◆書く/読む/喋る/考える◆

言葉の仕組みを暴きだす。ふるい言葉を葬り去り、あたらしい言葉を発見し、構成する。生涯の願いだ。

内田先生の『老師たちからのお年玉』を読む

2006-01-18 01:31:50 | 思想・哲学
いまさらだけど、元旦(1/1)に内田樹先生が投稿された記事を読んでみた。正直いう。何回も読んでいる。読んでも読んでも、内容がさっぱりと理解できなかっただけだ。もう18日。うっかりしてると2月が始まり、梅が咲く。永代橋のたもとでは、早咲きの桜が出番のタイミングを窺がっている。これではいけない。一日も早く、おれの「今年」を始めなければ、と必死になって読んだ。

まず先生は、こうお書きになる。
「西暦2006年、平成18年、戦後61年。私は9月に56歳となる。/…(略)…「初雪」が来る前には浮世の勧工場の出店を畳んで、甲南山麓にささやかな道場を建て、晴耕雨読の隠遁生活の準備を始めたい。/とりあえず2011年年度末を以て世俗のお仕事からはリタイヤする予定であるから、年期が明けるまであと5年のおつとめである。」

醤油をつけたモチを頬張り、ひとり静かに酒をグイッとやってみれば、誰だってこんなことを考えるだろう。今日までの来し方を思い、めぐり合った人々の顔を想いうかべ、遭遇した出来事の運、不運を計りに掛けてみる。
(窓ガラスを打つ風の音。新春の風だ)
そして人は明日を思う。一年後、いや五年後の自分に思いを馳せるとしても、今日という日にだけはふさわしい光景のはずだ。鬼が笑って悶絶するなら勝手にしてろ。
(真新しいクズ入れには、めくられたカレンダーの表紙が捨てられている)

「この『カウントダウン方式』というのは私が好んで採用するところのものであるが、たいへん使い勝手のよいものである。/『カウントダウン』というのは、先取りされた『終わった時点』から『想像的に回顧された過去』として『現在』を見るということである。」

五年後の自分の姿が真剣に願われたものなら、「現在」とは、その準備段階である。先生ならお金を十分ためてるはずだし、武道の経験も知識も思想も満たされているだろう。教えることにも慣れている。この「夢」は手堅く実現されるだろう。
と、読者は思うんじゃないの?

ところが先生は、この想いを、読者の期待を、バラバラに打ち壊しにかかる。

「現在の視座に腰を据えている限り、私たちはすでに起こったこと、すでに知っていること、すでに経験したことを量的に延長することでしか「未来」を考想することができない。/だが、未来は決して「現在の延長」ではない。/…(略)…私たちはそのつど未来を「現在を量的に延長したもの」として把持しようと空しく努力する。」

文頭でお書きになった甲南山麓の道場建設の夢(予定)とは、文字通り、現時点と地続きの向こう側にある異質物であって、そんなものは「未来」じゃないと仰る。

「『未来の外在性は、未来がまったく不意打ち的に訪れるものであるという事実によって、まさしく空間的外在性とは全面的に異なったものである。(…)未来の 先取り、未来の投映は、未来というかたちをとった現在にすぎず、真正の未来ではない。未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれ を捉えるものなのである。未来とは他者なのだ。』(『時間と他者』レヴィナス著/原田佳彦訳、法政大学出版局、1986年、67頁)」

「未来」とは真正の「他者なのだ」と。

彼女のほんとうの気持ちがわからないとき、おれたちは身もだえしながら、その考えを探ろうとする。いちいちの会話を思い出し、そのときの表情や仕草まで思い出し、おれにたいして彼女はこんなことを感じていたんじゃないか、などと想像をめぐらせる。
このとき男は、知らず知らずのうちに「彼女」になっている。男が愛する可愛いくて純粋な気持ちをもった女になっている。おれに抱いてほしいって一回くらいは感じたんだろうか? と問うとき、男は女体の不思議を身にまといさえする。

「しかし、それ以外に他者を世俗の人事に介入させる方法がないときは、「嘘も方便」ということがある。/俳優たちが古来より特異な身分に置かれ、世俗と異界の「グレーゾーン」にすみかを定められていたのは故なきことではない。/私たちが「他者からの声」を聴き取るためには、そのような技術的な迂回をするほかなかったからである。」

とは、おれたちの、そんな経験を言い当てていらっしゃるんじゃないのかな。
そして、おれたちは何もわからなくなる。どんな判断にしたって、なにも根拠がないことに思い当たる。たとえ彼女にケータイして本心を確かめようとしても無駄だろう。「さあ、そんなことあったかなあ?」といわれるのが落ちってものだ。「そうよ」なんて軽く相づち打たれて、嘘を強要したことになるのも嫌だ。さっぱりと関係がわからなくなる。
「おれたちって、一体なんなんだ?」

こうして真性の「他者」について考える者は、底なしの疑問の海に溺れていく。こんな喩えじゃ、哲学的な理解からは遠いはずだけど。
そして、ついにはこう考える。「まあ、いいや。おれの気持ちは変わんないし、今度会ったら、なんかわかるかも」
これが先生の仰る「ラーメン」か? いや、そんなことより。こんな例で先生の仰る「哲学」が理解できるのか? ほんと低脳で下品だよな、おれは…。

だけど、なんで「ああ、お正月って、いいなあ」になるんだ? なんで文末が、
「この『判で押したような正月風景』の『かけがえのなさ』が痛切に、涙がでるほどありがたく身に沁みるということなのである。」
になるんだろう? なぜ「皆様どうぞよい一年を」で記事を結べる?

フッと考えた。未来は他者だ。彼女と同じで、真性の他者だ。おれ(現在)から完璧に断絶した異次元の存在だ。とすると現在は、過去にとって、そんな時間だったんじゃないか。いま、おれたちは過去にとっては想像を絶する異次元に存在している。この存在のあり様を、「奇跡」と呼んでも大げさではないんじゃないか? 彼女と出会ったことは奇跡だった。おれたちはいま、奇跡的に成立している「とき」を生きている。

こう考えてみると、いまとは「かけがえ」がないものだし、「ありがたく身に沁みる」時間となる。こんなに不満で、わけのわからない状態であってもだ。

とすれば、ともに「いま」に驚き、ともに「いま」を祝福する先生にとっては、さらに「よい年」であることを願う気持ちは嘘じゃない。

あー、この読解はむずかしかった! さて、おれも奇跡的な一年を新しく始めるとするか。夢なんて、なにもないけどね。
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