沈思雑感~哲学研究者の日々の感想

哲学研究者が日々の雑感をエッセイ形式でつづります

学園祭の思い出

2016-10-29 | エッセイ
 一週間の仕事が終わった。そろそろ学園祭のシーズンだが、私の勤めている東海大学も来週は「海洋祭」があって、授業はほぼ全休である。私自身、少しへばっていたところなので、このタイミングでの中休みはうれしい。
 さて学園祭の思い出話である。学生時代、母が友人と私の大学の学園祭に来て、そこで素人の大学生に手相占いをやってもらったそうだ。母は「あなたは今、病気にかかっていますね。」と言われた。検査で母がガンにかかっていると分かったのは、それから半年後である。(幸い手術で一命をとりとめた。)
 こんな出来事があってから、私に占いというものに多少興味をもち、自分でも何度か手相を見てもらったりした。結果は「当たっている」要素と「外れている」要素が半々くらいだっただろうか。ただしこれは「現在の自分」についてのことで、「未来の自分」については、その時点で分かっていなかったのは言うまでもない。
 占いやマジナイをバカバカしいと思う人がいる一方で、占いの「神秘な力」を信じる人もいる。占いに神秘的な力があるのかどうか、私には分からない。あるかもしれないし、ないかもしれない。が、仮にそのような力が存在するとしても、それに頼るのは間違っているように思う。というのも私は、占いに頼った生き方をした人間が、かえって運を落としてしまった例を、いくつか知っているからである。しかしなぜなのだろうか。
 おそらくそれは、人生の重要な判断を第三者にゆだねてしまうからであろう。そもそも人間は、自分がいま何をしたいのか、何をすべきなのかを、心の奥底で直感しているものである。そうした「内なる声」を聴こうとせず、決断を「御託宣」に任せていれば、次第次第に自分自身の判断力が狂う。そしてやがて、人生の流れそのものがおかしくなるのだろう。
 あるいは、そもそも占いなどというものは、人生の勝負における「イカサマ賭博」みたいなものかもしれない。それは、相手の持ち札をこっそり盗み見て勝負するようなものである。が、仮に「勝負の神様」なるものがいるとして、果たしてそんなやり方を許してくれるだろうか。むしろ彼は、そんな人間を最終的には見放してしまうのではないだろうか。
 さて私自身の「未来」についての占い結果だが、こちらはほとんどが外れた。母の占いにしても、「肝臓の悪い人は手が赤い」とか「腎臓の弱い人は手がむくんでいる」とか、そういう「客観的」な判断基準を使っただけかもしれないし、本当のところはどうだったのか不明である。
 閑話休題。この占いのエピソードもそうなのだが、学園祭の思い出は、イベントや展示、模擬店などの活動そのものよりも、ちょっとしたエピソードのほうが記憶に残っているのである。たとえば私は、クラシック音楽好きの集うサークルに所属していたが、そこの催しで、自分の好きな曲を採り上げてみんなの前で発表するというものがあった。私は「ドン・ジョヴァンニ」の中からアリアをいくつか選んで話したが、発表後、友人たちから「ずいぶん熱く語ってたじゃん。」と冷やかされたことが、いつまでも記憶に残っている。
 また別に所属していた自転車のサークルで、徹夜で自転車のリレーをやって(並走している車から)録画し、展示会場で流すというものがあったが、これも自転車そのものよりは車の中での会話やエピソードのほうが不思議と心に残っているのである。
 またこれは大学ではなく高校の文化祭のことだが、高校三年のとき、準備中に頭を打って病院へ運び込まれるというアクシデントがあった。そのとき見舞いに来た先生の話や表情が、なぜか妙にくっきりと記憶に刻み込まれていて、文化祭そのものはほとんど記憶に残っていないのである。
 学園祭は「非日常」である。しかし「非日常」は、それに没頭してしまうと、案外記憶には残らないもので、むしろそこからちょっと外れたエピソードや事件、出来事などが、あたかも祭りの空間の中の特異点のように、いつまでも心に残るということなのだろう。
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