愛蔵版ワイルド7全12巻は、2002年10月から2003年3月まで刊行されたのだから、もはや7年の歳月が経過しています。
その後、ぶんか社版文庫も出ていますが、幾冊かは、のりで購入したものの全巻集めても読むためではなく本箱を狭くするためでしかないと思い、今回は、集めておりません。
次回の再編集、再販の時もあろうと思いつつ、同じ本ばかりで、本箱を席巻するのはやめておこうと思った次第です。
同じ本を買うのには、それなりの訳があるのですが、新たに書かれた解説を読みたいと言うのが大きなものとしてあります。
愛蔵版第一巻目は、
危険な取材ノート
「現実感のない悪は読者の共感を得られない。だから、これからも危険な取材にチャレンジだ!!」
皮ジャン、だっせえ、ブルゾンじゃんよと、今の若い読者は言うかもしれません。連載当初はチョオ・イケメンの主人公を創ったつもりなんですがね。
言葉は時代の変化。今読み返すと当時のセリフが妙に新鮮に感じたりします。
”だしィ”やら”いける?””する?”といちいち語尾を上げる言葉遣いが当たり前。いい大人まで使っている現在、セリフにいちいち「?」マークをつけなくちゃ正しくない。「?」だらけのセリフって”ウザイ”でしょうから私、使いません。
…
あとがきにかえて/望月三起也
ってな具合に、現在進行形もわかるのが楽しくもあるものです。
さらりと現代の若者批判をかつての若者代表の漫画ワイルド7の作者が述べているのも良いです。
第二巻では、再び、土山しげる氏
第三巻は、故人赤塚不二夫先生
「女もバイクもガンも、望月の描写は日本人離れしているんだ」と嫉妬しています。
望月三起也漫画は、アメリカンコミック的であるのが魅力だけれども今は、中国コミック的「創天航路」もあり多彩を極め面白いと個人的に思っておりました。
第四巻 小池一夫先生登場
「30年を経て、今、時代がふたたび『ワイルド7』を必要としている」
この主題点は、私自身が、今現在、感じていた主題点と合致しているので、更に展開したいと思っている所です。
更に、余談ですが、
「夜明けのマッキー」大都社版昭和59年初版
はじめに
望月三起也
「夜明けのマッキー」は、昭和45年5月から12月まで少年サンデーに連載した作品です。
この作品は、それまでの作品の集大成として、私なりに全力をかたむけて書いた作品です。
物語は、栄光の座をすて、虚飾に満ちた太平の日本を飛び出し、殺人、破壊、恐怖の内戦にゆらぐアフリカへ飛んだ新鋭カメラマン麻樹が、命の限界に身をおいて、真実の生き方をさぐる苦悩の姿を描いたものです。
この作品から”生きることとは何だ!!”という、作者の叫び声ききとっていただければ幸いです。
ともすれば、望月三起也ファンは、粗暴で、兵器が好きで好戦的と思われやすい外見を持つのだけれども、人間の本質としての暴力や強くなりたい願望が兵器、又は、早く走りたいと言う気持ちがバイクへと結びついて、文明は、発展していたのだけれども、それを人を本当に幸福にしたり平和、平静な心へと向かわせているのかの問いの現状が、ここにあると感じていたのでした。
白土三平先生が、神話・伝説シリーズや他の忍者ものでも暴力をそのまま裸で描くのも同じではないかと思い、その暴力や力への憧れとは何かと言う
根本的な問いをここに感じてきたわけです。
(もちろん、純粋にマニアな楽しみもそれぞれの世界に導入としてあるとは思っておりますが。)
もうひとつのアフリカもの「はだしの巨人」では、
カストロ・ゲバラを真似たような全高連、荒神のセリフから始まる
「我々全高連MM派の幹部5人だけでじゅうぶん襲撃できるわけさ」
もちろんそれらは、狂言回しとしても登場してくるのだけれども
ワイルド7は、警察内部にあって、ゲリラ戦法そのもののような俊英さを持つから魅力的でもあり
21世紀の今は、前時代的遅れたスタイルにもみられているのだろうと思うのです。
夜明けのマッキーの様に、大きな問題意識を掲げた作品は、娯楽性を半減させたりもどかしさの中で、どっちつかずに沈没する場合もあるかも知れない。
その葛藤の中で、良い作品だけを残していきたいし、語る土壌にあげていきたいものだ。
新ワイルド7第二巻徳間書店版あとがきにて
初め、依頼があったとき新構想の連載物を考えていた…。
作者は絶えず新しいモノにチャレンジしたいものだ。だけれど『ワイルド7』の熱心な読者の声もあって『新ワイルド7』を描くことにした。ワイルド7のメンバーのキャラクターに読者の熱烈な想い入れがあるのではなかろうかと…。
キリストじゃないけれど、復活した今、読者の手と自分の手が10センチくらい離れていて、「新ワイルド7」を描くことによって同じ想い入れが太いパイプでつながるじゃないかと…。
四畳半モノはイヤだ、活劇物を描きたい!日本風ハードボイルドがボクの世界だ。
(後略)
日本の中で、行動したいと思っても出来ない閉塞感があり、それについて、
梶原一騎の「あしたのジョー」も
本宮ひろ志の「男一匹ガキ大将」から「サラリーマン金太郎」まで答えてきた。
武論尊と池上遼一の世界がある。
「北斗の拳」のころの武術ブームから知略を基本とする漫画が
「信長の野望」「三国志」の周辺に出来上がってきている現在にとってもワイルド7は、その輝きを保てているのかと言うのが、現在、私の第3の主題となっていると言うわけなのです。
飛葉は、男一匹ガキ大将の戸川万吉の様に、外見は、ケンシロウのようなマッチョではない身近な存在であり、心の弱さも持つどちらかと言うと身近な存在でもあるのだけれども、池上遼一の描く、主人公とにてういる様で、そうではない。
その比較論は、後日にまわすのだが、
このことを引き合いにして言いたい事は、
昨今の月刊望月三起也事務局のその少年の「男大空」的展開の方向さえ曇らせるような狭い管理の仕方についてです。
ただ、マッチョだったケンシロウ期を越えて、今や「三国志」仲間意識、連帯、知力、組織、チームワーク全てを考える頭脳派の時代に入っていると言うのに
小さなことばかりを気にしているようにしか思われないと言うことです。
けいおん!は、現実にあったイベントへ行きました程度の報告のようなものであり、息抜きのように音楽漫画の話題で息抜きさせる以上の目的では書かれていないものです。
ワイルド7の幅を、ヤングキングの表紙、2号は、リキだったけれども
1号は、ラブコメ風の表紙。
それと同じく、全てが、ワイルド7の周辺と言えども現在進行形の流れの中から離れるものではないだろうということです。
時代を読んでいたからワイルド7は、傑作でもあったと言うこと、その新しい
言論の幅さえ規制するだけの先細りでは
この先、のびのびした文章を誰も書き出せないのではないでしょうか???
主客転倒とは言いますが、それは、部分だけを見ての話ではないでしょうか?
旧掲示板から書き続け、そして、ファン感謝デーの記録その他、書き出してきた上で、今の漫画状況も70歳の大先生にも伝える意味を含めて、書き出していたもので、無意味とは考えていないと言うことです。
アジアの片隅とは、吉田拓郎言い草ですが、
暗黒アジアは、アフリカと同様に、同じく、前近代的な鎖国状況をいつも感じています。
ギターリストの魂の伝達は、分野は、違えども
ワイルド7の魂の伝達と同じではないか?と言う含みを書き出したかったが、
読み出そうと言う考えのない人にはわからないだろうと言うことです。
望月三起也作品が、可愛そうに思えます。
いつから、ここは、北朝鮮になってしまったのでしょうか?
せめて、少数の仲間でしかありませんが、ここからでも目覚めた情報を
実践や躍動のメッセージを広げていく場所へとしていきたいとこれまで書き込みをしてきているわけです。
本当の意味の対話はこれからだと考えています。