風塵社的業務日誌

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真綿がきつくなる

2016年12月20日 | 出版
あ~ぁ、年越大作戦がうまくいかない。ため息しか出てこない。どうしたものかなあ。それにしても、黒字決算の会社が品代金を払わないというのはどういうことなのだろうか。優越的地位の乱用だと、公正取引委員会に訴えようかなあ。年明けに入ってくるささやかな入金を、年越大作戦のテコにでもするかと絵を描いていただけに、ショックが大きい。しかも、払いませんという話をさわやかにされてしまうと、こちらもついつい同調したくなってしまう。
そこで困ったことに、年越大作戦がうまくいかなかったからといって、弊社がすぐにつぶれるわけでもないのだ。あちこちに顔が立たなくなって世の中を渡りにくくなり、首に回された真綿度が深くなるだけである。もちろん、そのまま真綿が食い込んでいけば、いつの日にかは倒産ということにはなるけれど、作戦不調といってその日がすぐ到来するわけではない。つまり、不調の場合、小生の息苦しさが一層増すということである。それがつらいのだ。
おかげで、悪夢にうなされる日々が最近続いている。小生の悪夢には一つのパターンがあって、最悪の精神状態に陥っているときは、そのパターンが必ず現れる。そして絶叫と共にガバッと布団の上に起き上がる。そしてそのたびに、ジョージ・オーウェルの『1984で』のきらいなものを主人公に押し付ける拷問シーンを思い出す。これだけはダメというものが人それぞれにはあり、それを押し付けられるのは多大な精神的苦痛をともなうわけだ。
そこでふと疑問に思うのだけれど、オーウェルは本当にねずみが大きらいだったのだろうか。そして、あの拷問シーンはオーウェルの独創なのだろうか。それとも、オーウェルの伝聞、もしくは政治的体験に基づくものなのだろうか。平凡社の『オーウェル評論集』(全4巻?)には、そのヒントになるような記述がなかったと覚えている。また、オーウェルが批判したソ連の拷問のあり方も、ソルジェニーツインの『収容所群島』を読んだかぎりでは、そういう拷問はなかったように記憶しているけれど、そっち(『群島』)を読んだのは高校時代なので、文献に再度あたってみなければここで明確なことは述べられない。
しかしよくよく考えてみれば、先述のとおり、なにが苦手というのは人それぞれである。そこで、大量に逮捕された政治犯を含む犯罪者を尋問するにあたり、各自それぞれの苦手なものを準備するだけでも、かなりの手間である。例えば、小生のようにお金が大の苦手という人間がいた場合、黄金なり、諭吉のブロマイドなりを大量に用意しなければならないことになる。どんなに巨大な治安組織といえども、そんなことを個々のニーズ(?)に合わせてやってはいられないことだろう。
それで『群島』の場合、拷問はほとんど暴力だったように記憶している。そしていまも鮮明に覚えているのは、あるお父さんが反革命罪かなんかで逮捕された。そして、チェーカー(非常委員会)だったかGPU(国家政治保安部)だったかから拷問を受けるものの、頑として被疑事実を認めない。すると、その妻が拷問を受けることになった。しかし、それでもお父さんは認めない。そうすると、今度はその年ごろの娘が拷問を受けることになり、さすがにお父さんは音をあげて冤罪を認めたという。
そんな記述を読んでいて、ソ連ってすげえことするなあと、ガキのころあきれ果てつつ、戦慄していたわけである。ところが、いま思えば不思議なことに、だから共産主義とか社会主義は危険であるとか、ダメな思想であるとはならなかった。それよりも目の前の大きな問題として、父親がきらいであり、父親が体現する家父長制的家制度がきらいであり、それを日本という枠組みで代表している天皇がきらいだった。そうすると、スターリンという天皇を抱くソ連型社会主義には与したくないし、実際の天皇を擁する日本型民主主義にも反対ということになる。じゃあ、自己として主張すべき思想とはなんなのかが、その後のテーマになった。それである日、大杉栄を読んでいて、ああ、なんだ、おのれは無政府主義でいいじゃないか、と思い至ることになる。さらに、もう少し時間が経過していろいろな人に出会うようになって、反日主義者でいいじゃないかと、気分の落ち着き自己規定に出会うわけである。
アレレレ。思想的な変遷を述べようと思っていたわけじゃないのに、ついついそうなってしまった。ついでなので書き連ねると、中学生最後の春休みだったかに(高校進学が決まったあとの)マル・エンの『共産党宣言』を読んでみたら、これは面白かった。第4章の意味はさっぱりわからなかったけれど(おそらくはいま読んでもわからないことだろう)、要するに世の中はこのままでは行き詰ると書いているわけだ。鬱屈しか抱えていなかったガキにとって、それ以上にファンキーなご宣託なんてないだろう。まさに、ざまあみろという気分を論理化、言語化していたわけであり、いまにいたっても、マルクスの創造的な解釈に傾注したくなる源を作ったのであった。
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