。赤い髪を頭にのせているのはリーマー兄弟で、エド・ベトラー、エド・ハズレットそれに若いフレツド,フラソズ兄弟たちが見えます。そして私たちの敬愛するエバンダー・ジョエル・カワード兄弟も写っています。

ドンと私に父親のような助言を与えてくださったのはこのカワード兄弟です。それはコリント人ヘの第一の手紙七章二十節についてですが、婚約はーつの契約であって、果たさなければならないと教えてくださったのです。私たちはたちまち納得してしまい、一九ニ〇年十二月三十一日に結婚しました。アルバムのこの写真に見えるのは私たちの小さな新居です。ここで会衆の聖書研究の集会を開き、またものみの塔協会の旅行する代表者をもてなす特権にもあずかりました。

一九二二年の九月、第二回シーダー,ポイント大会が開かれました。その時のことばは今も私の耳に鳴り響いています、「最高の神の子たちの皆さん、野外にもどりなさい。王とその御国を、宜ベ伝え、宜ベ伝え、そして宜ベ伝えなさい!」この写真をご覧なさい。その大会がドンと私の上にもたらした結果がすぐおわかりでしょう。ここに写っているT型フォードには家財道具が積まれています。私たちは家を売ったのです! 次の写真にはハドソン川を見下す丘に立つ小さな木造の家が見えます。これは近くのピークスキルで全時間奉仕をした当時の私たちの家です。

次の写真に写っている三人は、三日間の奉仕のため私たちに加わった、ビル、ジョージそしてマリー・ハナンです。皆さんの多くもご存じでしょう。この写真を撮ってから四十三年後の今もなおこの三人はプルツクリン・ベテルで忠実に奉仕しています。話のついでですが、聖書の真理に私たちの心を初めて向けるようにしてくださったのはハナンたちのおかあさんでした。

ベテル奉仕

当時,「聖書文書頒布者」と呼ばれた、この楽しい全時間奉仕をー年ほど続けたのち、一九二四年の春、ドンはブルックリン・ベテルの奉仕を志願し、私たちはものみの塔協会の本部で働くよう招待されました。そして八年余本部で働く特権を楽しみ、ドンは奉仕部門で、私は雜誌の予約部門で働きました。「ものみの塔」誌の予約者数が五万人に達した時、皆で茶話会を開き、この喜びを祝ったことは今でも忘れられません。

後日、ドンはラザフォード兄弟の秘書として奉仕することになり、しばしば旅行しました。この貧弱な飛行機の前で撮った写真は、ヨーロッパに旅行した時のものです。ドンとR.J.マーチン兄弟がドイツのマグデブルグにある、ベテルの庭でー緒に並んで写っています。これはなんという歴史的な建物でしよう。かつてはナチの軍隊に占領され、今は共産主義者たちに接収されているのです。

これは、一九三一年オハイオ州コランバスの大会で写したおもしろいスナツプ写真です。この大会で、「エホバの証人」という新しい名前が採用されました。私と一緒に立っているのは、バン・アンバーグ、ソーンそしてマリー・ラツセル姉妹たち、それに、バン・シプマ兄弟です。この時私たちは何をしていたと思いますか。他の人々の子供一二三人の世話でした! それはこの時まで行なわれていた習慣で、親が気を散らされずに話を聞けるよう、私たちが子供たちを遊び部屋で世話しました。もちろん今は子供も親のそばに座って話を聞きます。昔と比較して今の取りきめはなんとよく聖書にー致しているのでしょう!

ハワイヘ

さあ、もっとアルバムを開いてみましよう。ここにある幾枚かの写真にはヤシの木とバナナが見えます! そうです。私たちはー九三四年の春ハワイに派遣され、ハワイの数人の兄弟たちと働くことになりました。この真には、拡声器をすえつけた車が見えます。ドンはこの車を他の島々に船で送り、海岸でキヤソプをしながら、砂糖キビやバイナツプルの栽培場で講演を放送しました。こうしてハワイのわざは進歩し、一九四一年、例の真珠湾攻撃の起きた年までには、ハワイのあらゆる島々から多くの兄弟たちが生まれ、強力な基礎ができ上がっていました。

その数日後の十二月七日、私たちの家の戸をノツクする音が聞こえたかと思うとピストルを持った四人の男がはいってきて、ドンを捕え、尋間のため軍司令部に連行していったのです。司令部で矢つぎ早やの尋問を受けたドンは、聖書から答えました。怒りに燃えた一将校は、「この間題で聖書のことを持ち出すな!」と言いましたが、ドンは「それはできません。私には聖書から弁明する以外にはないのです」と答えました。遂に責任者はよく納得できた様子で立ち上がり、尋問は終わりました。ドンが連れもどされたのは、「燈火管制」で真っ暗になった夜も大部ふけてからでした。

その後、時には困難にも遭遇しましたが、わざは進歩しました。ある時は、ドンが持っていた船着き場の立ち入り許可が取り消されてしまいました。ところがある友人から、釣りの許可証を申請するようにと教えられ、そのおかげで戦争中もとだえることなく聖書文書の積み荷を受け取ることができたのです。

そのうちに御国会館に出席する人々は徐々にふえ、広い集会場が必要となりました。しかし軍政府が許可しないために建築資材が入手できません。ある日私が家臣帰って見ると、ドンはー通の手紙を手にして考え込んでいました。それは、支部の裹の地所に新しい御国会館を建築することを許可した、協会の新しい会長ノア兄弟からの手紙です。ドンは私にこう語りました。「カイザルは、建ててはならぬと言い、エホバの組織は『建てなさい』と言う。もちろんなんとかして建てなければならない」。

しかしすばらしいことに様々の障害は取り除かれたのです。兄弟たちは日夜働きました。海岸から砂を、山からは石を運び出し、いらなくなった鉄の棒などを農場から安く買い取って、資材に用いました。どんな建物ができ上ったでしょうかり昌ここにある写真を見てください。それはエホバの民とエホバをほめるのに、なんとふさわしく美しいそしてがっしりした会館でしょう。ごらんのように、内部の壁のあいている部分を通してランや他の植物のしげみを広々と眺められます。私たちは本当に喜びました。

日本における奉仕を志願する

やがてー九四八年、十四年にわたるハワイのエピソードは終わりました。ノア兄弟から次のような手紙が来たのです。「ハワイの兄弟のうちでだれか日本に喜んで行ける人はいませんか」。私たち七人は自発的にこの招きに応じました。それから一九六六年の今年まで、私たち七人全部は愛する任命地ここ日本で喜びの奉仕を続けていますが、実際には全部で九人になりました。ギレアデに入学した両親にー緒について行った二人の少女もこの写真に見えますが、今は二人とも成長し、宜教者として奉仕し、ひとりは巡回のしもべの妻になりました。

日本に来る前に、ものみの塔協会の宣教者の学校ギレアデに出席する特権をいただきましたが、これは生涯で最も祝福された経験の一つでした。当時、ドンと私は五十三歳で、学校にはいるのにはかなり年取っていましたが、学校は非常に楽しいところでした。卒業式後、ブルックリンのベテルを訪間し、その玄関の前でこの写真を撮りました。ここに見えるー台の赤いジープは、手廻り品も積み込まれ、日本へ出発する直前に写したものです。そしてアメリカ大陸を横断した時のことも忘れられません。サンフランシスコでジープを船に積み込み、途中私たちの船はハワイに一日停泊しました。しかし、なんという悲しいことでしょう。日本政府は私たち二人のうち、ひとりの入国しか許可できないというのです。その夜、ドンはひとりさびしく乗船用のはしごを上り、やがて船は暗い海のかなたに消えてゆきました。

ドンが日本に着いたのはー九四九年一月一日の前日でした。到着と同時に、ドンは多くの困難に直面しました。米国紙幣は使用できず、その上日本円の入手もほとんど不可能でした。軍人以外の外国人が宿泊できるところもなく、駐留米軍に接収されていた第一ホテルでーカ月間困難と戦いながら過ごし、毎日毎日東京の町中を駆けめぐって、支部事務所にふさわしい建物を探し求めたのです。戦災で焼き払われているため、いくら探して無駄だと、人々はドンに語りました。高級将校から聞いたところでは、妻子を日本に呼び寄せる許可が、一年待っても、まだおりないとのことでした。ドンは、生涯でこの時期ほどエホバ神にしばしば祈ったことはなかったと、後日私に話しました。

しかしエホバはその祈りに答えてくださったのでしょう。そのうちにある建物が見つかり、さっそくものみの塔聖書冊子協会の名で買うことができました。当時その地所に立っていた日本建築の大きな家が、それからの十四年間、支部事務所として用いられることになりました。ドンはこの買い取った家にさっそく移り、二月のきびしい寒さをしのぎました。当時、食糧の配給統制が厳しく、しばしば隣り近所の人々とー緒に行列に並んでは、ニンジン一本、キャベツの葉三枚それに少量の米ていどの配給にありつきました。ある時、八百屋さんが大きなからだをしたドンを見て、かわいそうに思い、夜中に裏の戸口のところヘキャベツ一個をお金も求めずに置いていったそうです。翌日、ドンは久しぶりのごちそうを食べ、大喜びしたと、後日語りました。

一方、私はハワイで全時間奉仕をしながら待ちました。遂に喜びの日、ドンと再びー緒になれる許可の通知を受ける日がきました! ハワイの大勢の兄弟たちに見送られて、飛行機でハワイを発ち、日本に向かいました。当時は飛行機で二十四時間かかりました。再び一緒になれた私たちの喜びがどんなに大きかったかは、ご想像にお任せしましょう。

それから私のあとを追うようにして、他の宣教者たちが私たちに加わり、それから事態は急速に発展してゆきます。このアルバムの終わりの方を開いてその事を見ましよう。
ここに見える大きくて立派な宜教者の家は神戸の垂水に買ったのです。これらは、名古屋、大阪、仙台、横浜、京都そして札幌に開かれた宣教者の家です。こちらに多くの大会の写真があります。最初の頃の新しい兄弟たちの小さな集まりから、大きな大会ヘと発展しています。この写真は、夏に川で浸礼を受けている情景で、こちらに見えるのは日本の公衆浴場で行なわれた冬の浸礼です。

今では古い支部の家の跡に、六階建の美しい支部の建物が立っています。それはこの写真です。ドンはこの建築工事で大きな役割を果たし、工事を多くの面で監督できたことを喜びました。現在、日本の四千人以上の御国伝道者のためにこの支部事務所は大きく貢献しています。雑誌の発送量だけでも、この建物が完成して以来二年半の間に二倍にふえています。この建物の中は丁度ミツバチの巣箱のように活気に満ちています。

それで、私はこれまでの活動に満ちた幸福な生涯を回顧し、エホバの保護の力に心から感謝しています。もちろん苦しい時や、途方汇暮れたり、悲しみに打ちひしがれたりした経験あります。しかし、これらはみな不完全な人間の信仰を試みるために与えられたもので、またそのために必要でした。そして時がよくても悪くても、もし忠実を保つなら、何物も私たちを神の愛から引き離し得ないことを証明する貴重な機会をそれらの経験は与えてくれました。それですべての苦しみを忘れ、与えられた平安に対して私たちの愛ある天の父に感謝できるのです。

さて今日は私たちの過去の世界の想像の旅に一緒に加わってくださり、ありがとうございました。このアルバムもここで終わり、この話も終わりますが、私の心は感謝の思いであふれています。ドンは神の,忠実な人一のひとりとして地上での歩みを終えました。

今、私は「恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さる」ようにと祈っています。(ペテロ第一、五ノ一〇) 私は割り当てられたこの場所で働き統けたいと思っています。親類の手紙には、「今、あなたはひとりなのですから、お帰りになりたいならいつでも喜んでお迎えします」と書かれています。しかし私は決してひとりではありません。ノア兄弟もその親切な慰めの手紙の中で、「厳しい試練に接するほど、私たちは神によりー層近づき、神の恵みを知ることができるのです」と述べています。今私は日本の数多くの愛する友人に囲まれ、その上忠実な愛する宜教者たちもともにいます。いつもエホバ神を信頼する時、羊のような人々を見出して養う、輝かしい奉仕の宝によって寂しさは消えてゆきます。今の世に、これより報いの大きなわざは決してありません。


1974年10月23日に死去  人生の真の目的を見いだす 中村雅一の語った経験 wt1977.12.15
ドンおよびメーブル・ハズレットはこの宣教者の家に住んで,1954年からハズレット兄弟の亡くなった1966年2月20日まで忠実に伝道奉仕を行ないました。       Donald Haslett   日本の年鑑 1978 240p
93年の人生を回顧して フレデリック・W・フランズの語った経験 wt1987.05.01
呼びかけられたら,応じますか 桃原真一の語った経験 wt1992.11.01
内気を克服するよう助けられました ルツ・L・ウーリック wt2000.06.01
エホバは飢えた心を真理に引き寄せてくださった 越野あさの wt2003.10.01
人生の真の目的を見いだす 中村雅一によって語られた経験 awake 1974.08.22
「神の目的」地域大会 バプテスマに関して語られた経験 awake 1974.11.22
父は“原爆によって刑務所から解放され”ました 三浦 勉 awake 1994.10.08
             ふれ告げる人 490p
1974年「神の目的」地域大会  WT 1974.11.22

東洋でエホバの賛美者が産み出される    ふれ告げる人々 490p

さて,日本ではどんな出来事が生じていたでしょうか。第二次世界大戦前の日本では,100人ほどのエホバの証人が伝道しているにすぎませんでした。その多くは,戦争中の残虐で抑圧的な仕打ちに直面すると妥協しました。少数の人たちが忠誠を保ったとはいえ,組織的な公の伝道活動は停止しました。しかし,1949年1月,ギレアデで訓練を受けた宣教者ドン・ハズレットが東京に到着した時,エホバの王国をふれ告げる業は日本において新たなスタートを切りました。2か月後には,彼の妻メーブルもやって来て合流することができました。日本は,真理に飢えた大勢の人々がいる畑でした。既に天皇は自らが神であるという主張を捨てており,神道,仏教,カトリック,そして日本基督<キリスト>教団(日本の様々なプロテスタント宗派によって構成される)は,敗戦に終わった日本の戦争努力に協力したため,すっかり威信を失っていました。

1949年の末までには,ギレアデ学校出身の13人の宣教者が日本で忙しく奉仕しており,その後さらに大勢の宣教者 ― 合計160人以上 ― がやって来ました。奉仕に用いることのできる文書はほとんどありませんでした。ハワイで古風な日本語を使っていたある宣教者たちは,最新の日本語を学ぶ必要がありました。別の宣教者たちはわずかな基礎教育を受けてはいましたが,新しい言語にもっと慣れるまでたびたび和英辞典に頼らねばなりませんでした。ほどなくして,戦時中に信仰を捨てなかった石井家族と三浦家族が組織と連絡を取り,再び公の宣教に参加するようになりました。
宣教者の家が,神戸,名古屋,大阪,横浜,京都,仙台に順次開設されました。1949年から1957年までは,本州の大都市で王国の業を確立することに主な努力が向けられ,その後,働き人たちは他の都市へ移り始めました。畑は広大であり,日本中で徹底的な証言を行なおうとするなら,多くの開拓奉仕者が必要とされることは明らかでした。このことが強調されて多くの人が志願し,それら勤勉な奉仕者たちの一致した努力に対して驚くべき反応が見られました。最初の10年間でエホバの賛美者が1,390人生み出され,1970年代半ばには日本中に3万3,480人の熱心なエホバの賛美者がいたのです。そして取り入れの速度は速くなってゆきました。

1974年「神の目的」地域大会  WT 1974.11.22

25年前,メーブル・ハズレットと英語で研究をした女学生のグループの中に,東京・三田の浅野比佐江がいました。大人になって結婚してからエホバの証人との連絡は途絶えていました。しかし,最近になって,ものみの塔協会東京支部の近くで家から家の訪問を受け,長い年月の後再びメーブルと研究を始めました。二人は共に最初の出会いを示す,メーブルと女学生たちが一緒に撮った学校での写真を持っていました。そのいちばん最初の研究は忘れられないものだったそうです。そして,ついにこの地域大会でバプテスマを受けました。

人生の真の目的を見いだす 中村雅一  Awake 1974.08.22

富永医師は東京でも指導的な病院に勤務しました。ある日,彼は年配の宣教者が,その病院に入院していると知らされ,是非彼女を訪問してみようと思いました。その患者の名前はメーブル・ハズレットでした。そして彼女がエホバの証人であると知って本当に喜びました。それから毎日彼女を部屋にたずね,聖書の質問をしました。ここで聞いたことはすべて彼に大きな印象を与えました。彼は感謝の気持ちからメーブルに,しばしば果物や花を贈りました。 間もなくメーブルは大きな手術を受けました。血の問題が関係していたので,富永医師は仲間の医師に,何故エホバの証人が血を拒否するかを明らかにし,また,血が用いられないように確かめるため,彼自身手術に立会いました。メーブルは急速に快方に向い医師たちや病院の人たちを驚かせました。病院のスタッフの愛と尊敬を勝ち得て,彼女は今日,79才になりますが,一切の手当と薬が病院の好意により無償で提供されています。

フランズ兄弟 ベテルに招かれる    WT 1987.05.01

印刷機から雑誌が生産されなかった土曜日の午前中,私たち大勢の兄弟たちは,予約者の住所氏名の記された茶色の包装紙で雑誌を巻いてのり付けし,その後,郵便局で取り扱ってもらいました。私は,聖書文書頒布者部門で奉仕していたドナルド・ハズレットがメーブル・カーテルと結婚するためにベテルを去るまで,その仕事を何か月も続けました。その後,マートル街35番からコロンビア・ハイツ124番の協会の事務所へ移り,聖書文書頒布者部門で奉仕することになりました。

My Treasure of Service  WT 1966.07.15

AS TOLD BY MABEL HASLETT

“PRECIOUS in the eyes of Jehovah is the death of his loyal ones.” These beautiful words of the psalmist (116:15) brought great comfort to me at the death of my lifelong companion. They were quoted in the lovely talk given at my husband’s funeral by the overseer of the Japan branch of the Watch Tower Society. I also received many loving letters of sympathy from my spiritual brothers in many places. So I can rejoice for him, and as I look back over the many years that Don and I were privileged to serve God together, I thank our Creator, the Giver of every good gift.
Maybe you would like to take a mental journey with me into our past. I have in front of me our old photograph album, and, as I look through it, it brings back many happy memories. Let us thumb through its pages together, all right?
BIBLE TRUTHS ENTER OUR LIVES
One picture in the photograph album dates back fifty years ago this summer! The picture is of a young couple, Don and me, just turned twenty and engaged to be married. What was our religious background? I had attended an Episcopalian Church school. This picture shows the class at graduation, where the black-robed “sister” told us that the best way to serve God was to marry a rich man who could endow the school. Don had joined the Baptist Church in order to play on their football team.
Then, in August of 1916, we first heard the beautiful words of the truths found in the Bible. They touched a responsive chord in our hearts and we moved quickly to line up our lives with it. We associated with a small Bible study class in Mount Vernon, New York, and then attended our first public lecture on October 1, 1916, at “The Temple.” This was the Bible Students’ centrally located meeting place in Manhattan at West 63d Street near Broadway, used frequently for the showing of the movie and slide feature, the “Photo-Drama of Creation.” Who was the speaker that day? It was Charles T. Russell, the Watch Tower Society’s president. I can still remember his piercing eyes and the kindly smile as he shook our hands after the talk.
The next few weeks brought the privilege of seeing the wonderful Photo-Drama of Creation, which gave an overall view of the great Creator’s purpose. This, along with constant study and sharing in the preaching work of that time (which consisted of distributing the Bible Students’ Monthly in the New York city apartments and subways) deepened the conviction that this is what we wanted to do with our lives, that is, serve our loving heavenly Father. Although Don and I were engaged, we thought we could serve God better as single persons.
Opportunity for baptism was afforded on the first Sunday of each month in a pool in the basement of “The Temple.” But on October 31 the saddening news came of the death of Brother Russell. His funeral services were conducted on Sunday, November 12. So the first Sunday in December, 1916, saw Don and me being immersed in that pool in symbol of our dedication to do the will of God. From then on, until Don’s death on February 20, 1966, we have tried to the best of our very imperfect abilities to do that will.
DIFFICULT TIMES
The year 1917 brought increased privileges of service for both of us. Don spent his summer vacation working at the Bethel headquarters of the Watch Tower Society in Brooklyn, New York. I was busy in the preaching work, loaning out the six volumes of Studies in the Scriptures. Then on July 17, the seventh volume, entitled “The Finished Mystery,” was released. From then on, tension increased both inside and outside the organization. War hysteria and clergy opposition mounted against the little band of Kingdom publishers. But we did not take it lying down. In fact, on Sunday, December 30, 1917, we got up before dawn to take part in a mass distribution of a special issue of the Bible Students’ Monthly. It contained a devastating message—“The Fall of Babylon.”
You are probably familiar with the turbulent history of the years 1918, 1919, with the arrest and imprisonment of the Watch Tower Society’s officials, including its president, J. F. Rutherford, and also the persecution of the Bible Students, as Jehovah’s witnesses were called at that time. It was a very stormy time for young, new ones in Jehovah’s organization. Don was accused of supplying me with seditious literature for distribution, but the Chief of Police in my town, who interviewed me, pulled a copy of The Finished Mystery out of his desk drawer and said: “I respect Mabel more than I do those who accused her.”
We did what we could in those difficult months, and used the time well for study. Then with the end of the war our hopes rose for the release of our brothers who had been jailed. We took part in a nationwide petition to that end. Now came the joyful word of their release! On the evening of March 26, 1919, those of us who got the news prepared a happy homecoming feast. I remember making a hundred doughnuts, which the brothers seemed to enjoy after nine months of prison fare. I can still see Brother Rutherford reaching out for them. It was an unforgettable occasion as he and the others related their experiences. I also remember short-statured Brother DeCecca standing on a chair so that all could see and hear him.
INCREASING OUR SERVICE TOGETHER
The work of Kingdom preaching revived and rapidly increased. We were overjoyed to be among the 6,000 who attended that first wonderful postwar assembly at Cedar Point, Ohio. At that soul-thrilling convention, without telling me, Don signed up for Bethel service, and I, without telling him, registered for the full-time preaching work. So on the way home from the convention we told each other good-bye forever. But this proved to be forever in the true sense of the Hebrew word oláhm, that is, not “forever,” but just “to time indefinite.”
Here are some more pictures in our photo album. This one was taken on the Bethel roof. It is a group of members of the Bethel family. There is Brother Riemer with a crown of pinkish-red hair, Ed Betler, Ed Hazlett and a young Fred Franz. Also, a dearly loved Evander Joel Coward.
It was Brother Coward who gave Don and me some fatherly advice. It was in connection with First Corinthians 7:20. He explained that an engagement is a contract and that it should be fulfilled. I have to admit we were easily convinced, and, on December 31, 1920, we were married. Here in our photo album is a picture of our little house where we were privileged to have the local Bible class meetings and to entertain traveling representatives of the Watch Tower Society.
September, 1922, came and with it the second Cedar Point convention. I can still hear the ringing words: “Back to the field, O you sons of the Most High. Advertise, advertise, advertise the King and his kingdom!” Now then, right here in our picture album you can see the result of that assembly for Don and me: a Model-T Ford, loaded with our worldly goods—our little home sold! And the next picture is that of a small wooden structure on a hill overlooking the Hudson River, our headquarters as we worked full time in the ministry in nearby Peekskill.
In this next picture, joining us for three days’ service were three people that I think many of you know—Bill, George and Mary Hannan. All of them are still serving faithfully at Brooklyn Bethel, forty-three years since this picture was taken. Incidentally, it was their mother who first turned our minds to the truths found in God’s Word, the Bible.
BETHEL SERVICE
This happy full-time service, called “colporteuring” in those days, lasted over a year. Then in the spring of 1924 Don applied for service at Brooklyn Bethel. The application was accepted for both of us to come to the headquarters of the Watch Tower Society. There, for over eight years we enjoyed that privilege, Don working in the service department and my assignment being in the circulation department. I remember when the Watchtower subscription list reached 50,000. We celebrated with a tea party!
Don later served as the secretary of Brother Rutherford. This entailed some traveling for Don. Here is a picture of them standing before a very frail-looking airplane somewhere in Europe. And this picture shows Don with Brother R. J. Martin in the garden of the Magdeburg Bethel in Germany. What a history that place had! It was occupied by the Nazis, and now is occupied by the East German Communists.
Oh, here is an interesting snapshot taken at the Columbus, Ohio, convention in 1931. That is when the new name “Jehovah’s witnesses” was received. There with me stand Sisters Van Amburg, Thorn, Mari Russell and Brother Van Sipma. And what do you think we are doing? We are taking care of other people’s children, 123 of them! This was so because up until that time we followed the custom of putting the children in a playroom so that the parents could hear the talks undisturbed. Of course, children now sit with their parents. What a wonderfully more Scriptural way it is today!
SENT TO HAWAII
Let us turn some more pages of our picture album. Here are some pictures showing palm trees and bananas! Yes, it is Hawaii, where we were sent in the spring of 1934 to work with the handful of brothers there. Here is a picture of a car equipped with loudspeaker horns. Don would ship it to the other islands, and, camping out on the beaches, broadcast the lectures in the sugar and pineapple plantations. The work in Hawaii thus progressed, and, by the time of the attack on Pearl Harbor in December, 1941, there was a solid nucleus of fine brothers of all the island nationalities.
A few days after December 7, there was a knock on the door. Four men armed with pistols took Don to military headquarters for questioning. Martial law was in force. As one after another of the officers shot questions at him, Don would answer from the Scriptures. One said angrily, “Leave the Bible out of this!” But Don replied, “I can’t—it’s my defense.” Finally, the one in charge stood up, apparently satisfied, and well after “blackout” time they brought Don home.
After that, although we were occasionally harassed, the work progressed. Don’s permit to enter the dock area was revoked, but a friend suggested that he get a fishing license. So all through the war he was able to get the shipments of Bible literature uninterrupted.
Gradually attendance at the Kingdom Hall increased, so that a larger place was needed. But the military government said “No.” No building materials were available. When I came home one day, Don was sitting, serious, a letter in his hand. It was an authorization from Brother Knorr, the Society’s new president, to build a new Kingdom Hall on the property back of the branch. Don said: “Caesar says we can’t build. Jehovah’s organization says, ‘Build.’ Of course, we build.”
It was wonderful how the obstacles were cleared out of the way. The brothers worked day and night, bringing sand from the beaches, rock from the mountains and discarded steel rails purchased cheaply from the plantations. And the result? Look at these pictures—a beautiful, substantial meeting place for Jehovah’s people, to his praise. As you can see, the inside wall is open to a vista of orchids and island foliage. How we rejoiced!
VOLUNTEERING FOR SERVICE IN JAPAN
After fourteen years, in 1948, our Hawaiian episode comes to an end. There was another letter from Brother Knorr: “Who of the Hawaiian brothers would be willing to go to Japan?” Seven of us volunteered; and until this year, 1966, all seven of us have continued serving here, happy in our loved assignment. In fact, we became nine. The two little girls in this picture, who accompanied their parents to Gilead, have now grown up and are serving as missionaries, one as a circuit servant’s wife.
But before going to Japan we were privileged to attend the Watch Tower Society’s Missionary School of Gilead, a most blessed interlude in our lives. Don and I were fifty-three then, a bit old to be going to school, but we were highly pleased. Graduation was followed by a visit to Brooklyn Bethel, and this picture taken in front of Bethel shows a red jeep, loaded with our possessions, about to start the trek to Japan. We had a memorable trip across country, and loaded the jeep on a ship in San Francisco. There was a one-day stopover in Hawaii. But now a heartbreak for me! The Japanese government would permit only one of us to enter the country! So that night Don mounted the gangplank and sailed away into the dark unknown alone.
He arrived in Japan just before January 1, 1949, with many problems to face. American money could not be used, and Japanese yen were hard to acquire. There were no living accommodations for foreigners except with the military. So Don lived for a difficult month in Tokyo’s Dai Ichi Hotel, which had been taken over by the American Occupation forces. Daily he searched all over the city for a suitable place for a branch home. He was told it would be practically impossible to find a place after all the war destruction. High-ranking army men told him they had been trying for over a year to get permission for their wives to enter the country. Don told me afterward that he prayed to Jehovah God more at that time than in all his life before.
Jehovah seems to have answered those prayers, for a place was found and quickly purchased in the name of the Watch Tower Bible and Tract Society. At the time there was a large Japanese-style house on the property, and this was to serve adequately as branch headquarters for fourteen years. Soon after the purchase Don moved in and camped there all through the cold month of February. There was strict food rationing then, so that he would stand in line with the neighborhood people and get his allotment of perhaps one long carrot or a few leaves of cabbage, together with some rice. He said that one time the vegetable man took pity on his big frame and brought a whole cabbage to the back door at night, accepting no money for it. The next day Don feasted!
I waited in Hawaii and engaged in the full-time ministry. Then there came that happy day—a letter with my permit to join Don! I was sent off by plane by a crowd of loving Hawaiian brothers, the trip taking twenty-four hours in those days. As you can imagine, we had a happy reunion.
Then in rapid succession the other dear missionaries joined us, and as you leaf through the album you see the quickly expanding scene. Here is a fine, large missionary home purchased in Tarumi, Kobe, and these later homes at Nagoya, Osaka, Sendai, Yokohama, Kyoto and Sapporo. Here are assembly pictures, first of small groups of new brothers, then of larger and larger groups. There were baptisms in rivers in summer and in Japanese bathhouses in winter.
Today our old branch home has been torn down, and here is a picture of our beautiful new branch building, which stands six stories high. Don rejoiced to have a big share in its construction, supervising much of the work. Now it serves more than 4,000 Kingdom publishers in Japan, and the shipments of magazines alone have doubled in the two-and-a-half years since the building was completed. It is a real hive of activity.
So, thanks to Jehovah’s preserving power, it has been a happy, full life. Of course, there have been the difficult times—puzzling, heartbreaking experiences, these permitted and necessary to test the quality of faith of imperfect creatures. These have been valuable in giving opportunity to prove that, if we stick through thick and thin, nothing can separate us from God’s love. So we can forget the trials and thank our loving heavenly Father for the peaceable fruit.
Well, thank you for coming along with me on this mental journey into the past. Now, at the end of the story and of the picture album, gratitude wells up in my heart. As one of God’s “loyal ones,” Don has finished his earthly course. For me, my prayer is that ‘the God of all undeserved kindness will finish my training and make me firm and strong.’ (1 Pet. 5:10) I am happy to keep on here in my assigned place.
Relatives have written: “Of course, now that you are alone, you will come back to your own country.” But I am not alone. As Brother Knorr said in a kindly letter, “When these more severe trials hit us it brings us very close to our God and we can appreciate his loving-kindness.” Also, here in Japan I am surrounded by a host of loving friends whom I love, and by dear, faithful fellow missionaries. By constantly turning to Jehovah God the void is filled with the glorious treasure of service, that of finding and feeding sheeplike persons. There is no more rewarding work on earth today.
My help is from Jehovah, the Maker of heaven and earth.—Ps. 121:2.

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