極楽のぶ

~酔生夢想~
中途失明を越えて

極楽のぶと『詩仙堂』(8)

2017年06月10日 | アート
 前回くらいから、読者の皆さんは、何の話?してるんだっけ? と思われている方がいるようです(笑)。 
 我が青春の書体から発し、「詩仙堂」の成り立ちに、極楽探偵が到達した答え、つまり、本願寺の東西分立(分裂とは言えない)のいきさつを書いています。あと少しおつきあいください。推理小説のつもりです。

 これまで、本願寺対信長の10年戦争(石山合戦)を見てきた。この間、徳川家康が一揆殲滅戦(ジェノサイド)に加わっていないことは重要だ。あとでここに触れます。

 石山本願寺がついに落城したのは1580年。
 11世顕如(けんにょ)は、数万人の籠城組が相次いで餓死する姿に耐えきれず、信長の開城条件を飲んだ。。
 意外にも信長は、加賀の僻地の一部(金沢城を除く)を本願寺に安堵すると言ってきた、顕如らの移住を許すというのだ(本気かどうか怪しいが・)。

 加賀一揆勢も、顕如の英断を受け、武装解除、降伏を決めた。これにて戦乱は終わったはずだった。
 ところが異変が起きる、石山城から顕如が退出すると、降伏を拒否する家老僧の一団が、顕如の長男、教如(きょうにょ)を推したてて、開城を拒んだ。
 このことは、教如のお文(ふみ)として全国に発信される。「抗戦継続宣言」である!
 おかげで、加賀一揆勢は、素手で織田軍(柴田郡)を迎え撃つことになった。当然、叶うはずもない。即座に鎮圧され、顕如の加賀遷座による本願寺再興の夢は泡と消えた。加賀共和国は中世の終わりとともに歴史から消えたのである。

 正信はからくも脱出したが、多くの同胞を失った。皆、死ななくてよい命だった。 石山城も半年ももたずに落城、教如らによって城は焼かれた。
 
 正信は、越前境の「山中(温泉郷)」に潜伏し、そこでひとときの安息を得たようだ、ここで2年後に次男の政重(のち加賀藩前田家筆頭家老)が生まれている。

 さて教如の破約と城炎上に、信長は激怒したが、かえって加賀の全土支配には好都合な展開であった。 そのためか、教如が父の疎開地、紀州雑賀の里(和歌山市)に下るのを許した。
 これは意外だが、信長プランでは、すでに眼前の敵ではなくなった本願寺一派は、甲斐武田を滅ぼしたあと、ゆっくり、雑賀衆もろとも地獄に送ってやるつもりだった。 その実行プランは、1582年執行、とされたのだが、本能寺変によって、無期延期となる。

 近年、とある畿内の寺で、謎の手紙が発見された。

 発信は紀州に疎開中の顕如、時期は本能寺変の少し前、宛先は徳川家康、内容は「御礼」の手紙だった。家康が雑賀の顕如と接触を持っていた証拠であるが、何のお「お礼」なのか?不明である。

 極楽の師匠、羽太先生は、これは家康が顕如に、正信の返還を申し出、贈った進物に対する礼だと推理されているが、愚弟極楽の推理は少し違う。
 正信が、生存報告をするとすれば、当然、顕如であり、顕如は、長く仕えてくれた正信を、家康の元へ帰参させるべく、先に口をきいたのではないか? 家康が一揆殲滅戦に参加していないことは、ここで重大要素である。 正信を通じて、本願寺は徳川家康との連携を試みたのではないか? 消えかかる本願寺の法灯(ほうとう)の行く末を、忠臣 正信に託した、という推論である。

 家康はこれに応じたに違いない、5歳年上の鬼才正信が帰参する気があるなら歓迎である。
 一方、正信にとっては、今更の職場復帰、しれっと戻るには抵抗があったに違いない。 そこを、顕如の頼み、となれば、正信が意外にあっさり徳川家帰参を果たしたことや、家康が正信を破格に重用したことといい、納得がいくではないか。

 実際、正信の復帰後、直ちに複数の三河浄土真宗寺が復活することもなるほどだ。
 家康がこれら約束を了解したことへの「御礼」と考えれば、「謎の文書」は妙な時期とともに説明がつくではないか? そう思いません?

 そういえば、本能寺変2年後の「小牧・長久手戦」へ、顕如は雑賀鉄砲隊を徳川方支援に派遣しているのである。これはさらなる傍証といえる。

 が、にも拘わらず、秀吉は1591年、家康より先に、本願寺の再建を支援するのである。
 こうして、家康ではなく、秀吉によって、京都七条に本山が再興された。顕如は不気味であったろう。
 が、顕如を雑賀の里から誘い出して、のち、秀吉は大軍を率いて雑賀衆を徹底鎮圧する、大義の象徴を失った雑賀党は、すでに、ただの賊でしかなかった。秀吉の戦略勝ちだった。

 ここが秀吉の面白いところ、自主の哲理を重んじた信長と違い、秀吉はひたすら「利」にさとかった。彼にとって、本願寺は資金力と組織力でしかなく、利すれば必ず益あり、と踏んだのだ。 この寺を現在、私たちは西本願寺、と呼んでいる。

 残念ながら顕如は再興された本願寺を見ることなく、逝ってしまう。大変な一生であった。 
 後継12世は教如に譲る・・、と遺言したが、残された顕如派の家老衆は、教如の後継を受け入れられなかった。いきさつを考えれば当然だっただろう。 そこで、異母弟 准如(じゅんにょ)が正式な12世を継ぎ、教如は追放された(自主的出奔かもしれない)。

 さあ、これで、本願寺の分立要素が生まれたわけだ。その後、教如の足取りはしばし消える。 教如派の僧侶たちも揃って姿を消した。

 次に教如が衆目の前に現れたのは、1600年、関ケ原戦前夜、西に向け海道(のち東海道という)に軍を進める家康の陣屋、夜半のことであった。
 前触れもなく現れた教如は、ただならぬ覚悟で家康に謁見を請い、一揆衆を動員して家康に加勢したい、と申し出た。 本願寺の首座を狙うため豊臣対徳川の対立構造を利用しようとする作戦は、あざとくも見えるが、彼はまだ中世を背負っていたのだ。

 家康は教如を無視した。近世を開く家康にとって、一向門徒衆が参戦するような戦場は、古色蒼然(こしょくそうぜん)にしか思えない。 このとき、家康の陣屋に、あの正信はいなかった。このとき彼は、徳川秀忠を補佐して、山道(のち中山道という)を、進んでいた。NHK大河「真田丸」で詳しく見ましたね・・

 正信が同席したら、教如を前に何を言っただろう?
あれから20年、さすがに何も変わらぬその権威欲にあきれたか? しかし、ともかく、この教如の出現は、正信にひとつのヒントを残したのだった。

 関ケ原戦には勝利しても、徳川が直ちに盤石な体制を作れたわけではない。 実際、大坂の陣で豊臣を滅ぼすまで15年かかるのである。 本願寺勢力も、いつまた結集するかわからない、江戸幕府260年の安泰などは、この時期、誰も想定できていないのだ。
 敵対勢力の芽を摘んでおく、本願寺を二度と武家に敵対するような勢力にしない、そのためにこそ、象徴的な教如をアンダーコントロールに置く必要があった。

 1602年、天下はほぼ家康の手中にあり、征夷大将軍の勅命を翌年に控えたこの年、家康と正信は教如に一寺を寄進した。これが東本願寺の始まりである。

つ・づ・く ついてきてくださいよ!!
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