極楽のぶ

~酔生夢想~
中途失明を越えて

極楽のぶと『詩仙堂』(5)

2017年05月15日 | アート
 いよいよ真相に迫るぞぉ!・・

 通常、石川丈山の履歴はそっけない。
「詩仙堂」の創建者で、東本願寺の庭も設計、などとひとことで終わる。これでは何もわからない、が、誰も興味持ってないので、これで十分なのだが・・事実はいつも、「それ」よりずっと面白い。
 キーワードは、東本願寺と西本願寺が、なぜ、いつ、分かれ、仲が良いのか悪いのか? だ。

 ただし、ここから先は、極楽のぶ、の妄想である、責任は取らないし(笑)、実在する組織(で、でかすぎる!)は、こんなゴミブログの内容にいちいち怒ってはいけません。
 年代および登場人物と明らかな史実には忠実に従う、ただ、歴史が沈黙しているとこは、勝手に妄想させてもらう。学生さんはコピペしてはいけません(笑)

 東本願寺第13世 宣如上人(せんにょしょうにん)は、1641年、三代将軍徳川家光に、新たな土地の寄進を受け、40歳を機に引退を決した。
その家光の寄進こそが、東本願寺の飛び地庭園で、丈山がデザインを頼まれる庭となる。後に「枳殻邸(からたちてい)」正式には「渉成園」という。素敵な名前である。寺の庭というより、宣如上人の隠居宅だった。私的な庭だ、このことからも、宣如上人と石川丈山との私的な交流の厚みが伺われる。
 が、なぜ? なぜなんだ? なぜ丈山なんだ?

 1641年と言っても1年ある、宣如が丈山に庭設計を頼んだのと、詩仙堂の完成は、どちらが先だったのだろう? そもそも、なぜぴったり同年なのか? 
「詩仙堂」創建に、宣如の支援があったとしたらどうだろう? 宣如に、その動機(乗り気にさせる何か)があっただろうか、詩仙堂・・・詩仙堂って何だ?!

 さて「詩仙堂」、そもそも、名前がしゃれている。が、「しゃれ」ているのであって、独創ではない、一種のパロディなのだ。遊び心(ユーモア)のようでもある。が、実は、これは「遊び」ではなかった、宣如の意地(戦い)ではなかったか? と極楽は思う。 

詩仙堂では、秦・漢時代の漢詩の名手らを選び、丈山の表現力でトリビュートしようとしたのである。選抜は儒教に、漢詩に、精通しつくしていた林羅山が担当した。

 ただ、三十六人を選ぶアイデアは、平安期から伝わる和歌「三十六歌仙(神の領域の達人)」をパロったものだ。三十六は12の倍数である、円を描く12進法からすれば、数としては落ち着きがいい。順位がないのである。これは12進法の知恵だ。

 平安期からの歌仙の選び方には種々あったようだが、やはり、「元祖」があった。
 藤原公任による『三十六人撰』が原本らしく、これを写本した最古のものが、『三十六人家集』で、現代、国宝だが、当時から、「西本願寺の所蔵」であった。
 歌仙とされた36人には、柿本人麻呂、山部赤人、大伴家持、在原業平、小野小町など有名どころが並ぶ。といっても極楽はこのあたり不得手なので、これくらいしか知らないのである(笑)

 その「三十六歌仙」を額に入れて飾った『歌仙堂』なる小楼閣が、東山洛南にあった。あの、ねねさん(秀吉正妻)が出家して建てた高台寺の側にあった。
 「額」を寄進したのは、木下勝俊、ねねさんの甥で、関ヶ原合戦までは豊臣政権下の武将であった。伏見城守備隊長だったが、弟のひとりが、あの「小早川秀秋」で、関ヶ原戦後は、何かと信用度が急落し、下野して高台寺裏手(おばさんの背後)に文字通り隠遁した。

 このようにして、西本願寺宝物の「三十六歌仙」には、高台寺の裏手の廃墟や、敗軍の将の寄進という負の香りがにじんでしまっていた。

 そこで、丈山が宣如に、創ろうか?と持ちかけた「詩仙堂」と「三十六詩仙」は、そのネーミングと言い、新しさといい、西本願寺に対抗する意味でも、詩仙堂まるごと、「これは愉快!」となったはずである。
 丈山は宣如より20は年長、宣如は丈山を父のように信頼したのだろう。隠居庭の設計と詩仙堂の創建は、おそらく「セット」だったのではないか? と思うのである。

 家光の時代、徳川幕藩体制は、武の統制から、文の普及に舵を切るタイミングの模索中である。

 幕府側は、宣如の機嫌がよいこと、東本願寺が幕府と良好な関係でいること、東西の本願寺は、互いに対抗関係にあること(連帯しない)、そして、あけすけに情報を流しても安心な丈山という人物を近づけること、などを、目的とし、まんまとうまく行っていたのである。

 このプロジェクトメンバーには、プロデューサーの羅山の推奨で、宣如と同年の御用画家集団の新進気鋭、狩野探幽が加わった。 スーパープロジェクトXであった。探幽は、秦・漢時代の詩仙たちの風体を、見事に描いた。
 そして、丈山は、秦・漢時代の初期書体、隷書をもって、次々と漢詩を書していったのである。

 東本願寺ができたのは1602年、すなわち、この時期、本願寺がふたつに割れてから、まだ半世紀も経っていない。 正信が丈山に託した「願い」が見えてきましたか? 次回になってしまいますが、その「願い」について、もう少し説明加えます。
 しかし、このシリーズは歴史カテゴリーではありません、アートカテゴリーです、そこを忘れずに、、歴史だけでは終わりませんからね。 

つ・づ・く みんなで!詩仙堂に行こう!!
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