◆書く/読む/喋る/考える◆

言葉の仕組みを暴きだす。ふるい言葉を葬り去り、あたらしい言葉を発見し、構成する。生涯の願いだ。

『甲南麻雀連盟打ち納め』(内田ブログ)拝読

2005-12-30 18:54:32 | 思想・哲学
日常的な先生の雑記文は、そのように拝読すればいい。とは思う。コメントやTBを読んでみれば、読者のみなさんも「そのよう」に読んでいらっしゃるようだ。先生だって、それを望んでいらっしゃるかも。と思う。いつだって何についてだって、私は「哲学」めいた考察をしていなけりゃいけないんかい、と。

もし、そんなふうに応答されたら、涙がこぼれそうだ。
おれには、ぜんぜん「そんなふう」には読めない。
読めないのは、ヘンな「渇き」に突き動かされているから?
おれの読みなど、片寄ったものでしかないはずだと思ってる。
「片寄り」を、無教養と無知と、限られた思考力が支えている。
それに気づいているから、また涙がこぼれてきそうになる。

だけど、そんな「片寄り」に則して読んで考えてみなけりゃ、いつまでたっても、おれはバカのままだ。それがわかるから、先生をふくめて、みなさんに笑われるだけにしても、おれなりに考えてみます。

(やっぱり前書きかい! オマイ長いんだ、いつも!)
うっせーよ!

>麻雀において、意識的活動は「卓」の上の「牌」のやりとりに集中している。/牌はそれ自体が言語記号であり、私たちはこれを用いて、統辞的に整った「手」というセンテンスを構築すべく努める。/つまり、卓上で営まれているのは、記号形成活動そのものなのである。

麻雀は、自分に配られた13枚の牌(ハイ)を「読む」ところから始まる。目的は、14枚を使って役(ヤク)を作ることだ。足りない「あと一個」は、順番に、ジャン卓の上に山と積まれた場所から拾ってくるか、対戦相手が捨てたのを適宜もらってくるかして補う。
こうして13枚の牌は一時的に14枚となり、「役」に立たないものは一枚捨てられる。

一枚づつ、拾っては捨てる。捨てては拾う。このあわただしい仕草が、マージャンをやっている姿なんだ。

参戦者は、順番に捨てては拾うだけの忙しい仕草のなかで、一時的に加えられた一枚を組み込めば、いつか「役」と呼ばれる特別な14枚の組み合わせになることを祈っている。13枚ある手の「内」の牌をながめながら、コイツらがどんな「役」を語ろうとしているのか、いつも読もうとしている。その読みが、「内」に残しておくべき必要な牌と、拾ってくる牌の身代わりとして捨てられる牌を決める。「役」が完成する最後の一瞬以外は、手に持てるのは13枚だけ、というルールだからね。

ここで先生は、一個一個の牌を、文とか映画における単語、ワンショット(ワンシーン)として考えられている。いつか14枚で、目指す「役」ならぬ「センテンス」が構築されることを祈って、マージャンは続けられるのだと。

いまのシミュレーションでは、通常、おれたちが言葉として扱う対戦者のため息や呟き、罵りなどは「言葉」じゃない。センテンスを作っていくための「記号」じゃない。

>ということは、そのとき牌をさばいている打ち手の口から出る言葉は定義上「言語」ではありえない。/それは「無意識のシニフィアン」である他ない。

(クソ、内田センセー。なに書いてんだかわかんねーよ。ったくよぉ!)
なんて思いは、おれがいま書いてる文では隠されるのが普通だし、形成されていく文脈には「ノイズ」、「無意味」であり「雑念」であり「抑圧されるべきもの」なんだ。

先生の文に感応する「おれ」は、おれ自身にさえ理解できていない「飢え」に根ざしている。と思う。そんな「雑」っぽいものすべて、「おれ」の「暗黙知」や「潜在意識」や「無意識」になっているんだ。という確信だけは、「おれ」のどっかにある。

>この無意識のシニフィアンの特徴は「同期」である。/風牌をポンしたときに、残る三人が同時に「そこにーはただー」と歌い始めるとき、そこには中枢的なコンダクターは存在しない。/私はこれを「自己組織化」あるいはスティーヴン・ストロガッツにならって「SYNC」と呼びたいと思う…。

おふざけ半分でお書きになっているけど。
人間の「無意識」には、いろんな「人」が住みついている。ともいえるんだな。「人」を「声」と言い換えてもいい。「意見」「考え」「感覚」、そこに「音響」や「仕草」「空気」を加えてもいい。まるで、前回の記事にあるフィルム・メーカーたちの(考えの)ように。

そこに「同期」が生まれる、という。

>ともあれ、麻雀の現場というのは非言語的=無意識的行為が無数のシンクロニシティをおびき出す異様な空間なのである。/「おお、これが当たり牌だ」という確信がしばしば打ち手には訪れるが、この判断にはほとんど外形的な根拠はない。/しかし、なぜかそれが「わかる」のである。

ここ(ともあれ)から先は、ジャン友たちを謳いあげた先生の「詩」かもしれないんだが。
しかし、おれとしては、以前に先生がお書きになっていた「空気」を読むことを思いだす。コミュニケーションを成立させるひとつの要素として。

きっとおれはいま、空気を読めていなんだろう。
そんな恥じらいに疼きながら、これを書いている。

人間が何かを目的としたり、何かに没頭しようとする局面では、もしかしたら、それまで知らなかった「自分」、「無意識」の底に眠っていた「自分」が、その目的や没頭する何かに向かって瞬間的に整除され、引き出され、思い起こされ、「統辞的に整った…センテンス」が「構築」されるのかもしれない。火事場の馬鹿力のように。

その反対に、何ひとつ目的もなく、ただウロついているときには、湧きだす「無意識」は限られたものだ。おれの場合なら、たいていセックスに関係した「いかがわしい」思いか、それともカノジョの「顔」ぐらいだ。参考にもならないか。

だけど、こんな「おれ」でもだ。豪雨の高速でスピンしたときは、分離帯に激突するまでカウンターを当てつづけ、シフト・ダウンし、ブレーキングを試み、ありとあらゆる「努力」を投入したんだ。スピンの最中、「おれ」は冷静だったことを覚えている。頭から血がしたたり落ちていることまで知っていた。そんな動作を、コンマ何秒かの間で、考えながらしていたんじゃない。考えていたら、あんなにテキパキとは行動していなかったはずだ。もっと迷っていただろう。結果、ダメだったんだけど。

「無意識」は、意識にとって与件だ。それと知らず、すでに組み込まれている。しかし先生のおっしゃる「識閾」は、おれという「意識」が遭遇するその場その場で、つねに「適切」を志向されながら構成されているのかも知れないな。

このとき「適切」とは何か? 「判断間違い」をふくめて、意識が作り出した「洞察」かな? 意識とは、いつも空気を読んでいるヤツのことじゃない? それが意識の宿命だ、とか。「識閾」って、その上を物語が走る基本的な世界観みたいかな?

>それはある種の「共身体」を打ち手が共有したことの効果である。/だから、早い順に立直をかけたにもかかわらず、三人ともぴたりと当たり牌を止めて流局になることがしばしばあるが、それはコミュニケーション的にはきわめて「よい場」が成立したことの証拠なのである。

うつくしい「話」のシメだ。四人というバラバラな者の間に生じる、「コード」の偶然の共有。それが偶然であればあるほど、不思議な喜びに驚愕する。人を好きになるって、そういうものか。
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シンクロニシティ スティーヴン 自己組織化 涙がこぼれそう
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