天上の月影

勅命のほかに領解なし

行空上人研究の目的

2017年07月31日 | 法本房行空上人試考

  〔序  論〕

   第一章 行空上人研究にあたって

    第一節 研究の目的

 日本の仏教史上に行空という名の僧は複数いた。そのなかでいま取り上げようとするのは浄土宗を開いた法然房源空(一一三三~一二一二)の高弟の一人・法本房行空(生没年不詳)である。のちに浄土真宗の開祖と仰がれる善信房親鸞(1)(一一七三~一二六二)の兄弟子にあたる。法然門下では成覚房幸西(一一六三~一二四七)とともに一念義の代表的人物として知られている。ただ一念義は法然の正統を自認する鎮西派において派祖の聖光房弁長(弁阿、一一六二~一二三八)以来、蛇蝎視されてきた。多念の称名を否定し、さらには造悪無碍に陥る傾向をもっているからである。とくに行空については弁長自身、「法本房の云く、念とは思ひとよむ。されば称名には非ずと〔云云〕答ふ、此は念仏を習はざる也(2)」と、行空の名を出して批判している。称名の念仏を廃したと映じたのであろう。江戸時代になると、たとえば鸞宿(一六八二~一七五○)は法然門下を「面受親聞の人」「背師自立の人」「従他帰入の人」と分類するなかで「背師自立の人」に入れ(3)、妙瑞(?~一七七八)は「正義」「不正義」「邪義」と分類するなかで「邪義」と判じている(4)。真宗においても同様で、古くは了祥(一七八八~一八四二)の『異義集』に「法本が計は(中略)悪無碍をつのり、放逸無慚に至るか」といい、「邪見放逸なるは、おもに法本とみゆれども」等といっている(5)。 近年においても住田智見氏は「一向専修を心得あやまりて造悪を恣にせんとし(6)」といわれ、山上正尊氏は「行空は造悪を孕む邪念義である(7)」と断定されている。一般にも平成二十二年(二○一○)に第六十四回毎日出版文化賞特別賞を受賞した五木寛之氏の小説『親鸞』のなかで安楽房遵西(?~一二○七)とともに悪役に設定されている(8)。それはあくまで小説であるから問題とすべきではないかもしれないが(9)、そのような人物設定は古来からの行空観が根底にあるからであろう。こうして行空は八百年来、背師自立の邪念義を唱えた弟子とされてきたのである。しかしはたしてそうであろうか。私は大いに疑問を持っている。そこで行空の実像に迫ろうと思うのである。それは単に行空の解明を目的とするのではなく、名誉回復を目指すものである。

(1)親鸞自身は法然の浄土宗のほかに浄土真宗を開こうとする意志はなかった。むしろ浄土真宗を開いたのは法然であるといっている。たとえば『高僧和讃』「源空讃」に「智慧光のちからより 本師源空あらはれて 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまふ」(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』五九五頁)とあるごとくである。また浄土真宗という宗名については、門外からの批判に対して法然の浄土宗こそ真実の仏法であると顕彰し、門内の誤解に対して浄土宗の真実義を開顕するという意味をもっていた。梯實圓氏『教行信証の宗教構造〈真宗教義学体系〉』(法蔵館、二○○一年)五頁参照。そのほか桐渓順忍氏『教行信証に聞く』上巻(教育新潮社、一九六六年)一○○~一○一頁などがある。
(2)弁長『浄土宗要集』第五(『浄土宗全書』一○・二二八頁)
(3)鸞宿『浄土伝灯総系譜』巻下(『浄土宗全書』一九・一一八頁)
(4)妙瑞『徹選択集私志記』巻上(『浄土宗全書』八・一一五頁)、同『鎮西名目問答奮迅鈔』巻第一(『同』一○・四三三頁)
(5)了祥『異義集』巻一(『続真宗大系』一九・四、九頁)
(6)住田智見氏『浄土源流章解説』(法蔵館、一九二五年、一九八二年再刊)二二七頁。
(7)山上正尊氏『一念多念文意講讃』(為法館、一九五六年)九二頁。
(8)五木寛之氏『親鸞』(講談社、二○一○年)
(9)五木寛之氏自身「あとがき」のなかで、「安楽房その他の登場人物は、私の想像の中でさまざまにふくらませてもらった。実在の人物とは異なる物語りの登場人物としてお許しをいただきたい」といわれている。
Note

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法然の還俗名について(4)

2017年07月30日 | 小論文

 というのは、先に注意しておいた『四十八巻伝』の太政官符である。他の諸伝にない独自史料であるが、約七ヶ月後に発せられた藤原公定(一一六三~?)の太政官符は次のようである(1)。

太政官符 佐渡国司
 流人藤原公定
  使左衛門少志清原遠安 従参人
  門部貳人        従各一人
右、為領送流人藤原公定、差件等発遣如件、国宜承知、依例行之、路次之国、亦宜給食馬柒具・馬三疋、符到奉行、
同弁       同史
  建永元年九月十八日

公定は内大臣・藤原実宗(一一四五~一二一四)の子であって、このとき正三位であり、のちに従二位に昇るから、藤原姓のままなのであろう。そしてこれを法然の太政官符と比較してみると、和文体と漢文体、日付の位置が異なる、弁官・史の署判の位置が誤っている以外、様式に相違がない。つまり『四十八巻伝』所載の太政官符は史料的価値が相当高いのである(2)。そうすると、法然の還俗名も「藤井元彦」であった可能性がすこぶる高い。それは梯實圓氏が「法然聖人が『藤井』姓をつけられたのは、恐らく藤原兼実(九条家)の縁故によるものでしょう(3)」といわれているように、法然の最大の庇護者であった兼実の意向によるものと思われる。

(1)『鎌倉遺文』一六三八号。
(2)中井真孝氏「『法然上人行状絵図』所収の太政官符」(同氏『法然上人絵伝の研究』〈思文閣出版、弐○一三年〉所収)、平雅行氏『鎌倉仏教と専修念仏』(法蔵館、二○一七年)二九九~三○一頁参照。
(3)梯實圓氏『聖典セミナー 歎異抄』(本願寺出版社 一九九四年)三五九頁。

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法然の還俗名について(3)

2017年07月29日 | 小論文

  しかしこれには問題がある。「源」姓は源平藤橘の貴姓である。罪人となった法然に付されるとは考えにくい。平雅行氏は「一般に中世では、地方の下級官職を任命する際、藤原氏は藤井に、源氏は原に、橘氏は立花に、平氏は平群に書き改めるのが通例でした(『薩戒記』応永三十二年正月二十九日条))。源平藤橘の四姓は貴姓であるため、地方の下級役人を任命する時は、本人が藤原や平を名のっていたとしても、こうした貴姓を使うのを憚って、藤井や平群に姓を変えさせてから任命しています。親鸞の出身は藤原氏ですが、罪人が『藤原』を名のるのを憚って、藤井姓を与えたのでしょう(1)」といわれている。これは親鸞の還俗名が「藤井善信」であった理由の説明であるが、その根拠になっている『薩戒記』は中山定親(一四○一~一四五九)の日記で、必要部分を挙げれば、「此の事に口伝有り、藤原を以て藤井に改め、源を以て原に改め、橘を以て立花に改め、平を以て平群に改めるは例也、(中略)仍て之を改めるは故実也(2)」とある。同様に考えれば、もし法然が仁明源氏の出身であったとしても、与えられるとすれば「原元彦」であったはずである。「源元彦」はありえないと思われる。つまり「源元彦」説は史料的価値が低く、「藤井元彦」の方が信憑性が高いといわざるをえない(3)。

(1)平雅行氏『歴史のなかに見る親鸞』(法蔵館、二○一○年)九六頁。
(2)中山定親『薩戒記』応永三十二年(一四二五)正月二十九日条(『大日本古記録』二二─二、六二頁)
(3)二○一七年七月二十三日、平雅行先生から御教示をたまわった。この場をかりて厚く御礼申し上げる。

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法然の還俗名について(2)

2017年07月28日 | 小論文

 次に「源元彦」説は、『法然上人伝記(九巻伝)』『本朝祖師伝記絵詞(筑後本)』『法然上人伝法絵流通(国華本)』『法然上人伝絵詞(琳阿本)』『法然上人伝(十巻伝)』『知恩伝』『黒谷源空上人伝(十六門記)』『正源明義抄』である(1)。それについて『四十八巻伝』には「抑上人は、美作国久米の南條稲岡庄の人なり、父は久米の押領使漆の時国」とあり、「かの時国は、先祖をたづぬるに、仁明天皇の御跡西三條右大臣〔光公〕の後胤、式部太郎源の年、陽明門にして蔵人兼高を殺す。其科によりて美作国に配流せらる。こゝに当国久米の押領使神戸の太夫漆の元国がむすめに嫁して男子をむましむ。元国男子なかりければ、かの外孫をもちて子としてその跡をつがしむる時、源の姓をあらためて漆(うるま)の盛行と号す。盛行が子重俊、重俊が子国弘、国弘が子時国なり」とある(2)。つまり法然の先祖を遡れば、源氏になるといっているのである。そこで田村圓澄氏は「もし法然の先祖が仁明源氏の出であるとすれば、源元彦とすべきであろう。それを藤井元彦としたのは、兼実(=藤原兼実、一一四九~一二○七)と関係を結ばせようとしたからである」といわれるが、つづいて「ただし法然の属する漆間氏が、仁明源氏の系統であったか否かは確証がなく、(中略)『四十八巻伝』の漆間家の系譜は、還俗名の源元彦に示唆してつくられたものではなかろうか」といわれている(3)。ここで田村圓澄氏は漆間家の系譜に疑問を呈しながら、法然の還俗名は源元彦であったというのが腹の据わりのようである。ゆえに氏の『人物叢書 法然』には「法然は還俗せしめられ、源元彦の俗名を付けられた(4)」と、藤井姓に触れるところはない。また大橋俊夫氏『法然─その行動と思想─』や同氏『法然入門』も同じである(5)。

(1)『法然上人伝記(九巻伝)』巻第六上(井川定慶氏集『法然上人伝全集』四二二、四三三頁)、『本朝祖師伝記絵詞(筑後本)』巻三(『同』四八六、四八九頁)、『法然上人伝法絵流通(国華本)』下(『同』五○五頁)、『法然上人伝絵詞(琳阿本)』巻六(『同』五六七、五七○頁)、『法然上人伝(十巻伝)巻第八(『同』七一一、七二三頁)、『知恩伝』下(『同』七六六頁)、『黒谷源空上人伝(十六門記)』(『同』八○四頁)、『正源明義抄』巻第八(『同』八九五頁)
(2)『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』第一巻(井川定慶氏集『法然上人伝全集』四~五頁)
(3)田村圓澄氏『新訂版 法然上人伝の研究』(法蔵館、一九七二年)一六四頁。
(4)田村圓澄氏『人物叢書 法然』(吉川弘文館、一九五九年)一八九頁。
(5)大橋俊夫氏『法然─その行動と思想─』(評論社、一九七○年)一七七頁、同氏『法然入門』(春秋社、一九八九年)二○八頁。

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法然の還俗名について(1)

2017年07月27日 | 小論文

 建永二年(承元元年 一二○七)、朝廷は法然およびその門下を死罪四名、流罪八名(ただし幸西と證空は慈円の身柄預かりとなったので事実上は六名)とする大弾圧を断行した。いわゆる承元(建永)の法難である。このとき法然が土佐国(実際は讃岐国)、親鸞が越後国に流罪となったことは周知のごとくであるが、問題は還俗名である。親鸞が「藤井善信」であったことはよいとして、法然については「藤井元彦」とする伝承と「源元彦」とする伝承がある。
 まず「藤井元彦」説は、『歎異抄』『血脈文集』『拾遺古徳伝』のほか、『正源明義抄』『法然上人遠流記』『法然上人恵月影』および関通の『一枚起請文梗概聞書』や『華頂誌要』である(1)。とくに注意すべきは『四十八巻伝』所載の太政官符である。
 

   太政官符  土佐国司
   流人藤井の元彦
   使左衛門の府生清原の武次 〔従二人〕
   門部二人         〔従各一人〕
右流人元彦を領送のために、くだんらの人をさして発遣くさむのごとし。国よろしく承知して、例によりてこれをおこなへ。路次の国、またよろしく食済具馬疋をたまふべし。符到奉行
 建永二年二月廿八日  右大史中原朝臣〔判〕
  左少弁藤原朝臣

とあり、承元元年十二月八日に勅免になったときの太政官符も掲載され「藤井元彦」となっている(2)。『円光大師行状画図翼賛』は勅免の太政官符を掲載し、建暦元年十一月入洛の宣旨も掲載しているが、やはり「藤井元彦」となっている(3)。

(1)『歎異抄』(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』八五五頁)、『血脈文集』(『真宗聖教全書』二・七二一、七二二頁)、『拾遺古徳伝』巻七(『同』三・七三七、七五一頁)、『正源明義抄』巻第六(井川定慶氏集『法然上人伝全集』八七一、八七七頁、ただし八九五頁には「源の元彦」ともある)、『法然上人遠流記』巻之上(『同』九一○、九一二頁)、『法然上人恵月影』九六○、九六三頁)、関通『一枚起請文梗概聞書』(『浄土宗全書』九・二二九頁)、華頂山編『華頂誌要』(『同』一九・一七三頁)
(2)『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』(井川定慶氏集『法然上人伝全集』二二五、二三六~二三七頁)
(3)『円光大師行状画図翼賛』巻三六(『浄土宗全書』一六・五四三、五五四頁)

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行空上人の評価(補4)

2017年07月26日 | 小論文

          補四

 法然門下の系譜資料として細川行信氏によれば、「今日知られるものは凡そ十一種で、そのうち編者の分るものが七種あり、これを後世の宗派別に、鎮西派と西山派の両系統に分類すれば次のようである」として、
 鎮西系=『浄土伝灯総系譜』(鸞宿)・『浄源脈譜』(懐誉)・『浄土血脈論』(良定)
     『浄統略讃』(懐山)・『浄土真宗鎮西正統略系譜』(宣法)
 西山系=『浄土宗派承継譜』(良準)・『法水分流記』(静見)
を挙げられ、「右の外に、編者不詳の『浄土源流図』・『蓮門宗派』・『宗派流伝』・『浄土宗系譜』の四種があるが、このうち奈良念仏寺より発見された『浄土宗系譜』と『宗派流伝』・『浄土源流図』の三種は、その内容構成より鎮西系の編集と思われる。これに対して『蓮門宗派』は、二種類の本を合綴したものであり、概して西山系のものを詳しく載せてはいるが鎮西系のものも所掲されていて、両系の資料を集成したものと考えられる」といわれている(1)。その後、西山系の尭恵による『吉水法流記』が牧哲義氏によって新出史料として紹介されたから、都合十二種となる。それらのなかのいくつかによって行空がどのように記されているか見てみよう。

(1)細川行信氏「源空門下の分流─その系譜資料について─」(『印度学仏教学研究』一一─一、一九六三年)。ただし、ここに挙げられる資料は成立順ではない。

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行空上人の評価(補3)

2017年07月26日 | 小論文

     補三

 日蓮の『一代五時図』(一二五○年成立)には、法然の門下として隆観(=隆寛)・善慧房(=證空)・聖光(=弁長)・一條覚明(=長西)・成覚(=幸西)の次に「法本 一念」とあり、「已上弟子八十余人」とある(1)。「浄土九品之事」(一二六九年成立)では隆寛・善恵(=證空)・聖光(=弁長)・法蓮(=信空)・覚明(=長西)・聖心(=湛空)・成覚(=幸西)の次に「法本」とあり、幸西と一括りで「一念」とある(2)。「弟子八十余人」の上足として行空を見ていることになる。ただ行空を一番最後に列しているのは何か意味があると思われるが、のちに改めて考えてみることにする。ともあれ、行空を異端とするような註記は見られない。
 法然門流の諸系図をみると、西山派系である尭恵(一三二九~一三九五)の『吉水法流記』(一三七五年成立)には法然の直弟として「法本法師〔覚位〕」とあり、静見(一三一四~一三八三)の『法水分流記』(一三七八年成立)にも「行空」とある(3)。融舜という人が編集した『浄土惣系図(西谷本)』(一五○六年成立)にも「法本上人」とあり、作者・成立不詳の『浄土惣系図(名越本)』にも「法本上人」とあり、『蓮門宗派』(一五四八年以前成立)にも「法本上人」とある(4)。また袋中良定(一五五二~一六三九)の『浄土血脈論』(一六二三年成立)にも「法本上人〔又行空〕(5)」とあり、貞準という人の『浄土宗派承継譜』(一六八四年成立)にも「法本上人」とある(6)。このなか『法水分流記』には「立一念義」、『浄土惣系図(西谷本)』『蓮門宗派』には「成覚相共立一念義」、『浄土宗派承継譜』には「諱行空与成覚立一念義」という註記があるが、行空を異端とするような記述はない。『法水分流記』を除き、「法師」「上人」という敬称さえある。
 ところが浄土宗の系譜の集大成といわれる鎮西派・鸞宿の『浄土伝灯総系譜』(一七二七年成立)は天竺弘伝・震旦弘伝・日本弘伝の三部からなり、日本弘伝のなか開宗門資・諸流分派・諸師承襲の三項に分かれている。その開宗門資に「法本上人」とあり、「字行空美作州人、同志成覚立一念義遂所擯出同門之列」という註記がある(7)。同志・幸西とともに一念義を立てて、同門の列から擯出されたというのである。そして諸師承襲では面受親聞・背師自立・従他帰入の三つに細分するなかで、背師自立に幸西・親鸞とともに「法本房行空」とし、「美作州人、与成覚房同立一念義所擯大師門徒之列又此人立寂光浄土義」と註記している(8)。「一念義を立つ」までは従来と同じであるが、法然より擯出されたことを特記するのである。しかも背師自立としてである。それが「此の人、寂光浄土義を立つ」であろう。それについてはのちの第五章で考察することにする。ともかく、ここに行空を異端と明言する発端があると思われる。その典拠は『四十八巻伝伝』に「法本房行空、成覚房幸西は、ともに一念義をたてゝ、上人の命にそむきしによりて、門徒を擯出せられき(9)」とあるものであろう。

(1)日蓮『一代五時図』(『昭和定本日蓮聖人遺文』三・二二八七頁)
(2)日蓮『浄土九品之事』(『昭和定本日蓮聖人遺文』三・二三○九頁)
(3)尭恵『吉水法流記』(牧哲義氏「『吉水法流記』『法水分流記』の翻刻とその研究 第一部 資料篇」〈『東洋学研究』三○、一九九三年、九九頁〉)、静見『法水分流記』(『真宗史料集成』七・八二六頁)
(4)『浄土惣系図(西谷本)』『浄土惣系図(名越本)』『蓮門宗派』(野村恒道・福田行慈氏『法然教団系譜選』〈青史出版、二○○四年〉五九、七二、一一三頁)。なお『蓮門宗派』の成立に関しては野村恒道・福田行慈・中野正明氏「日本浄土教諸系譜の研究─法然門下系譜の脈流考─」(『仏教文化研究』三○、一九八五年)参照。
(5)袋中良定『浄土血脈論』巻下(『続浄土宗全書』一七・三五五頁)
(6)貞準『浄土宗派承継譜』(龍谷大学図書館蔵本には頁数が付されていない)
(7)鸞宿『浄土伝灯総系譜』巻上(『浄土宗全書』一九・一○頁)
(8)鸞宿『浄土伝灯総系譜』巻下(『浄土宗全書』一九・一一八頁)
(9)舜昌『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』第四十八巻(井川定慶氏集『法然上人伝全集』三一八頁)

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行空上人の評価(補2)

2017年07月25日 | 小論文

          補二

 廣川堯敏氏によれば、弁長の資・良忠の『浄土宗要集』における二十四論題中、他の法然門流の異義に対抗した論題は、
 (一)対長楽寺義
    第十一、九品辺地
 (二)対西山義
    第四、要門・弘願
    第七、報化二土
    第十、諸行不生
    第十四、正因正行
 (三)対諸行本願義
    第九、諸行本願
    第十八、専雑二修と正雑二行
の七論題に相当し、「良忠にとって異義とは、長楽寺義・西山義・諸行本願義(=隆寛・證空・長西)であって、親鸞義や幸西の一念義はあまり強力な対論相手とは意識されてはいなかった」といわれている(1)。そして高田文英氏は、良忠が『往生礼讃私記』に、

有る学者の云く、若し仏願を信ずる輩は、往生の業平生決定せり。臨終正念を祈念すべからず(2)。

とある「有る学者」は、幸西・證空・親鸞が考えられるが、「最有力には親鸞が挙げられるべきであろう」といわれている(3)。また『浄土宗行者用意問答』に、

問云、念仏に自力他力と云ことは何様なるべきぞや。
答云、先師上人(=弁長)故上人(=法然)の御義を伝へて云く、自力と云は聖道門なり。自の三学の力を憑で出離を求むる故なり。他力と云は浄土門なり。浄土を求むる人はみな自の機分は出離するに能はずと知て仏の他力を憑む故なり。爾るに近代の末学、浄土の行に自力他力と云ことを立て、念仏にも又自力他力を分別し、或は定散二善を自力とし念仏を他力とすといへり。故上人(=法然)は仰せられざりし義なり。況や自力の念仏は辺地の業となると云こと全く聞ざりし事なり〔云云〕この相伝を以て彼の新義をば意得べく候(4)。

とある。このなかの「近代の末学」について永村眞氏は「親鸞であることは明らかであろう(5)」といわれるが、高田文英氏は「〔云云〕」までが弁長の言葉であり、「この相伝」以下を良忠の言葉とされ、弁長の伝える「近代の末学」は「隆寛の他、証空も含まれていると考えるべきであろう」といい、良忠の言葉のなかにある「彼の新義」を別とし、それを「親鸞とその門弟たちを指している可能性のほうがむしろ高いように思われる」といわれている(6)。ただし私は必ずしも氏の説に賛同できないが(「況や自力の念仏は辺地の業となる云こと」が「彼の新義」ではないかと思う)、それでもわずか二例とはいえ、良忠が親鸞とその門弟を異義として批判しているのではないかという指摘は注意すべきであろう。

(1)廣川堯敏氏「初期良忠教学の形成過程─金沢文庫本『観経疏玄義分聞書』第一を中心として─」(『浄土宗学研究』二三、一九九六年)
(2)良忠『往生礼讃私記』巻上(『浄土宗全書』四・三九三頁)
(3)高田文英氏「弁長・良忠上人の異義批判と親鸞聖人」(『龍谷教学』五○、二○一五年)
(4)良忠『浄土宗行者用意問答』(『浄土宗全書』一○・七○五頁)
(5)永村眞氏「親鸞と良忠─その教化と教説─」(今井雅晴先生古希記念論文集編集委員会編『中世文化と浄土真宗』思文閣出版、二○一二年)
(6)高田文英氏「弁長・良忠上人の異義批判と親鸞聖人」(『龍谷教学』五○、二○一五年)

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行空上人の評価(補1)

2017年07月24日 | 小論文

     補一

 昭和五十九年(一九五九)牧哲義氏が新出史料として紹介された尭恵(一三二八~一三九五)の『吉水法流記』(一三七五年成立)は法然門下の系譜資料として最古の文献である。静見(一三一四~一三八三)の『法水分流記』(一三七八年成立)に遡ること、わずか三年であるが、先行する『私聚百因縁集』や『浄土法門源流章』とともに『吉水法流記』は親鸞の法系を記載せず、『法水分流記』は記載する点において、分水嶺的な位置を持つといわれる(1)。それでも尭恵の門下に本願寺第五代・綽如(一三五○~一三九三)が記されていることは注目される。そして何より「別義建立」として門葉を合わせ七名を記していることは注意すべきである。まず「全報」は註記に「亦云薩生房鎌倉住」とある。鸞宿の『浄土伝灯総系譜』はさらに詳しい註記がある。抜粋していえば、初め天台宗徒であり、「成覚房に従て浄宗に入り、一念義を習ふ。後、證空に帰して西山の業を受け」るが、「相州鎌倉に住して自立の別義を弘む」とある(2)。その別義の内容はわからない。満願は凝然の『浄土法門源流章』や『浄土伝灯総系譜』によれば、関東の人で隆寛の孫弟・隆慶の門人にして甥にあたるという(3)。『吉水法流記』には「立五念本願義」と註されている。五念門に関わるような別義であろうか。詳しいことは不明である。悟阿については前に述べたが、西山流深草義の立信、道教に師事し、『吉水法流記』には「立諸行本願亦非本願義」と註されている。凝然の『浄土法門源流章』には「悟阿の所立は亦は本願亦非本願なり。第十八願に依て此の義を成立せり(4)」といっている。そして『吉水法流記』は悟阿の門下に示導・実導を連ねているが、二人は西山流本山義、あるいは證空門下の遊観の法系に連なるともいわれているから、悟阿の門人として記載されるのは特異とされる(5)。

(1)牧哲義氏「法然門下の初期の系譜資料─『吉水法流記』と『法水分流記』について─」(東洋大学東洋学研究所編『総合研究 アジアにおける宗教と文化』〈国書刊行会、一九九四年〉)
(2)鸞宿『浄土伝灯総系譜』巻下(『浄土宗全書』一九・一○五頁)
(3)凝然『浄土法門源流章』(『浄土宗全書』一五・五九五頁)、鸞宿『浄土伝灯総系譜』巻下(『同』一九・一○八頁)
(4)凝然『浄土法門源流章』(『浄土宗全書』一五・六○一頁)
(5)牧哲義氏「法然門下の初期の系譜資料─『吉水法流記』と『法水分流記』について─」(東洋大学東洋学研究所編『総合研究 アジアにおける宗教と文化』〈国書刊行会、一九九四年〉)

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行空上人の評価(7)

2017年07月23日 | 小論文

        七

 そこで残ったのは行空である。『浄土法門源流章』には「源空大徳親承面授の弟子」の一人として行空の名が挙げられているが、教学についてはまったく触れるところがない。また後述するように行空の自著と確実にいえるものもない。そのうえ『三長記』元久三年(建永元年 一二○六)二月三十日条には「行空に於ては殊に不当なるに依つて、源空上人一弟を放ち了る(1)」といわれている。先に述べた幸西や親鸞が法然から擯出されたというのはこれが元になって、宗我から二人に及ぼしたものに違いない。もっとも幸西が擯出されたというのは早く『九巻伝』や『四十八巻伝』にも見られる(2)。しかし実際にそのような史実があったわけではない。まして親鸞もそうである。ただ行空の破門は客観的資料である『三長記』に記されているから認めざるをえないであろう(3)。そうすると行空が師に背いて邪義を説いたと見るのはむしろ当然と考えられる。そこで鎮西派のみならず真宗においても、序論第一章第二節で触れたように了祥(一七八八~一八四二)は『異義集』に「法本が計は(中略)悪無碍をつのり、放逸無慚に至るか」といい「邪見放逸なるは、おもに法本と見ゆれども」等といっている。近年においても住田智見氏は「一向専修を心得あやまりて造悪を恣にせんとし」といい、山上正尊氏は「行空は造悪を孕む邪念義である」と断言されている。さらに浅野教信氏も「行空の如く造悪を孕む一念の邪義」といい、白川晴顕氏も「行空の一念往生義が破戒を顧みぬ造悪無碍と密接な関係にあったことは推察に難くない」といわれている(4)。なかには松野純孝氏や梯實圓氏のような行空に対して好意的な見解もあるが(5)、行空に関する資料が乏しい以上、決定打に欠ける。はたして行空は邪義を唱えたのであろうか。

(1)三条長兼『三長記』元久三年二月三十日条(『増補史料大成』三一・一八三頁)
(2)『法然上人伝記(九巻伝)』巻第六下(井川定慶氏集『法然上人伝全集』四三○頁)、『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』第二十九巻(『同』一八八頁)
(3)ただし松野純孝氏『親鸞─その生涯と思想の展開過程─』(三省堂、一九五九年)八七頁には「『三長記』の記載は行空追放という単なる風聞に基づいていたのではなかろうか」と疑問視されている。
(4)了祥『異義集』巻一(『続真宗大系』一九・四、九頁など)、住田智見氏『浄土源流章解説』(法蔵館、一九二五年、一九八二年再刊)二二七頁、山上正尊氏『一念多念文意講讃』(為法館、一九五六年)九二頁、浅野教信氏「『一念多念文意』の思想的背景」(『真宗学』二一、一九五九年、のち同氏『親鸞と浄土教義の研究』、永田文昌堂、一九九八年、所収)、白川晴顕氏「法然教学における一念多念の構造」(『宗学院論集』五三、一九八二年)
(5)松野純孝氏『親鸞─その生涯と思想の展開過程─』(三省堂、一九五九年)一一六~一一九頁。梯實圓氏『親鸞聖人の生涯』(法蔵館、二○一六年)一一八頁、同氏『玄義分抄講述─幸西大徳の浄土教─』(永田文昌堂、一九九四年)二二~二三頁。

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行空上人の評価(6)

2017年07月22日 | 小論文

            六

 そこで真宗の学匠は幸西と親鸞の関係や教学の同異について考究している。まず法霖(一六九三~一七四一)の『弁翼賛遺事』はその題が示すように義山の『翼賛遺事』に対するもので、親鸞を幸西の弟子と見なすことに反論している。そのなかに「念仏名義追録は、『成覚弟子善心』と言ふ。翼賛遺事は、唯だ『相い伴つて』と言ひ弟子と言はず。『相共捨戒受擯(相い共に捨戒し擯を受く)』は、彼の流の贋徒の妄作なること、知るべし。末学、念仏名義追録の妄説を以て吾祖を斥けんと欲す。其の何と我執の甚だしき也(1)」といっているのは注目してよいであろう。弁長が邪義と判じたのは悲歎によるものであったが、江戸時代の鎮西派が親鸞を邪義としたり幸西の弟子と見たり法然から破門されたというのは、親鸞を斥けようとする宗我に根ざした妄説と見抜いているのである。望月信亨氏の場合も一見すると客観的な推察のようであるが、無意識のうちに従来の宗我がはたらいていると思われる。
 そして恵空(一六四四~一七二二)の『叢林集』や興隆(一七五九~一八四二)の『口伝鈔録』は教学の同異を問題にしている。そこに近似点と同時に相違点を見出しているが、恵空は「口称は往生の因に非ずとて、一声をも多声をも嫌ふらんは、以ての外の事也。当流一分の相似無し(2)」といい、興隆は「所信及び相続処に於て、未だ曾て名号を談ぜず。(中略)其の義、大いに異なり(3)」といって、相違点を強調するのは幸西を邪義と見るのが支配的であったから幸西と親鸞を切り離し、親鸞が邪義でないと主張するためであろう。ただそれは『四十八巻伝』『九巻伝』『十巻伝』等に幸西が「多念の遍数、はなはだ無益なり(4)」といったという記述に流されたものと思われる。
 しかし近似点は凝然(一二四○~一三二一)が『浄土法門源流章』に幸西の教学を紹介したものによっている。そこには現存しない幸西の著述である『略料簡』『一渧記』『称仏記』が引用されていて、恵空は「彼の師の略料簡を按ずるに」といって取意引用し、「此の分は西山にも当家にも同じかるべし」といっている。西山義のことはいま触れないが、実際の『略料簡』の文はその引用の最後にある「仏心と相応する時に業成す。時節の早晩を問ふこと無し」というものである(5)。つぎに興隆は「今且く源流章に依て云く」といって抄出引用し、「此等の文に准ずるに、如来の因願所成の果智の心を、仏智一念と名づく。衆生此の法に信帰して、仏智に契ふ。不二冥合の故に生を得」といい、「是れ当流の所談と相似する」といっている。その引用中には『一渧記』の文も引かれている(6)。
 こうして彼らが幸西教学の資料としたのは諸種の法然伝と『浄土法門源流章』であったが、大正時代のはじめ山田文昭氏が幸西の自著である『玄義分抄』を発見し、大正七年(一九一八)に「戊午叢書第貳編」(仏教史学会)として氏の後書を付し公開された。それは多念義に対する一念義側の唯一の資料となって、多くの先学が『浄土法門源流章』と照合しつつ幸西の教学を正確に研究された。安井広度氏、石田充之氏、神子上恵龍氏、浅野教信氏、梯實圓氏等である(7)。そしてその結果、幸西は諸種の法然伝がいうように念仏の多念相続を無益と否定したような形跡はなく、まして造悪無碍を主張したわけでもない。したがって幸西を邪義とするのは誤りといわねばならない。そこから見ると、法霖が『玄義分抄』発見以前、「成覚房、多念を廃せず。何ぞ唯だ一念義ならん(8)」といっていたのは卓見であると思う。ともあれ幸西が邪義でないとともに、親鸞も邪義でないことは多言を要しないであろう。

 註

(1)法霖『弁翼賛遺事』(『真宗全書』六二・三三四頁)
(2)恵空『叢林集』巻五(『真宗全書』六三・一六五頁、『続真宗大系』一○・一四九頁〈ただしこの『叢林集』では巻四とある〉)
(3)興隆『口伝鈔録』末(『真宗全書』四六・三○四頁)
(4)『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』第二十九巻(井川定慶氏集『法然上人伝全集』一八七頁)、『法然上人伝記(九巻伝)』巻第六下(『同』四二九頁)、『法然上人伝(十巻伝)』巻第九(『同』七二○頁)
(5)恵空『叢林集』巻五(『真宗全書』六三・一六五頁、『続真宗大系』一○・一四九頁)、凝然『浄土法門源流章』所引『略料簡』(『浄土宗全書』一五・五九三~五九四頁)
(6)興隆『口伝鈔録』末(『真宗全書』四六・三○三~三○四頁)、凝然『浄土法門源流章』および所引の『一渧記』(『浄土宗全書』一五・五九一~五九二頁)
(7)安井広度氏『法然門下の教学』(法蔵館、一九六八年)一四一~一八七頁、石田充之氏『法然上人門下の浄土教学の研究』上巻(大東出版社、一九七九年)三七九~五○九頁、神子上恵龍氏「宗祖と法然門下との思想交渉─幸西と親鸞─」(『龍谷大学論集』三五七、一九五七年)、浅野教信氏「幸西教学と親鸞聖人」(『龍谷教学』四、一九六九年、のち同氏『親鸞と浄土教義の研究』永田文昌堂、一九九八年、所収)、梯實圓氏『玄義分抄講述─幸西大徳の浄土教─』(永田文昌堂、一九九四年)など。
(8)法霖『弁翼賛遺事』(『真宗全書』六二・三三六頁)

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行空上人の評価(5)

2017年07月21日 | 小論文

            五

 そして鎮西派ではこの三人のうち幸西と親鸞が師弟関係にあったと見ている。その源流はおそらく鎮西派の正統性を主張する意図が窺える法然伝の『九巻伝』に「爰上人配国の後、成覚房の弟子善心坊といへる僧、越後国にして専此一念義を立けるを」等という記述であろう(1)。それとほぼ同様の文が寛文八年(一六六八)に開本したという弁長の『念仏名義集』の最後に追録されているが、そこでは「善心房」となっていて「親鸞のこと也」という頭註がある(2)。また義山の『御伝翼賛遺事』には「従来(もとより)覚盛法師(=幸西)は源空上人に帰依し彼の会下に属す。然るに上人配国の後、覚盛法師は綽空〔後に親鸞と号す〕と相伴て越後の国に下向す。(中略)覚盛・綽空、相い共に捨戒し師の教誡を廃す。是に因て永く門弟を放たれ畢ぬ(3)」といっている。また近代に至っても望月信亨氏は「一念義の主唱者なる幸西と云ふ人の伝が分らぬから、明言は出来ないが、私は今日の真宗と云ふ宗旨は、恐らくは其の門流であろうと思ふのである。真宗では親鸞聖人は元祖上人の弟子で、而かもそれが高弟であつたと云ふてゐるけれども、其主義の点から見ると、元祖上人よりは、幸西の方に能く似てゐるから、先づ一念義の別派と見做した方が適当だろう」「親鸞聖人の所立竝に品行が非常に能く此の幸西に類してゐるが、ドウモ親鸞は、元祖上人よりも、幸西から受けた影響の方が大であつた様に思はれる」といわれている(4)。

(1)『法然上人伝記(九巻伝)』巻第六下(井川定慶氏集『法然上人伝全集』四三○頁)
(2)弁長『念仏名義集』巻下(『浄土宗全書』一○・三八四頁)
(3)義山『御伝翼賛遺事』(『浄土宗全書』一六・九六七頁)
(4)望月信亨氏「元祖上人門下の異義」(同氏『浄土教之研究』所収、仏書研究会、一九一四年、八○五~八○六、八二七頁)

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行空上人の評価(4)

2017年07月20日 | 小論文

            四

 ところが時代が下がってくると、鎮西派のなかで変化が生じている。舜昌(一二五五~一三三五)が後伏見上皇(一二八八~一三三六)の命をうけて、徳治二年(一三○七)から十数年かけて制作された『四十八巻伝』は、法然没後約百年、弁長没後約七十年であるが、その一番最後に行空・幸西が一念義を立てて法然の命に背いたことから擯出されたと述べたあとにつづいて、「覚明房長西は、上人没後に、出雲路の住心房に依止し、諸行本願のむねを執して、選択集に違背す。この三人随分名誉の仁たりといへども、上人の冥慮はかりがたきによりて門弟の列にのせざるところなり(1)」といっている。行空・幸西とともに長西を挙げ、門弟に列にのせないというのである。
 さらに時代が下がって蓮如(一四一五~一四九九)が出現すると、弁長や良忠のころほとんど無名であった親鸞が特出され、その親鸞を開祖と仰ぐ真宗教団が瞬く間に勢力を拡大していった。そして江戸時代になると幕府の僧侶に学問を奨励する政策もあって、親鸞の存在を無視できなくなった。そこで弁長や良忠が触れることのなかった親鸞を背師自立の邪義としていくのである。すなわち鸞宿(一六八二~一七五○)は『選択集文前綱義』に「当に知るべし、親鸞は是れ帰依の門人にして祖意に契ふの人に非ず。(割註、略)況や所立の義と正流の意と天地万々里、雲泥千々程、同日にも論ずべからず。何ぞ混じて言ふべけんや(2)」といっている。そして『浄土伝灯総系譜』には「諸師の中に於て総じて三品有り、一に謂く面受親聞の人、二に謂く背師自立の人、三に謂く従他帰入の人」といい、背師自立のなかに幸西・行空・親鸞を挙げている(3)。また妙瑞の『鎮西名目問答奮迅鈔』や『徹選択集私志記』には「吉水大師の門流多しと雖も、今に要を取て之を言はゞ、統略するに三等有り。一に云く正義、二に云く不正義、三に云く邪義」といって、正義は弁長、不正義は證空・隆寛・長西、そして邪義は「成覚房幸西・法本房行空・愚禿氏親鸞是れ也」というのである(4)。さらに関通(一六九六~一七七○)の『一枚起請文梗概聞書』にも割註で「一念の悪義念仏を立る邪流、幸西・行空・善心等の徒類、皆是れ師命に違背する輩なり」といい、法洲(一七六五~一八三九)の『一枚起請講説』にも「御弟子の中にさへ、成覚房幸西の、法本房行空の、善信房綽空のと云、無道の者が、大師の御義に背きて、邪義を立る故」といっている(5)。 そのうえ義山(一六四七~一七一七)・素中(生没年不詳)の『和語灯録日講私記』には、幸西所立の義を述べたあとにつづいて「法本房行空・親鸞、並に此の義を存す。故に皆元祖の門徒を擯出せられしなり」といって、親鸞が幸西・行空とともに法然から破門されたとまでいっている(6)。このように派祖の弁長が邪義としたのは幸西・證空・行空であったが、『四十八巻伝』では證空と長西が入れ替わり、江戸時代になると證空・長西が消え、幸西・行空そして親鸞を背師自立の邪義とするのである。

(1)舜昌『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』第四十八巻(井川定慶氏集『法然上人伝全集』三一八頁)
(2)鸞宿『選択集文前綱義』(『浄土宗全書』八・一○三頁)
(3)鸞宿『浄土伝灯総系譜』(『浄土宗全書』一九・一一四、一一七~一一八頁)
(4)妙瑞『鎮西名目問答奮迅鈔』巻第一(『浄土宗全書』一○・四三二~三頁)、『徹選択集私志記』巻上(『同』八・一一五頁)
(5)関通『一枚起請文梗概聞書』(『浄土宗全書』九・一五四頁)、法洲『一枚起請講説』(『同』九・二三八頁)
(6)義山・素中『和語灯録日講私記』第一巻(『浄土宗全書』九・六七一頁)

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行空上人の評価(3)

2017年07月19日 | 小論文

            三

 また弁長は『末代念仏授手印』の裏書に、「近代人人の義」として三人の義を挙げ、「此の三人の義は近代興盛の義なり」といい、「已上の三義は是れ邪義なり。恐るべし恐るべし〔在御判〕」といっている。そして行を改め、「全く是れ法然上人の義に非ず。梵釈四王を以て証と仰ぎ奉るべし。三義倶に学文を為さざる無智の僧達の愚案也。慢、慢也」等ともいっている(1)。法然の正統を継いでいるという弁長の自信のあらわれであろう。もっとも弁長は三人の義について「或人の云く」としかいっていないが、幸西・證空・行空とするのが鎮西派の一般的な理解である(2)。それについては第四章で検討しよう。ともあれ、弁長は幸西・證空・行空を邪義を判じているのである。その三人の義が興盛することによって数遍の念仏行が廃されるようになったと見るからである。行空については触れていないが、良忠(一一九九~一二八七)の『決答授手印疑問鈔』によると、弁長の言として「上人御往生の後、一念義と云ふ事繁昌せんよりこのかた、小坂弘願義の世に興るに至て、人皆、先師の御遺誡に背き、多くは念仏の行を廃す」とあり、また『末代念仏授手印』に「失念仏行(念仏の行を失し)」とあることについて「一念義・弘願義を立つる輩ら数遍を廃す。此の義を痛んで授手印を作る也と申され候」と伝え(3)、また良心(?~一三一四)の『授手印決答巻上受決鈔』にも「一念義は多念を簡び、弘願義は即便往生の義を存す故に、共に念仏の行を廃す也(4)」とあることによって知られよう。弁長は『徹選択集』に「返す返す先師上人の選択集を以て指南と為し、又た依憑に仰ぎ、無間に精進して懈怠無く疎略無く、口称の念仏を行じて、慥かに以て極楽に往生すべし(5)」といっている。確かに法然の『選択集』は念仏を勧めるものであるから、「法然上人口決沙門弁阿(6)」と自覚する弁長にとって、念仏を行じてこそ法然を真に相承するすがたであり、念仏が廃されることは愁い悲しみのほかなかったのである。三人を邪義と判ずるのはここから来ている。ただし三人の門流あるいはそこから派生した亜流は念仏を廃したかもしれないが、幸西・證空・行空の三人自身が実際にそうであったかどうかは問題である。

(1)弁長『末代念仏授手印』(『浄土宗全書』一○・一○~一一頁)
(2)たとえば大橋俊雄氏「弁阿聖光本『末代念仏授手印』について」(『恵谷先生古希記念 浄土教の思想と文化』、一九七二年)、高橋弘次氏「二祖聖光における教学の二面」(『坪井俊映博士頌寿記念 仏教文化論攷』、一九八四年、のち同氏『続法然浄土教の諸問題』、二○○五年、山喜房仏書林、所収)、花田玄道氏『鎮西上人』(大本山善導寺、一九八七年、四九~五一頁)、阿川文正氏『聖光上人伝と「末代念仏授手印」』(浄土宗大本山善導寺、二○○二年、一二六・一五○頁)など。
(3)良忠『決答授手印疑問鈔』巻上(『浄土宗全書』一○・二八頁)

(4)良心『授手印決答巻上受決鈔』(『浄土宗全書』一○・九一頁)
(5)弁長『徹選択本願念仏集』上(『浄土宗全書』七・九七頁)
(6)弁長『末代念仏授手印』(『浄土宗全書』一○・一○~一一頁)

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行空上人の評価(2)

2017年07月18日 | 小論文

            二

 ところが鎮西派では背師自立の邪義と断ずるのである。それは派祖である弁長(一一六二~一二三八)からはじまる。その著『末代念仏授手印』には「上人往生の後、其の義を水火に諍ひ、其の論を蘭菊に致す。還りて念仏の行を失し(失念仏行)、空しく浄土の業を廃す。悲しい哉、悲しい哉、何が為ん、何が為ん」と悲歎しているが、その直前に、「幸なる哉、弁阿、血脈を白骨に留め、口伝を耳底に納む。慥かに以て口に唱ふる所は五万六万、誠に以て心に持つ所は四修三心なり。之に依て自行を専とするの時は口称の数遍を以て正行と為し、他を勧化するの日は称名の多念を以て浄業と教ゆ」とあって(7)、自身が自行化他において多念の立場に立つことを明言している。また『浄土宗名目問答』のはじめに「問ふ。浄土宗一門の念仏者なりと雖も、一念の流れ・数遍の流れ、水火相ひ分て」と一念の人と数遍の人が互いに偏執を成していることを述べ、「何れか悪、何れか善。誠に以て其の是非知り難し。何ぞ将に是の善悪を弁じ、一方に付て其の心を固くして迷惑の念を止て、一向に往生の行願を調へ、今度浄土に往生して生死を出離せんや」と問いを出しているが、以下の論述は数遍の義(多念義)をもって正義とするものであり、一念の人が立てる義を出しては「此の義皆邪義也」といっている(8)。一念義を邪義とするのである。それは一念の信に執じて念仏を否定したり、一声の念仏に執じて多念の相続を軽視あるいは無視したり、ついには造悪無碍に堕する傾向をもっているからである。その邪義である一念義が正義である多念義と水火のごとく諍うから弁長の悲歎がおこるのであろう。そこで著述の至るところに痛烈な一念義批判を展開している。極言すれば、それが弁長の著述の一特徴であるとさえいわれている(1)。
 ただ弁長の随所に見られる一念義批判はその主唱者の名を挙げていない。前節で述べたように一口に一念義といっても種々雑多なものがあり、それらを普遍的な問題とするためであろうか。そのなかで『浄土宗要集』には、
 

法本房の云く、念とは思ひとよむ、されば称名には非ずと云云。答ふ、此は念仏を習はざる也(2)

といっている。これについての検討は後に譲るが、まず「法本房の云く」と行空の名を出している。そして「此は念仏を習はざる也」と痛烈に批判している。つまり弁長にとって行空は称名否定の邪義を唱える一念の人であったわけである。

(1)山上正尊氏『一念多念文意講讃』(為法館、一九五六年)九五頁。
(2)弁長『浄土宗要集』第五(『浄土宗全書』一○・二二八頁)

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