2本の白樺

八ヶ岳南麓の大好きな白樺と40年の歴史を紐解きました

シラカンバの動(富士山)と 静 (龍安寺石庭)

2016-10-29 | 日記

    
     広さは、わずかに七十五坪、数百年の時空を越えて、

        石と砂が其処に存在しているのみである。



     



       【 静 】の真髄は、龍安寺の石庭に決め込んでいる。


        大小十五の石が白い砂の上に黙然と其処に在る。



   




      私は石庭全景をドラマに見立てたいのだが、

         砂の海は無限の広がりを見せ

  石庭を囲む土塀は、庭の広さに対して、高いのか、低いのか、

    借景の役割か、静寂のまま何百年も風雪に耐えている。


     十五の石の序列は私達に何を問いかけているのか?




     




   そもそも、龍安寺の庭を美しいと、誰が言い始めたのだろうか?

   一般的に解釈されているのは、ここ(龍安寺)に来て、ただ自己の

   煩悩を思わされ、慰められ、暖められ、見つめるだけで、何かを

    主張しているのかと考えるが、その何かがわかってこないので

    馬鹿らしいと思い、すぐに退屈して立ってしまう人や、美しいと

       錯覚して何時間も座って見つめている人もいる。




    






      金閣か銀閣の場合、庭はあくまでも建物と一体となり

     四季の変化と共に調和を保っていると感じ取れるのである。


      しかし龍安寺の石庭には四季折々の変化の楽しみと

  造形作品と趣を変えての美意識作意が全く感じ取れないのである。

  石庭は難解と云うより、この庭が優れているのか、つまらないのか

    結局は答えが見つからず、振りだしに戻ってしまうのである。




    





石庭を見て、方丈の縁を西から北へまわって、一面の青苔を見ながら

   方丈の北東に東庭を隔てて、蔵六庵の茶室がある。

 その前に【水戸光圀公】から寄進された銭型をした手水鉢がある。

  座右の銘の【 吾 唯 知 足 】と刻まれているのである。




    





 なぜ、石を十五個に決めたのか、名だたる人物と云われる識者にも

   私《凡人》にも、自分自身が感動しない限り意味がない。


     また、挑戦し、尋ねたいとくり返し思うのである。



 
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