◆書く/読む/喋る/考える◆

言葉の仕組みを暴きだす。ふるい言葉を葬り去り、あたらしい言葉を発見し、構成する。生涯の願いだ。

内田樹先生の過去ログを拝読しつづける(7)

2006-05-06 21:14:50 | 思想・哲学
7.フッサール幽霊学とハイデガー死者論(’04.03.30)

*今日はとんでもなくむずかしいお話に挑戦してみる。100%は無理にしても、こうした記事を自分なりに読み込めないでは、内田先生のブログを訪問する理由がなくなる。初めてソコを訪れたのは、『寝ながら・・・』の末尾で内田ブログのURLを知ってから。
*荷物が無秩序にぶち撒けられた部屋の住人と同じで、直感的にさまざまな問題意識の上にプカプカ漂っていたおれは、『寝ながら・・・』を読んで死ぬかと思うほど驚愕した。問題意識のなかには「なぜおれは、こんなに馬鹿なんだろう?」があって、自分に足りないもののひとつって実は哲学なんだと気づかされたからだ。

「31日の朝日カルチャーセンターのネタを仕込む。/いつもは当日のお昼に必死で仕込むのであるが、今回は二日前から準備をしている。/ずいぶんいい加減な人間だとお思いになるかもしれないけれど、あまり周到に準備をしてしまうと、話す私自身がその話に飽きてしまうのである。」

*へえ、先生ってそうなんだ。と、まずは哲学とあまり関係なさそうな書き出しを読んで、助走をつける。
*「あまり周到に準備をしてしまうと、話す私自身がその話に飽きてしまう」と仰っているけど、世の中には「周到に準備」することに飽きない人も多いみたい。だけど話すとか書くとかを、考えるとか発見するとかの行為と見なしている人にとっては、周到な準備は退屈そのものでしかないんじゃないか。考えや発見の道筋を整理・整頓するだけだから。喰いたいだけ、呑みたいだけ、喰って呑んでから、その後片付けをするような?

「他者という概念は死者を埋葬する儀礼の発生と起源的には同一であるのではないか・・・という人類学的にまったく根拠のない妄説を思いついたので、それを展開してみる。」

*と書かれているので、半月まえのエントリー、穢れと葬礼(’04.03.15)のつづきとしても読める記事なのだ。

「レヴィナスの定義によるならば、他者とは私の理解も共感も絶しており、かつ『存在するとは別の仕方』で(だから存在しない)、にもかかわらず『私』に『影響を与え』(affecter)、私が倫理的に生きることを『命じる』のである。」

*ここだけを拝読するかぎりでは、じゃあ「存在」する仕方とは何だろうと疑問がわく。多分それは、存在していると多くの人が認める方法と関係している。もう少し厳密には、科学的に認められる存在の仕方と言い換えられるかも。実体としての存在、なんても言えるだろうか。触れて臭いをかげる即物的な実体もあるし、遺伝子やウイルスなど目に見えなくても、啓蒙の結果として疑うほうがクレイジーだと思いこんでる科学的な成果(=実体)もある。だから、ここで言ってる「存在」するものとは、唯物論でいう「客観」とほとんど同じじゃないのかな。
*じつは唯物論もほとんど(全然?)知らないんだが、おれの周りに五月蝿い人がひとりいて、その人が政治問題にかぎらず「弁証法」とか「唯物論」とかを語って無知な大衆を煙に巻こうとするんだ。といっても、その人を好きではないが嫌いじゃない。とても参考になる意見を聞かせてくれるときもある。でも、なるべく会わないように避けてます(笑)。

「存在しないけれど、私たちにaffecter する存在。それは『死者』である。」

以前のエントリーでは、こんな存在を、別れちゃった彼女と読んでみた。生きてるか死んでるかもわからないけど、関係する存在として。
*これを、科学的に証明できる実体はないけど私たちと関係するモノ、と読み取るのは間違いなのかな? うえでふれた「その人」なら、そんなものは主観にすぎないとでも言うところだ。周りの唯物論者を自認する人をあまり好きになれない理由は、こんなものの言い方にもある。
*おれたちなら「ちょっと偏ってんじゃないの?」とか「間違ってるよ」とかいうところを、唯物論者を自認する人は「そんなの君の主観にすぎない」とか言うんだ。主観を人間の精神作用と翻訳すれば、この人の表現は、ものすごく大ざっぱだし、ときどきは有害でもある。
*まず、「君の主観にすぎない」と判断するのは「その人」の主観だよね。それに「君の精神作用にすぎない」「君が考えてるだけだ」と翻訳してみると、ほんとに当たり前の、ぜんぜん間違いを指摘していない言葉を使っているのがわかる。
*そのうえ、ひとびとが自分らしい主観を使ってモノを考えようとする努力に水を差す傾向もある。はっきりいうと、考えさせようとしないのだ。主観は大切、そのどこが悪い?
*もうひとつ。なぜ唯物論者を自認する人は、考えていくプロセスみたいなものを大切にできないのかな。プロセスではみんな不完全だから、欠けたり曖昧な点を指摘しようと思えばできる。そして「君は間違ってる」と断定するのか。この方法は揚げ足取りの一種で、考えることを知らない人にしかできない仕草だと思う。
*不完全を許せない人――おれにはどうしても理解できない人種だ。これも推測だが、そういう人にはすでに答えがあるんだ。すでに答えを知ったうえでの議論であり、話であり……。と考えてみると、こんなタイプの人は、唯物論者だけじゃない。いっぱいいる。テレビを見てもね。こういう人って、どうも考えるってことを知らないひとなんだな。どうしても好きになれない。ときどき参考になるにしても。

「驚いてはいけない。/およそ文学の世界で歴史的名声を博したものの過半は『死者から受ける影響』を扱っているということを文学史はあまり語りたがらないが、これはほんとうのことである。」

*いけないって言われても驚くさ。「死者から受ける影響」というのを、もうここにはいない人から受ける影響と、もっと具体的に考えてみるのはどうか? こう書いちゃっただけで切なくなってくる(笑)。
*なんだろうな、これ。この後、先生は例のように春樹を出してくるし、漱石もだ。
*三国志演技、平家物語、もっと遠くはギリシャ・ローマの叙事詩なんかでも、確かにそうだと思える。また、ひところ流行った大和だって、同じ基本的な構造(笑)で物語られている。きみを思うPOPSだって、今ここにいない人からの影響を唄う点で同じだ。批判こもごもの作品だが、サイカノだって、イリヤだって同じだ。攻殻機動隊の「スタンドアローン」は、まさにそうだったよね。
*わかってるようで、もうひとつわからなかった「切なさ」が少しわかってきた。それは、もうない(もういない)人やものをしのんだり、突き動かされてしまう感情なんだな。たとえば、粉々に打ち砕かれてしまった希望を、いまも思い出して立ち止まってしまう人って、とても切ない人なんだ。でもこの話形だけなら、過去を思う現在の私って構造に近いよね。
*文学にしろ小説にしろ、止めちゃおうかな。だっておれ「切なさ」はダメなんだ。重たくて耐え切れないで困ってる。すぐ泣いちゃうから。だから誤魔化そうとする。誤魔化しは、おれの切なさなんだ。止めちゃおうかな。切なさばかりに囲まれると、発作的に死んじゃうかもしれない。切なさだけが人生じゃないはずだ。っての、これどうかな?(笑)
先生の言説から、ずいぶん外れてきたような気がする。

「存在(Sein)は存在者(Seiende)ではない。存在を存在者としてとらえることはできない。存在者としてとらえられた存在は無である。それゆえ人々は存在を忘却する。」

*ハイデガーの言葉らしい。ここで言ってる「存在者」は、実体的な、科学的な、客観的な存在のことだよね。ときには現在、現実、現世と呼べるかもしれない。
*「存在者としてとらえられた存在は無である」とは、ハイデガーが言いたい「存在」を現世や現実の中に探しても見つからない、どこにもないということだろう。だから人は「存在」を忘れると。見えないもの、現実にはないとわかったものは忘れるんだ。借用証書のない借金のようにね。じゃあ、夢の中にはあるのか? そうかもしれないんだが。

「われわれはつねにすでになんらかの存在了解内容のうちで動いているということは、さきに暗示されていた。その存在了解内容のうちから、存在の意味を表立ってたずねる問いと、存在の概念に達しようとする傾向が生ずる。『存在』とは何のことであるのかを、われわれは知ってはいないのである。しかし『「存在」とは何であるのか?』と、われわれが問うときにはすでに、われわれはこの『ある』についてなんらかの了解内容をもっているのだが、この『ある』が何を意味しているのかを、われわれが概念的に把握しているわけではあるまい。」

*これもハイデガーの言葉らしい。手取り足取り、先生は一流の言説を読ませてくれる。
*ここで言ってる「存在了解内容」は、暗黙知(ボランニー)や無意識(フロイト)を例にして理解すればいいのかな? たしかに自転車に乗れるので、「ある」とわかるんだが言葉にできない。概念的には理解できない「了解内容」だ。
*こうなると「存在」にしろ「死者」にしろ、形がある物質にたいする目には見えない波動の関係みたいだな。これもメタファーにすぎないけど。ときどき思うんだ、好きという気持ちは干渉や同調する波動なんじゃないかって。メタファーですけど。
*切なさとは、目に見えない波動に動かされる状態なのかな? メタファーです。

「『或るもの』の現れとしての現れは、おのれ自身を示すということを意味するのではけっしてないのであって、むしろ、おのれを示さない或るものが、おのれを示す或るものをつうじて、おのれを告げるということを意味する。現れることはおのれを示さないことなのである。」

*「おのれ」とは「存在」であり「死者」であり、「暗黙知」であり「無意識」なんだな。
*これらはすべて語りえないもの、言葉で説明できないものだ。でもひょっこりと自転車に乗れるように、筋肉の動きとしてバランス感覚として現われる、おれたちを訪れる。あるということを告げる。波動のような暗黙知が、動きや感覚に姿を変えて。
*だから先生は、ここに現われたものを「死者」が実体的な形に変換された「幽霊」と呼んでいるのだろう。
*こうなると、たしかに多くの文学や小説、いや広くいって詩・絵画・映画・音楽などの芸術は、「幽霊」を描いたものだとさえ言えるかもしれない。描きえないものを何とか変換して描こうとした試みならば。

「『存在についての問い』『存在者についての問い』は欠性的な仕方で『死についての問い』『死者についての問い』になるほかない。」

*ここはひどくむずかしいけど、何とかして読み込まなくちゃ。
*こんなことを仰ってるんじゃないか。たとえば、二個の言説を考えてみる。
   存在者とはAだ。……(1)
   死者とはBだ。……(2)
おれたちは普通、(1)タイプの言説ばかりを喋ってる、考えてる。彼女がどうのこうの、今度の映画はどうのこうの、ファッションがどうのこうのと。話題としては政治にしろ生活ネタにしろ、うんざりするほどいっぱいある。
*ところが、映画について映画らしく語るのは、現実とか小説とか、映画じゃないものを指し示している。田舎の美しさを語るとき、暗に都会の汚さを語っているように。無意識にしろ、この意識の元に語られない言説には、映画の魅力も田舎の魅力も、浮き彫りになるほど印象的な語りはできないだろう。「あいつは悪いやつだ」と語るためには、「いいやつ」(たとえば、おれのような)を前提にしなければ言説にならない。白い肌への言及には、黒い肌が前提になっている。
*ということは、一般的に言説(1)を考えると、それが言説であるためには、言説(2)が前提になっている、というか考えているのと同じだ。
*このとき、言説(1)は目に見える現われ、自転車に乗るときの筋肉の動きやバランス感覚にあたり、明示されない言説(2)は、暗黙知や無意識に相当しているともいえる。
*だから、言説(1)を語っているおれたちは、言説(2)を語っていないのに語っている、まるで波動のように暗示している。
*この様子を、先生は「欠性的な仕方」で語ると仰っているんじゃないのかな。泡立つ海の表面と動かない海の底?
*とりあえずこんなところで、おれの頭はすっかりトサカ、パンク状態になりました(笑)。


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