最近、ベルクソンやウィリアム・ジェイムズが、心に沁みる。哀しいほどに沁みいってくる。
彼らの哲学は、互いに影響し合いながら、20世紀初頭に「生命の哲学」とか「生の哲学」と呼ばれる思想潮流を作った。そこに語られているのは、いのちの営みの力強さばかりではない。生きることの淋しさやはかなさ、弱さもまた、目をそらさずに洞察されている。
生命は、物的な固体の存続とはちがって、ある種のもろさをもっている。そこには、病があり、老いがあり、すれ違い、あるいはぶつかりあって、傷つくものがあり、滅びゆくものがある。枯れてゆく生命のあいだに、新しい芽吹きもある。
いのちとは、いわば、こわれものなのだ。
腰痛が復活した鬱の朝、起き上がることもできずに開いた枕もとの本のページで、たとえば、ベルクソンは、こんなことを言ったりする。
ひとつの世界の創造は、ひとつの自由な行為であり、生命も物質的世界の内部にありながら、この自由にあずかる。そこで、むしろ腕を持ち上げる動作を思い浮かべてみよう。腕は放っておけば、また垂れてしまうが、それでも、腕のなかにはそれに生き生きした活力を与えた意欲の幾分かがまだ存続していて、持ち上げようと努めているとしてみよう。こわれていく創造的動作というこのイマージュだけで、僕らはすでに物質についてのいっそう精密な表象をもつことだろう。そのとき、僕らは、生命活動のうちに、逆向きの運動のなかに残存しているもとの順向きの運動を、すなわち、こわれていく実在をとおして出来ていくひとつの実在を見るだろう。(『創造的進化』第三章「生命の意義について」「生命の起源」)
こわれていく創造的動作。
不可避的に永劫に過ぎ去っていく今のこの活動の瞬間。
腕を上げていても、やがてそれはしびれ、疲れて、垂れてくるように、日々の生活に努めようとしても、やがて、その運動は疲れを生じて、萎え衰えていく。そのなかで、痕跡のように、生きようと努める意欲が残存している。
まだ、腕を上げようと努める意欲が、垂れたその腕に残存しているように、まだ、日々の仕事にのりだそうと努める意欲が、鉛のように重い全身に残っている。
それが、鬱の朝の情景だ。
こわれていくもの。
そこに、こわれていく実在をつらぬいて出来上がっていくひとつの実在を見るベルクソンのまなざしは、少し鬱っぽくて、優しい。
吉本ばななが『キッチン』でこんな場面を描いているのを、松岡正剛が『フラジャイル』で取りあげていた。
最後の肉親だったおばあちゃんが亡くなったとき、桜井みかげは「こんなに世界がぐんと広くて、闇はこんなにも暗くて、その果てしないおもしろさと淋しさに、私は最近はじめてこの手でこの目で触れたのだ」と感じる。
この移ろいゆく世界のただなかに、ひとり、ただひとりの自分でいるということの弱さと淋しさ。
そこに残存しているいのちが、こわれゆくもののなかで実現していく、ひとつの世界の開け。
生きてゆくということは、ときに、そういうこわれゆくもののなかで、何か途轍もない深まりがぐんと果てしなく開けてゆくという、おもしろさと淋しさのことではないか。
世界は、こわれてゆく運動に満ちている。
生きるということ、生命であるということは、そのこわれゆく運動そのものでもあり、またこわれゆくもののあいだに、思いもかけない価値を実現していく営みでもある。生命は、そのとき、思いもかけない深く暗く広い開けへと開かれていく。
もっと細かく、僕らが住んでいる世界を考えてみるなら分かると思うが、見事な結びつきをもつこの全体の、厳密に規定された自動的な進化は、こわれてゆく行動に属するものであり、生命がそこに切りとる思いがけない形態、さらにそれ自体が発展して思いがけない運動となりうる形態は、出来ていく行動を表すものである。(ベルクソン、同所)こわれゆくものと、こわれゆく運動を通じてやっと実現される価値とのコントラストのうちに、僕らの実存が、僕らの生命活動が、ある。そしてもちろん、僕らの創造の喜びや、出会いの恵みとともに、また僕らの鬱も、そのコントラストのなかにあるのだ。
人生のうちでも、もっとも孤立無援で、自分をもっとも弱いものと感じる瞬間こそ、この宇宙のリアリティのもっとも深い深みを開いて見せるときである。
外観はどう見えようとも「宇宙よ万歳! ――神は天にしろしめし、世のことはすべてよし」などと単純に大声で叫ぶのは止めようじゃないか。むしろ、哀れみと苦痛と恐怖、そして寄る辺なき人間の頼りなさの感覚が、いっそう深いものの見方を開きはしないか、それらの感覚が事態の意味を解くべきより精密な鍵を僕らに手渡してくれはしないか、考えてみようじゃないか。(ジェイムズ『宗教的経験の諸相』第六・七講「病める魂」)
僕らが何の助けもなく、この宇宙のただなかで、もっとも弱くされ小さくされたと感じられたときこそ、この「いっそう深いものの見方」が開かれるときかもしれない。
弱さのなかにこそ、そうした、深い次元の開示があるのかもしれない。「力は弱さのなかでこそ十分に発揮されるのだ」(2コリ12.9)と言われているじゃないか。
もっとも弱いときにこそ、その人生の、その生命の、真の強さと深みが現れる。「一本の鎖は、その鎖のいちばん弱い環ほどにも強くはない。そして、人生とは要するに一本の鎖なのだ。」(ジェイムズ、同所)
この宇宙に実現された生命ある一切が、物的で自動的なものの運動としては、こわれゆくプロセスのなかにある。
だけど、そのようにこわれゆくなかに、かすかに、だけどしみじみと深く、精神的な、いやスピリチュアルなと言えるような価値の実現がきらめいているんじゃないだろうか。
こわれてゆくもののうちで出来てゆくものがある。「宇宙そのものにも、相反する二つの運動が区別されなければならない。ひとつは『下り』であり、もうひとつは『上り』である。」(ベルクソン、同書第一章「生命の進化について」「無機的物体」)この両者の微妙なコントラストを直観できていないなら、システム論だろうがプロセス論だろうが、児戯に等しい。生命とは、この宇宙のこわれゆく趨勢のなかで、その解体運動に抵抗してみずからを保ち、新たにみずからを形成するものだ。そして、生命は、それ自身こわれゆくなかですら、その活力の残存を示し、物的には消滅していったのちも、その谺は宇宙に残響していくのだ。
こわれゆく物的な世界のなかに、その残響が交響しあうのを聴きとることができない感性には、生命の哲学など語れはしない。過ぎ去ったものの痕跡をみずからのうちに感じることのない知性には、生命の情動も意欲も、そしてこわれやすいその繊細微妙な営みも、見てとることなどできない。物的世界のただなかに展開する生命の営みの繊細と大胆とのコントラストを差しわたすような感性に立脚してはじめて、この世界のシステムもプロセスも、真に論じることができる。
ベルクソンやジェイムズが、ときに優しく哀しく、僕らの鬱をなぐさめてくれるように、ホワイトヘッドも、この切ない生命の世界のコントラストを語って、僕らのこわれやすい魂をなぐさめ抱きしめてくれる。
ホワイトヘッドも、『形成途上の宗教』の末尾で、こわれゆく「下り」の世界と、そのこわれゆく運動を通じて実現される「上り」の運動とのコントラストを描いている。
宇宙は、僕らに二つの相を示している。一方では、宇宙は、物的に消耗しつつあり、他方では、宇宙は、スピリチュアルに上昇しつつある。(ホワイトヘッド『形成途上の宗教』第四講「真理と批判」第五節「結語」)
嵐のなかでの不倫の密会から帰宅した晩に、この箇所を夫に読み聞かされたチャタレイ夫人は、その先があるだろうと待っていた。だが、この書はここで終わっていた。「それで、もしスピリチュアルに上昇しているなら、上昇したそのあと、もとのところには何が残るの?」当然、夫は答えられやしない。D.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』の一節だ。彼女は、たたみかけるように言う。「物的には消耗してゆくっていうの? ええ、あなたはだんだん太ってきたし、私だって体重が減ってきたってわけじゃないわ。」チャタレイ夫人コニーにとって、物的(physical)とは、身体的ということで、それは、消耗などしていない。今、彼女の身体は、充実し、熟れきって、満ち満ちている。「その著者は、この世では物的な失敗者で、全宇宙も物的な失敗者にしたいだけのことでしょう。堅苦しい、つまらない、生意気な説ね。・・・ずっと高く、スピリチュアルに上昇していけばいいわ。私はずっと下の方で、物的に、しごく安全にしっかりと住んでいるわ。」自分の着衣の下に充実した健康で熟れきった身体を誇るように、コニーは、そう言って夫を見下す。
「この世では物的な失敗者」と呼ばれた「その著者」こそ、わがA.N.ホワイトヘッドだ。物的に消耗しつつ、創造的に前進する宇宙を抱きとめて思索した、創造的飛躍の冒険へと飛び立った思弁哲学者だ。
コニーと夫のクリフォード卿との会話は、埋めがたい溝で隔てられて、修復不可能なまでに、ずれていく。
彼女が一笑に付した言葉は、でも、哀しいくらい、彼女の充溢する生命のはかなさをも言い当ててもいる。
彼女は、その安全にしっかりと住んでるはずの物的世界が、不可避的にこわれてゆく世界でもあることを、エントロピーは不可逆的に増大していくのだということを、はちきれんばかりの生命の充溢と身体の豊満のなかで、まだ感じてはいないのだ。彼女の周囲にも、その気配が、いたるところに描かれているのに。
こわれてゆく実在をとおして出来ていく一つの実在の気配を、僕らはこの世界に感じる。
残り火のように、それは、はかなく消え去りつつあり、それでいて切実で、生命のある種の壮絶さを具現している。人生のもっとも弱い鎖の環の、弱さのなかにこそ働く深い深い力を感じさせる。そこにひそかにきらめくものがあるとすれば、それはとてもとても繊細で敏感で、しかも、逆説的に聞こえるけれど、それは永遠である。
そんなことを考えながら、ゆっくりと床から起き上がり、そして、本を閉じて、今日のいちにちがはじまる。
これは、「鬱のプロセス哲学序論」かな。そんな感じだ。
試みに、今回は白頭庵放談と同時公開してみた。









そうですか、チャタレイの中にWHに関するそのような言及がありましたか。(いかにも、ですね。)彼女のこのセリフ、20歳前後の頃の私だったら、反発、というほどではないにしても違和感を覚えたに違いありません。それはまさに、白頭庵さんが
「彼女が一笑に付した言葉は、でも、哀しいくらい、彼女の充溢する生命のはかなさをも言い当ててもいる。
彼女は、その安全にしっかりと住んでるはずの物的世界が、不可避的にこわれてゆく世界でもあることを、エントロピーは不可逆的に増大していくのだということを、はちきれんばかりの生命の充溢と身体の豊満のなかで、まだ感じてはいないのだ。彼女の周囲にも、その気配が、いたるところに描かれているのに。」
と述べられていることへの同感からだと思います。
そして今は。「こわれていくもの」を、美的に鑑賞する余裕がないというところが実感でしょうか。おそらくそれは、伝道という仕事に就かなければ実感できなかったことかもしれません。こわれものである現実の中で、それでも生きなけければならないという業、壮絶。これらを重い、とか、他に何かしらの感慨を持つ余裕がないのです。
結局これを、「生活に追われている」と言うのかも知れませんね。それはさておき大学生のころ、いわゆる「般教」でD・H・ロレンスが専門の先生がいました。1年間、お世話になりました。なつかしいなあ。
こわれものである現実の中で、それでも生きなければならないということの壮絶さ、切実さ。
言葉を失ってしまうような現実があります。
そして、美的であれ、倫理的であれ、宗教的であれ、実存に迫り、実存の中から出発する実存論的な立場というのは、そのように言葉がもう何も出てこないような生の現実に触れてこそだろうと思います。
まず、語るよりも、そうした生の営みに出会い、触れて、圧倒されるという経験が、大事なんだと思います。僕も、そういう出会いの恵みというか、重みというか、壮絶な生を生き、切実な生を生きている人との出会いを大事にしていきたい、今年もそういう一年にしたいと願っています。
その一方で、そんな現実の重みから、ひきこもってしまいたい自分が、確かに、いるんですけどね。
空間について、体積から、分割不可能性が論じられているようですが、どのような文献に載っているのでしょうか。また、その意味はどういうものなのでしょうか。
もう少し詳しく言っていただければ、もしかしたら、少しは何か答えられるかもしれません。
時間の分割について、また、空間の分割について、という論題は、ホワイトヘッドの中期の科学哲学から後期の形而上学的宇宙論まで、継続して取り上げられています。けれども、中期から後期にかけての移行期に、時間的原子論という考えを採用したことで、この論題に関するホワイトヘッドの考えに転換があった、とフォードをはじめ多くの研究者が考えています。
どの時期の文献に依拠するかによって、同じホワイトヘッドの哲学でも、時間・空間の分割不可能性(あるいは可能性)に関する考えに、微妙な違いが出てきます。微妙ですが、もしかするとけっこう重大な違いかもしれません。
要点のみ述べます。
まず、時間について。
数学では、時間の瞬間は、幅がなく、まさに時間を越えた瞬間であると定義します。実際には、フッサールの過去保持、未来予時にみられるように、必ず瞬間は幅を持たなくてはなりません。
このことの理解はある程度分かります。
空間についての数学的なアポリアは、次のように考えられるかなあ、と思っています。
つまり、ある空間を占めている体積を考えた時、その体積を分割する時、分割された二つの体積は、分割される以前の体積とは、明らかに密度が異なるということ、なぜなら、分割線は、実際には、常に幅を持ち、数学的な幅を持たない分割線は、考えられないということです。
以上のことを私なりに考えていたのですが、このことは、ホワイトヘッドのなんらかの文献に出ていたような気がしますし、空間についての考え方は、ホワイトヘッドばかりではなく、西田哲学の、逆対応にも通じるものがあると感じられます。
つまり、宇宙の始まりから、現在の世界のエネルギーは、一定したものであり、(同じ体積が宇宙の起源から変わらずに続いている)、個としての私が、思考を開始すると同時に、世界のエネルギーが、何らかの変化をきたし、(配置に変化がおこり)個としてのわたしの思考の結果は、宇宙総体としては、減りもせず増えもせず、ただ、宇宙が存在するということに行き着くように思えます。
カエサルが、ルビコン川を渡った時、世界的な変化が以後生じます。私が、ルビコン川を渡ったところで、なんらの変化もない。しかし、宇宙としては、同じ人間の一歩なのである。
アレクサンドル・コジェーブは、現実とは、理念としてのイデアの時間・空間化であるといっています。(突然、コジェーブが出現して申し訳ありません)
相対性理論からしてみても、光の速度にちかずいた主体は、対象がひしゃげて見えるといわれます。速度を増せば増すほど対象には近づけない。逆に対象は、理念のなかにのみあるのかもしれません。
ホワイトヘッドにとって、時間・空間とは、どんな意味を持つのか知りたいとおもっています。ホワイトヘッドの、考え方の変化については、まったく分かりませんが、何か重要な鍵があると思います。
考えにまかせて書いています。自分自身の考えの整理になればと、書き綴らせていただきました。
上にいただいたコメントで、空間(を占めている堆積)の分割に関して、分割線が必ず幅をもつとおっしゃっているあたりのことが、よく分かりません。
さしあたって、今、僕自身が興味をもっているホワイトヘッド中期の科学哲学(『自然認識の諸原理』『自然の概念』『相対性原理』)と後期の『科学と近代世界』を読み直している最中なので、それで時間空間の延長と不連続性ないしは連続性について多少とも何かが読み取れればいいなあと思っています。
この流れで『過程と実在』第4部を読みたいと思っています。
遅読の白頭庵のことだから、『過程と実在』第4部に至には数年かかるのではないかと思います。そのとき、どこかで、多分、ホワイトヘッドの時空論についてムボーな研究発表をするかもしれないので、どうかそのときまでお待ちいただくか、あるいは手っ取り早く、『科学と近代世界』で抱握という術語について語っている箇所あたりをご自身でお読みください。
堆積とか浸食とか開削とかいった言葉を論文や学会発表でよく使っていたせいで、僕のパソコンでは、体積とか侵食とか改作といったフツーの変換があとまわしになっています。
前置きはさておき、最近カッシーラーの著作の中で、個と宇宙というものに出会いました。
クザーヌスについての論考みたいです。
クザーヌスの有名な「反対の一致」は、西田幾多郎の逆対応の考え方と一致している感じがします。
論理では捉えきれない真実が宇宙にあるということなのかもしれません。
そのうえで、論理的に真理を求めるわれわれとはいかなる存在であるのかということが、まさに哲学の課題かなと思っているところです。
そのわれわれは、おそらくラッセルの主語とならない話者の位置にあるのだとは思いますが、(イノセンスとイノセンテイーションですかね)その話者と話されたことの間隙こそ、我の成立の条件であることが、ジュジュクによって主張されていますが、そのことが、木村敏などが言っていることなのでしょうか。
間隙、すなわち「あいだ」の成立こそ、自己の成立であり、そこから類推されたこととしての他者の成立なのでしょうか。
思考を所有したわれわれの悲劇は、常に、この分裂を経験しなければならない。
自己と主体、主体と他者。まさに、あいだの成立ことが、自己の成立であり、このことは、近代の文字の普遍化によってもたらされたというのが、昨今の書物で、目にすることですが、意外な指摘もする反面、結構納得させられます。
だらだらと思いつくまま書いてしいましたが、ここまで読んでくださればありがたいです。