断想さまざま

研究者(哲学)の日々の断想

私の好きな小説6(林芙美子「晩菊」)

2011-11-20 21:36:02 | 文学
 林芙美子の晩年の名作。主人公きんは、かつて美貌をうたわれた芸者上がりで、五十をすぎても外見はまるで三十代のように若い。彼女は数年前に田部という書生と関係をもったが、その田部が再会のためにきんを訪れる。じつは田部の目的は彼女の金なのだが、そうとは知らぬきんは、化粧の限りを尽くして昔の男を待ち受ける。小説はその再会の場面を描いたものである。
 作中、事件らしい事件は何一つ起こらず、作者の筆致はひたすら二人の心理の劇に集中しているが、肉慾と物欲、誘惑と拒絶、虚栄、打算、侮蔑、幻滅などが、差し向かいの二人の上を目まぐるしく交錯するさまは鬼気迫るものがあり、およそ「こまやかな女性的描写」などとは程遠い。短い作品だが、映画でも漫画でも表現できぬものを描きつくしており、これこそは言語による芸術の独壇場というべきである。
 

 田部は、きんの取り澄しているのが憎々しかった。上等の古物を見ているようでおかしくもある。一緒に一夜を過ごしたところで、ほどこしをしてやるようなものだと、田部は、きんのあごのあたりを見つめた。しっかりしたあごの線が意志の強さを現わしている。さっき見た唖の女中の水々しい若さが妙に瞼にだぶって来た。美しい女ではないが、若いという事が、女に目の肥えて来た田部には新鮮であった。なまじ、この出逢いが始めてならば、こうしたもどかしさもないのではないかと、田部は、さっきよりも疲れの見えて来たきんの顔に老いを感じる。きんは何かを察したのか、さっと立ちあがって、隣室に行くと、鏡台の前に行き、ホルモンの注射器を取って、ずぶりと腕に射した。肌を脱脂綿できつくこすりながら、鏡のなかをのぞいて、パフで鼻の上をおさえた。