水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

54年8ヶ月6日5時間32分20秒3

2017年07月17日 | 学年だよりなど

 

   学年だより「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3」


 現在、マラソンの世界最高記録は、デニス・キメット選手(ケニア)がベルリンマラソンでマークした2時間2分57秒だ。
 日本が初めてオリンピックに参加したのは、今から105年前、1912年に開催された第5回オリンピックのストックホルム大会である。当時は、2時間50分ぐらいがマラソンの優勝タイムだった。
 マラソン初代表は、高等師範学校(現筑波大学)二年生の金栗四三(かなぐりしぞう)選手。
 明治24年(1891年)熊本県の農村に生まれ、幼いころから成績優秀で、特待生として上級学校に進学し、田舎の山道で足を培い、長距離走が大好きだった。
 明治45年5月、多くの人に見送られ、金栗選手は旅立つ。
 敦賀港からソ連のウラジオストクにわたり、シベリア鉄道で十日間かけてモスクワに向かう。
 バルト海を船で渡ってストックホルムに着いたのは、日本を出てから16日後である。
 スウェーデンときくと、北欧の極寒のイメージがあるが、夏は白夜が続き、気温は高くなる。
 長旅の間ろくに練習はできないし、食糧も充分ではない。マラソンのレースが行われた7月6日は、異常気象とも言えるほど気温は上がっていた。
 68人の選手が出場し、完走できたのは34人だったことでも、それがわかる。
 日本の予選会で出していた記録から考えて、金栗選手も十分に結果が残せるのではないかと考えていた。周囲の期待もあった。
 スタートのピストルがなる。すると、予想をはるかに超えた猛スピードで飛び出す外国選手たちの集団から、あっという間に離されていく。
 中盤に達するまでに何人かは追い抜いたものの、折り返し地点を過ぎたあたりで力尽きた。コースをはずれ、「ペトレ家」の庭にふらふらと入り込むと、そこで意識を失った。
 ペトレ家の人に介抱されて翌日まで過ごすこととなり、レース棄権が本部には伝わらず、「日本人選手は行方不明」という記録が残ることになったのである。
 意識をとりもどした金栗選手は、「大敗後の朝を迎う。終生の遺憾のことで心うづく」と日記に記している。しかし、直後に「しかれども失敗は成功の基」「恥をすすぐために粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」とも決意する。
 帰国後は、その言の通りに粉骨砕身した。
 自分が負けた原因はどこにあったのか。体調管理と実力そのものにあったことは言うまでもないが、根本的には国としてマラソンにどう取り組んでいたのかが一つの形に現れたと考える。
 いや、どう取り組んでいたかというより、取り組みは無きに等しかった。
 長距離の練習方法を学び、広め、競技人口を増やしていくしかなかった。
 海岸での耐熱練習、心肺機能の充実をはかる高地トレーニングなど、現在のマラソン界につながる様々な試みを行っていく。練習が孤独にならないように、また同時に多くのランナーを育てるために、チームでに練習を奨励した。そしてチームによるリレー形式の大会も企画し、「第一回箱根駅伝」として結実した。
 後に、日本の「マラソンの父」とよばれるようになった金栗氏の人生は、オリンピックでの惨敗、「行方不明」から大きく変わった。

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