五段落 〈 第一場面 御坂峠 〉
十一月に入ると、もはや御坂の寒気、耐えがたくなった。茶店では、ストーブを備えた。
「お客さん、二階はお寒いでしょう。お仕事のときは、ストーブのそばでなさったら。」と、おかみさんは言うのであるが、私は、人の見ている前では、仕事のできないたちなので、それは断った。おかみさんは心配して、峠の麓の吉田へ行き、こたつを一つ買ってきた。私は二階の部屋でそれにもぐって、この茶店の人たちの親切には、しんからお礼を言いたく思って、けれども、もはやその全容の三分の二ほど、雪をかぶった富士の姿を眺め、また近くの山々の、蕭条たる冬木立に接しては、これ以上、この峠で、皮膚を刺す寒気に辛抱していることも無意味に思われ、山を下ることに決意した。山を下る、その前日、私は、どてらを二枚重ねて着て、茶店の椅子に腰掛けて、熱い番茶をすすっていたら、冬の外套着た、タイピストでもあろうか、若い知的の娘さんが二人、トンネルのほうから、何かきゃっきゃっ笑いながら歩いてきて、ふと眼前に真っ白い富士を見つけ、打たれたように立ち止まり、それから、ひそひそ相談の様子で、そのうちの一人、眼鏡かけた、色の白い子が、にこにこ笑いながら、私のほうへやってきた。
「あいすみません。シャッター切ってくださいな。」
私は、へどもどした。私は機械のことには、あまり明るくないのだし、写真の趣味は皆無であり、しかも、どてらを二枚も重ねて着ていて、茶店の人たちさえ、山賊みたいだ、と言って笑っているような、そんなむさくるしい姿でもあり、たぶんは東京の、そんな華やかな娘さんから、はいからの用事を頼まれて、〈 内心ひどく狼狽したのである 〉。けれども、また思い直し、こんな姿はしていても、やはり、見る人が見れば、どこかしら、華奢な面影もあり、写真のシャッターくらい器用に手さばきできるほどの男に見えるのかもしれない、などと少し浮き浮きした気持ちも手伝い、私は平静を装い、娘さんの差し出すカメラを受け取り、何気なさそうな口調で、シャッターの切り方をちょっと尋ねてみてから、わななきわななき、レンズをのぞいた。真ん中に大きい富士、〈 その下に小さい、けしの花二つ 〉。二人そろいの赤い外套を着ているのである。二人は、ひしと抱き合うように寄り添い、きっと真面目な顔になった。私は、おかしくてならない。〈 カメラ持つ手が震えて、どうにもならぬ
〉。笑いをこらえて、レンズをのぞけば、けしの花、いよいよ澄まして、固くなっている。どうにも狙いがつけにくく、私は、二人の姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズいっぱいにキャッチして、〈 富士山、さようなら、お世話になりました 〉。パチリ。
「はい、写りました。」
「ありがとう。」
二人声をそろえてお礼を言う。うちへ帰って現像してみたときには驚くだろう。富士山だけが大きく大きく写っていて、二人の姿はどこにも見えない。
場面 場所 御坂峠
時 山を下りる前日
人物 私 二人の娘さん
Q57「内心ひどく狼狽したのである」とあるが、なぜか。(60字以内)
A57 誰が見てもむさくるしい姿の自分に、都会の娘さんから写真のシャッターを切るという今風のことを頼まれるとは思いもしなかったから。
Q58「その下に小さい、けしの花二つ」とは何を表している。
A58 赤い外套を着た二人の娘さん
Q59「カメラを持つ手がふるえて、どうにもならぬ」のはなぜか。
A59 写真を撮られることに緊張し身構えている娘さんたちがおかしくてたまらなかったから。
Q60「富士山、さようなら、お世話になりました」から推し量ることのできる「私」の思いを説明せよ。(70字以内)
A60 当初は軽蔑さえした富士だったが、様々な人々との出会いのきっかけともなり、仕事に対する情熱や心の平安を与えてくれたことに感謝する思い。