◆書く/読む/喋る/考える◆

言葉の仕組みを暴きだす。ふるい言葉を葬り去り、あたらしい言葉を発見し、構成する。生涯の願いだ。

内田樹先生の過去ログを拝読しつづける(10)

2006-05-29 22:32:36 | 思想・哲学
*これもちょっと後戻りだが、短いのに気になる記事だ。


10.『朝日カルチャーセンター講演打ち上げ!』(04.04.01)


「朝日カルチャーセンター(・・・)の講演は日記にも書いているとおり、基本的に即興である。」

*と書き起こして、「即興」のやり方にお触れになっている。もちろん、おれたちに真似ができる芸じゃない。関心のある人は実際の記事にあたってください。

「しかし、人間『火事場のバカ力』とはよく言ったもので、準備がなければないなりに、その場しのぎの小咄をいくつがつなぐと、90分でちゃんと『オチ』がつくから不思議である。」

*ご自分の芸を「火事場のバカ力」と呼んでいるが、いわゆるクロウト芸ってやつだろう。おれにも、少しでもこんなことができたら。そんな興味をもって読む。

「人間というのは、毎日ふつうに暮らしているだけで、「必要な情報」とそうでない情報を無意識的に仕分けしている。/私の記憶庫にストックされている情報は実はすべて「私にとって必要な情報」なのである。/ただそれらの断片的なデータが「どういうふうにつながるのか」をデータをストックしている本人も分かっていないというだけのことである。」

*「人間というのは」とお書きになっているのが、ひとつの聞かせどころだ。この言葉使いを通して、この話は私(内田先生)にだけ特別に成り立つ事柄を考えているんじゃない、とおっしゃる。貯金をふくめて持ってるものは何ひとつないおれを、「無意識はきみのリソースでもあるんだよ」と先生が励ましてくれてると読むこともできる。

*うえの説明だけでは抽象すぎてわかりにくいので、次のような生活感にあふれた例をあげている。こんなところはサービス精神にあふれている。ねえ、そこの奥様(笑)。

「折り込み広告の買う気のぜんぜんない商品のスペックなどを熟読しているとき、自分はいったいなぜこのようなゴミのような情報を拾っているのか、ウチダ本人には理由が分からない。/そのときには分からないけれど、そのゴミ情報の中の何かが、それ以外の何をもってきてもリンクできないようないくつかの断片をつなげて、ひとまとまりの知見を構成することがある。」

*ここのところはバルトの「鈍い意味」に通底するお話だと思われる。映画や写真、それに小説にも、メイン・テーマ(主要な意味)と、そこから逸脱するノイズ(鈍い意味)があるとバルトはいった。おれのブログでは何回も例にあげているので恐縮だが、正月の初詣の写真(振袖姿の娘)の背景に写しこまれたホームレスの小さな映像のようなものだ。その後バルトは、この鈍い意味を「プンクトゥム」として積極的に評価した(『明るい部屋』)。主要な意味(「ストゥディウム」、ありきたりの主要コード)を破壊して、新しい意味、コードを構成する生成装置として。

*前の引用に戻って考えてみる。
「毎日ふつうに暮らしているだけで、『必要な情報』とそうでない情報を無意識的に仕分けしている」
とサラっとお書きになってるが、ここでいう「必要」とは、そのときどきに無意識が決めた必要性なのだ。意志をもって選択した必要性ではない。これをやってる人間(といっても現代に生きる人間一般だが)は、近代に主張されてきた人間像からはすっかり離れている。ポスト・モダン人間(=現代人)と呼んでいい。とは『寝ながら・・・』(内田樹)から得た知識。

*だから全国偏差値やIQで分類された学校時代の人間像は、どうしようもなく古臭い人間像なのだ。と一発、飛躍しておこう。

「本人は分かっていなくても、私に代わって「ウチダがいずれ必要とするであろうデータ」を集めている「ひと」(誰だか知らないけれど)にはちゃんと分かっているのである。/この「ひと」とはふだんはコンタクトをとることができない。/しかし、「火事場」になると出てくる。」

*ここでおっしゃってる「ひと」とは、単純な「センチネル」(無意識の扉の前に立つ門衛)というわけでもなさそうだ。無意識を司る「ひと」、特別な働きをもった無意識そのものと理解できるかもしれない。内田先生的にいうなら、自分に潜んでいる「他者」だ。

*この「他者」のことを、ひとはいろんな呼び方をして大切にしてきたんじゃないか。誰だったか、これを自分の中に住んでる「神社」だといった人もいた。たしか音楽家だったと思う。彼にとってのそれは、ときどき重要な場面で顔をだす美の判定者だった。自分の中に「神社」を構築する重要性を説き、そのためには一流の美にどんどん触れるべきだと主張していたはずだ。

*ここに、無意識が持つ質の高低をみることもできる。この点はまだ内田先生は論じていない。永久に論じないかもしれない。一部の天才を主要な関心事にしていないように見えるからだ。

「『私に代わって情報を仕分けしているひと』とコンタクトを取るための方法はひとによって違う。/たまたま私の場合は、『十分な下準備をしないで聴衆の前に立つと、『このひと』が助け船を出してくれる』ということが経験的に分かっているので、そうしているのである。」

*いずれにしても、おれたちなりに「私に代わって情報を仕分けしているひと」がいて、そのひとと「コンタクトを取るための方法」をそれぞれの仕方で知っておく必要がある。これが今回の読みのオチだ(笑)。

《了》


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