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言葉の仕組みを暴きだす。ふるい言葉を葬り去り、あたらしい言葉を発見し、構成する。生涯の願いだ。

『集中講義終わる』(内田先生)の野蛮性

2005-12-28 18:43:13 | 思想・哲学
ついに内田先生の京大集中講義(四日間)が終わった。先生らしく、この記事にも、さまざまな問題の種がブチ蒔かれている。でもむずかしい。そこで最寄のTA(∽)TYUYAへ行って、三日目の講義に使ったらしい『北北西に進路を取れ』を借りてきた。これ、知らない人が多いんじゃないかな? 『ゴーストバスターズ』(四日目に使用)って、マシュマロマンが出てくるやつだよね。掃除機みたいな機械とか、レーザー銃で、NYかどっかに巣くっていた幽霊(ゴースト)を退治するってドタバタ映画。こっちはうっすらと覚えていた。

『北北西に進路を取れ』って、ヒッチコック映画なんだ。映画の最初のシーンにケンタさんみたいな本人がでてきて、ビックリした。バスのドアが閉じて、あわやのところで乗り損ねるってシーンだ。オチャメな作家さんだな。自分がシナリオを書いた映画に、よくワンポイントで顔をだしたって聞いたことがある。署名の代わりかな? 日本の作家にもいたよね。小松左京氏? 筒井康隆氏?

せっかく借りて見たんだが、先生のおっしゃってることは何もわからなかった。当たり前か。この映画を観た人すべてが、先生の言葉をわかるなら、世界はこんなじゃなかったはずだ(ちょっと無理?)。なんにしろ、映画はおれの「暗黙知」に書き加えられたはずだ。と、財布の軽さを自分に説得する。

ってことで、やむなく先生のブログ記事に戻ります(笑)。
(戻るんかい! 前書き、ながっ!)

はじめに先生は、こうお書きになる。

>ハリウッド映画をトラウマ、抑圧、代理表象、転移などにからめて論じるというスタイルはこれまでの映画論と同じだけれど、今回の集中講義では「同期」、「閾下知覚」、「暗黙知」、「無意識的言語活動」といったことに軸足を置いてみた。

うっかり読むと、カナーリ当たり前っぽい「映画論」のように見えるんじゃない? 「フロイトかい!」「いまさらなっ!」「旧い映画を使って!?」こんな感じで、不満タラタラな人もいるような気がする。ところが、先生の試みは想像を絶するほど「野蛮」なんだ、たぶん。「軸足を置いてみた」というところ、なんかがね。 


>時間意識(*1)の形成とアナグラムをつなぐ理路がよくわからなかったのである。/それがぼんやりわかってきた。//アナグラムは「閾下の言語活動」であり、そこでは時間も空間も意識次元とはまったく違う仕方で展開している。

「まったく違う仕方で展開している」と、お書きだ。「違う仕方」とね。先生がこう述べれば、「どんな仕方なんだろう?」と、すでにお考えになっているはずだ。フロイトもラカンも、「無意識」はあるといった。特有の仕方で言語化されているとも。でも、そこまで。どんなふうに特異かは、あまり(全然?)言及しなかった。一方、われらが内田先生は、「無意識」の構造について考えようとしてるんじゃないか。これが野蛮でなくて何だ?!  「暗黙知」(ボランニー)の理路と似ているっちゃ、似ているが、もっと詳しく「構造論」的にだ。第一、いまだに「無意識」なんてホントにあるの? あるってんなら存在を証明しろよ。みたいなレベルがあるとも聞いた。

つづいて、先生はこうお書きになっている。

>この識閾(*2)を適切にキープする能力が人間の人間性をどうやら最終的に担保している。/そんな気がしてきたのである。/識閾を設定し保持する力こそが、実は人間の知性の核心なのではないか。

ここ、ムチャクチャ重要じゃない? まず、「無意識」の存在が明確に前提とされている。「無意識」に構造が考えられたら、そいつは存在証明になるんじゃないか。芥川の小説に地獄と天上の「構造」について書かれているけど、あれはギリシャ神話や日本の地獄絵を継ぎ足したもので、実証的にキチンと考えられた「構造」じゃない。でも先生の野蛮さは、そこだけじゃない。

「無意識」が明確になれば、ついで、それ以外の意識、つまり「覚醒した意識」が明確になるはずだ、と。これ、逆をやろうとしているんだな。フロイトにしても、「覚醒した意識」以外のものとして「無意識」を考えた。「無意識」について、「覚醒した意識」から考えたんだ。「無意識」に言及するとは、そういうことだろう。接頭語の「無」(un-)がそれを示している、いうまでもないけど。先生は、その逆を考えようとされてるんじゃないか? これ、誰もやらなかったことだ。。「無意識」の構造から、「覚醒した意識」を眺めようと志向されている。下から覗けば、フレアスカートやロングスカートに隠された「O脚」も露わになる。おれの得意な下ネタを使えば。

だけど実際のところ、「識閾を適切にキープする能力」、「識閾を設定し保持する力」って、どっから湧いてくる「能力」「力」なんだろう? 
おれが住んでる会社の寮って、一部屋が和室の六畳と四畳半に分かれていてね。その四畳半のほうで、本に押しつぶされそうになって棲息している。六畳と四畳半の間、アッチとコッチの間は、フスマが仕切っているんだ。コッチのほうが狭いから、ときどきシキリをアッチ側に移動させたくなるけど、そうはいかない。この「シキリ」は、マンション(一応はマンションなんだ)の構造自体が決めている。

でも「無意識の部屋」と「意識の部屋」を隔てるシキリ、「扉」は、人間が、いわば勝手に決めているんじゃないのか? 日本人のおれとモザンビークの住人じゃ、このシキリの様子は違うだろう。話を外国に飛ばさなくても、女性とじゃ、シキリの様子はぜんぜん違ってる。と、ため息まじりに思うことが多いのは、おれだけ? まさかね。
とすれば、「適切にキープ」ったって、どんなふうに「適切」にか、とっても気になってくる。それぞれの「生活圏」のなかで、けっこう「大衆」(byオルテガ)的に決められているだけかも。そんな仮定すらしたくなる。つまり、シキリの「正しさ」なんてないんじゃないかなって。社会生活を円滑にする「大衆」的なコードがあるだけじゃ? だから先生は「識閾を適切にキープする」といってるわけで、「識閾を正しくキープする」とは仰らないんじゃないかな。

「この識閾を適切にキープする能力が人間の人間性をどうやら最終的に担保している」、また「識閾を設定し保持する力こそが、実は人間の知性の核心なのではないか」と、お書きになっている。深読みかも知れないけど、いろんな人格や「オレさま流」、興味や感じ方やが生まれてくるのは、その人のシキリの設定に根本的に関係している、と。「無意識」や「暗黙知」そのもののあり様ではなくて。先生は、そうお考えなんじゃないかな?

>無意識と時間意識のかかわりについえるきっかけになったのは先日春日先生にうかがった統合失調症の「幻聴」の話である。幻聴というのは、自分の思考が声になって聴こえるという病症である。…/これを患者は「宇宙人からの指令が聴こえる」とか「脳内にチップを埋め込まれた」といった定型的な作話によって「合理化」しようとする。/でも、よく考えたら、「そんなこと」は誰にも起こる、まるで当たり前の出来事なのである。

のクダリは、『狂気は健全な肉体に宿る』(内田・春日対談集)で読める。
上のように先生を理解すると、統合失調症(精神分裂病)患者たちは、正常な世界の判断としては、自分を失っている、人格を失っている、ともいえそうだ。しかし重要なのは、おれたち自身が「統合失調症(精神分裂病)」と深い関係にあるということだ。患者たちは、おれたちと濃い血縁関係にある。おれたちが「シキリ」の設定にクヨクヨと迷うとき(なにかを選択するときは、だれでも迷う)、統合失調症(精神分裂病)の状態にあるともいえるんじゃないか?

つづいて、ものすごいことを仰ってる。人間には、信じられない超能力が秘められているんだと。

>アナグラムの例から知られるように、私たちは瞬間的に一望のうちに視野にはいるすべての視覚情報を取り込んで処理することができる。/本を開いた瞬間に見開き二頁分の視覚情報を入力するくらいのことは朝飯前である。/だから、私たちは実は頁を開いた瞬間に二頁分「もう読み終えている」。

おれんちの『改訂版: 『無意識のしごと』(内田先生)は熱いぜ!!』で「解説」した「鈍い意味」の記述は、すこし間違っているんだな。一葉の写真を見せられた鑑賞者は、一瞬にして点景に写しこまれたホームレスの姿を捉えていると書き直すべきだ。
そうかも知れない。時間が経過するほど、鑑賞者は被写体を取捨選択する。「適切」な価値観が作動しだすんだな。それに、目だってレンズと似ている。まず順序として、眼前にあるものを無差別的に網膜に受容する。すべて感覚は同じはずだよね。快も不快も無差別に感じているのに、「適切」に設定された「シキリ」によって取捨選択が行われ、その結果として感じるものと感じないものに振り分けられているんだ。そして、そのようにする人間を、おれたちは「正常」と見なす。国や性別の違いがあってもね。

こんな事情を考察されてか、

>私たちの中では実際に無数の声が輻輳し、無数の視覚イメージが乱舞し、私たちの理解を絶した数理的秩序が支配している。/その中の「ひとつの声」だけを選択に自分の声として聴き取り、「ひとつの視野」だけを自分の視線に同定し、理解を絶した秩序の理解可能な一断片だけに思念を限定できる節度を「正気」と言うのではあるまいか。

と、お書きになるんだろう。おれたちは皮膚から、身体的に、無差別に取り込んだ声や映像などを「無意識」の部屋に溜め込んでいる。いくら記憶力の悪いおれでも、少しはそうしているはずだ。先生は、「無意識」のあり様(構造)について考えはじめているのでは? 「正気」を洗いなおすために。スカートの下から…は、もうやめますが。

しかし、

>それについてはあえて語らないというのが知性の節度なのではないか。/ウィトゲンシュタインが言ったように、「語り得ないものについては沈黙すること」が知性のおそらくは生命線なのである。

とお書きなのは、残念だ。「無意識」については、やっぱり「語れない」のか? 語れないことが「暗黙知」の定義ですらあるんだけど。でも、語り方ってものもあるんじゃないか。…ないものネダリは止めておこう。ここまででも、ずいぶんいろんなことを考えられたんだから。

以上の考察のうえで、先生は映画を見る。

>映画の中には無数のでたらめな表象が飛び交っている。

賢すぎるバカは、このクダリがわからない。どんなショット、どんなシーンにも、整然としたストーリー性が貫徹されているはずだ。そうとしか思えない人もいるんだよ、現実には。彼らは徹頭徹尾にイデオロギーの人だ。言葉が悪ければ、全身が「教養」とクリシェで染めあげられている。どっちだって、あんまり変わらないけど。死んだ魚の目しか持っていないんだね。それで「真実」が見えるとかいえば、何かシナリオが間違っている。

>フィルムメーカーたちが映画作りにかかわる動機はきわめて多様である。/…そこにどのような意味でも「秩序」というようなものが打ち立てられるはずがない。

ふむ。「秩序」なき構造かな?(汗)

>しかし、それらの娯楽映画を分析的に見ると、すべてのファクターがある種の「数理的秩序」に類するものに従って整然と配列されていることがわかる。

「シキリ」が、「扉」(フロイト)が、どっかで「適切」に設定されている、というわけだ。どこだろう? 「適切」とは何か?

>私には説明ができない。/たぶん誰にも説明できないだろう。/おそらく、ある種の「同期」がそこに生成したのである。

「大衆」的な「同期」、ここではフィルム・メーカーたちの「同期」、それが「シキリ」を形成した? その映画なりの「コード」が共有された? 「無意識」どおしのコミュニケーションってないのかな? この文脈では関係ないか。
また、ここから先は、オルテガに接続できなくもないな。とにかく「無意識」らしいことをそのまま描こうとするのは、「同期」を廃した病人の「作品」だ。ヤクを打つなり酒に酔うなりして、トリップすれば書けなくもない。そんなバカもネットにはいるけどね(大笑)。

この話のさらなる展開を、おれは熱い目で待っていますぜ、先生。


(*1)「時間意識」:「アレね、手は打っておいた。それで次の展開は、こうなって行くんじゃないかなあ」なんて、ときどき話す。話す、としろよ。たとえ話だ。
このとき、おれたちは流れに乗って考えてる。時間の流れだ。時間的な順序ともいうかな? これだね、「時間意識」ってのは。間違ってたらゴメン。「空間」より「時間」のほうが理解しにくいらしいんだ。でも、ここは簡単にスルーしておこう(爆)。
(*2) 識閾:「無意識の部屋」と「意識の部屋」を隔てる、あの番人のいる「扉」(フロイト)なんだと、先生は解説を忘れてない。
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