天上の月影

勅命のほかに領解なし

末灯鈔法話(1)

2017年02月28日 | 利井鮮妙和上集

末灯鈔法話
                      故利井鮮妙和上
                                                                (『利井和上法話集』上より)

右の一篇は明治四十一年一月二十一日晨朝に和上の法話なされしものにして、長州の寺井諦道氏聴聞して筆記せられしものなり。

しかれば恵心院の和尚は『往生要集』には、本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」と仰せられたり。「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにをさめとられまゐらせたり」と、たしかにあらはせり 等。

ただいまの御文は『末灯鈔』の御教化であります。『末灯鈔』というは、念仏往生は末代の闇の世の中における燈(ともしび)の如しという意味であって、高祖の御言葉を覚如上人の御令息の従覚上人が御編集なされたものである。その中にあるのがただいまの御文である。元来この御法(みのり)は我が身の上を知らねば味がない。薬というものは病気のときに服用するものじゃというても有り難みがない。実際自分が病気になった時分には薬は金銭にも財宝にもかえられぬ重宝なものである。ここにおいて薬の有り難みがわかる。しかるに世人の多くは自分の身の上を知らず、うかうか日暮ししておる。今日はいずれより来たりしか昨日より来た。昨日はいずれより来たりしか一昨日より来たと漸次に遡れば必ずその前がある。また今日の次は明日、明日の次は明後日と、次から次に未来があるが如く、今人間もいずれより来たか、子供の時より来た。その子供はいずれより来たか、母の胎内より来た。その前はといずれよりと問われたならば知らぬのである。また後生はどこへゆくと問われたならば知らぬ。前生も知らず後生も知らぬ馬鹿者である。こんな馬鹿者に対して釈迦如来様が前日あって今日あり、今日あって明日あり、前月あって今月あり、今月あって来月ある如く、前生あって今生あり、今生あって後生があるぞと教えて下さるのである。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

終焉法話(6)

2017年02月27日 | 利井鮮妙和上集

五 老拙(わたくし)病気の故、御堂まで御礼することも自在ならざれば、恐れ多いことながら病窓に仏室をかまえてこの御名号を安置し、朝夕御礼申すことであります。浄土房は自ら手紙を書いて極楽の阿弥陀仏の使いなりと喜ばれた。老拙(わたくし)は勢至菩薩の御真筆の御名号、これで極楽往生遂げるぞと吾が使いに吾が来にけり。法然上人の御真筆を宿縁かたじけなくして朝夕に頂いてみれば、機をいえば十方衆生、心は助けたまへ、行は一念十念、皆往生す。「称我名号下至十声当知本誓重願不虚称念必得往生」の真文、即ち南無阿弥陀仏、往昔恒河沙の昔から御待ち下されたこのたびの往生はこの御名号にて参ること、朝な夕なに御礼するは実に幸せものと心得て細々喜ばせて頂きます。それも飛び立つほど喜ぶでなく、ものうく思うこともあるは勿体ない。凡情が出るについてはただ懺悔し、あやまりはてて喜ばせて頂きます。超日月光の御思し召し、勢至菩薩の御真筆の御手紙をこの鮮妙に下された。
 これをもって浄土に参るならキットいけるに気遣いはない。上等の切符ををもって上等の室へ行けば上等の御客。御浄土には上中下はない。皆上等の切符の南無阿弥陀仏で上等の御浄土の御客である。今日は有縁の方々共々に喜んで下さい。言はぬは言うにイヤまさる。今年は御暇申しませぬ。御暇申さぬが真の御暇でありましょう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

記者曰く、この御法話が遂に和上の御往生の預言となりました。浄土房は小僧を使いとして元朝に喜ばれましたが、大和上は大正三年の元朝三時二十分に御往生遊ばされました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

終焉法話(5)

2017年02月26日 | 利井鮮妙和上集


四 しかるにこの娑婆世界にして念仏聴聞することは勢至菩薩の御恩であると高祖大師がお喜びなされて、
  大勢至菩薩の 大恩ふかく報ずべし
と仰せられた。日本には勢至菩薩の出世がないが、勢至菩薩が法然上人と形を変えて御出ましなされたる故に御和讃に、
  大勢至菩薩 源空聖人御本地なり。
とある。「正信偈」に、
  善悪の凡夫人を憐愍せしむ。真宗の教証、片州に興す。選択本願悪世に弘む。
とあるのはこのことである。
 元祖法然様の御真筆を先年舎兄が宿縁あって京都の寓居で御給仕しておりましたが、近来は在坊のことで御堂に安置しておりました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

終焉法話(4)

2017年02月25日 | 利井鮮妙和上集

またこの超日月光の阿弥陀仏が私に念仏を教え下された。これを御和讃に、
  超日月光この身には 念仏三昧をしへしむ
  十方の如来は衆生を 一子のごとく憐念す
と仰せられた。「この身」とは勢至菩薩自らを御指しなされた御言葉である。一仏の心に通達すれば一切仏の心に通達する故に十方の如来も念仏する衆生を一子の如くに憐念なさるる。超日月光と阿弥陀仏ばかりでない。十方諸仏が念仏三昧を教え、頂けばこれを憐念なさるる。そこを私は子の母を思うが如くに仏を臆念致しますれば、現前当来此後生心見眼見如来を拝見することが出来る。これを御和讃に、
  子の母をおもふがごとくにて 衆生仏を憶すれば
  現前当来とほからず 如来を拝見うたがはず
と御示しなされてある。この念仏三昧の人は香の気が身に付いたる如きもの故、香光荘厳と名づける。これを御和讃に、
  染香人のその身には 香気あるがごとくなり
  これをすなはちなづけてぞ 香光荘厳とまうすなる
と仰せられた。この勢至は念仏三昧の染香人であると御喜びなされた。故に次の御和讃には、
  われもと因地にありしとき 念仏の心をもちてこそ
  無生忍にはいりしかば いまこの娑婆界にして
  念仏のひとを摂取して 浄土に帰せしむるなり
と御示しなされて、往昔恒河沙劫の昔、念仏を頂いた事を御喜びなされ、このたびは釈迦如来様のこの娑婆界に御出現の時、この世に出でて念仏三昧の心をもって念仏の人を摂取し浄土に往生させたいと思いますると御述べなされた。これが勢至菩薩の念仏円通のおいわれである。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

終焉法話(3)

2017年02月24日 | 利井鮮妙和上集

三 それについて私が思うに勢至念仏円通の和讃は『首楞厳経』の中に釈迦如来様が二十五人の菩薩たちの賢者方におのおのその有縁の円満通達したる法(みのり)を説けよと仰せられた。そのとき一人一人、仏の前に出でて、有縁の法をお述べなされた。勢至菩薩は五十二菩薩御随従なされて仏前に出でたまひた。これを御和讃に、
  勢至念仏円通して 五十二菩薩もろともに
  すなはち座よりたたしめて 仏足頂礼せしめつつ
と仰せられた。仏足も頂礼なされて大勢至が世尊に御申し上げになるには、往昔恒河沙劫の昔の世に仏が御出世遊ばされて無量光と申された。これを御和讃に、
  教主世尊にまうさしむ 往昔恒河沙劫に
  仏世にいでたまへりき 無量光とまうしけり
と仰せられた。それより十二の如来様が相いついで御出世遊ばされ十二劫を経過して最後の如来を超日月光と申された。これを御和讃に、
  十二の如来あひつぎて 十二劫をへたまへり
  最後の如来をなづけてぞ 超日月光とまうしける
と仰せられてある。これは阿弥陀仏の十二光の御名にして、十二の仏は阿弥陀仏が十二度まで御出ましなされたことと伺われる。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

終焉法話(2)

2017年02月23日 | 利井鮮妙和上集

二 沙石集に浄土房の事が出てありました。この人はいたってありがたい人で、最も浄土宗の人らしくあります。ある年の大晦日の晩に手紙を一通したためて小僧にそれを与え、明朝は早く起きて門の戸を叩いてくれ。さすれば私がすぐに出遇って、いずれよりと尋ねるから、西方極楽の阿弥陀仏の使いなりと述べよ。しからば私が厳重に案内するから仏前に座して、阿弥陀仏よりこの手紙を汝につかわすと申して、私に与えてくれよと申しつけておいた。小僧は言いつけのごとく元朝早くから門を叩く。浄土房は門に出て、いずれよりといえば、極楽の阿弥陀仏の使いなりと述べたら、丁寧に仏前に案内した。小僧が阿弥陀仏よりこの書面を汝に与えよと申したれば、恭しくこれをいただき、文言のことはわからんが、その趣意は一年、年を越えたから、浄土に来ることが早まったで待っておるぞよとの趣意であった。仏から浄土が近くなって待って下さると大変に喜ばれたと出ておりました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

終焉法話(1)

2017年02月22日 | 利井鮮妙和上集

終焉法話(大正二年十二月二十六日)
                                                      【『利井鮮妙師語録』より】

*読みやすさの便をはかり、原文を改めて表記している。

一 さて本日は教校の報恩講の御縁でありますが、老拙(わたくし)も昨年は必死の心得で本年の報恩講に遇い奉ることは夢さら思いませなんだ。ことに十年程前より今年限り今年限りと心得て、御いとまの心得で営み来たりしが、本年こそ我が身ながらも不思議に思いまする。世には仏の顔も三度といいまするが、ほかのことなら左様でもあろうか知らんけれど、実に恥ずかしいことと思いまするが、凡情というものは情けないもので、永らえていればやはり浮き世執着し、かれこれと話に出来ぬようなことを取り出すが、しかし御法義というものはありがたいもので、御縁に逢えばやはり一席の御話も致したいように心得ますが、一週間前より容体が少し変わりまして、とかく切なくあります。医師も静養せよと申しますから、何事もせぬように致しておりますが、ちょっと一口だけ書き取ってもらいましたから聞いてもらいたい。総体、平素より熟睡の出来がたい性質でありますが、ことに本年は春より熟睡をとることが一夜もないというても、よろしいくらいである。それであるから眠られんについては御和讃を暗誦しておるなかで浄土和讃の終わりに勢至念仏円通の御和讃について毎夜たびたび感じますることであります。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

末代無智章法話(13)

2017年02月21日 | 利井鮮妙和上集

○「これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり」これが如来様の御念力ぢやと御示し下されたのであります。女の念力岩でもとうすと世間にも申します。念力ほど恐ろしきものはありません。それに我等が今度の往生は仏の念力であります。大願強力の念力であります。ゆめゆめ疑いなどあるべき筈はありません。
○「かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」とは御礼報謝の称名であります。御恩を蒙らぬひとは御礼報謝はいりません。したくともできません。御恩を蒙つた人は御礼報謝せねばなりません。処が「ねてもさめても」とあるから真実(ほんま)に信を頂いたものは、眠つてをるときも称名せねばならぬなどゝ申しますが、之を過ぎたるものと申さねばならん。三通目の御教化には「うれしさありがたさをおもはば、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなふべきものなり」と御示しなされ、四通目には「なほなほたふとくおもひたてまつらんこころのおこらんときは、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、時をもいはず、ところをもきらはず念仏申すべし」と御教化されてありますから、御恩を思ひ浮かべた時は、寝間のなかより皆御礼報謝となります。醒(ねむ)つてをるなかより必ずとはありません。然し醒(ねむ)つてをるなかより称ふるも難有(ありがたき)事であります。蓮如様は御眠り遊ばしても呼吸(いき)が皆御称名ぢやと申すことであります。

之は聞いた事でありますが、先年秋月といふ漢学者で而も仏法者が山縣侯と北海道で一処に官の事務をしてをられた。或朝、山縣侯が君は何宗教を信じてをるかと問はれました。秋月先生は私は無宗教ものであります。若し強いて宗教と申さば先考以来儒道を宗としてをりますと申されたら、山縣侯微笑して人間に宗教のないものはない筈ぢや、而も君は昨夜うるさい程称名してをつたぢやないかと申されたとき、秋月さんは愕然(びつくり)して真面目に私は称名などは且(かつ)て称へた事はありませんと答へられたが、其後仕事が済んで東京に帰られ、家人に話して妙な事もあるものぢや、私は真宗を信仰して極楽往生を喜んではをるが、外見に仏法者たらぬ様、少しも声に出して念仏したることはないのに、此の間北海道で私が寝言に念仏してをるといはれたが、少しも自分では受け取られぬと申されたとき、御家内が申さるゝには、一度もあなたに申した事はありませんけれども、あなたは毎夜御眠りなされると始終御念仏でありますといはれましたら、先生は左様であるか、此の様な私でも寝間に入れば安心するゆへ御念仏が出入りして下さるかと喜ばれたといふことがあります。御互ひに眠つてをるときでも必ず称へねばならぬといふのではない、思ひ出した時は広大の御恩を喜ばして頂かねばなりません。

上来あらあら此の一章を御話致しましたが、話と聴聞したり、講釈と聞いては残念な事であります。吾人一大事の出離生死の念頭に住して、朝夕此の御文を拝読せねばなりません。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

末代無智章法話(12)

2017年02月20日 | 利井鮮妙和上集

「一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば」とは「こころをふらず」が一心一向にたのんだのであります。蓮如様が二帖目の御教化に「一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり」と仰せられてあります。「たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし」此の様な大悲の御救いでありますから、兎や角の小智小計をやめて、ひたすらに如来様の御慈悲をよろこばねばなりません。世間で物を沢山とることを濡れ手で粟のつかみどりと申しますが、私共は今度は手ぬらさずで御座ります。老衲(わたくし)が先年芸州へ参りました時、学友を尋ねて久しぶりに面会し、段々御話致しましたが、学友の申さるゝるには、自分の村に大変喜ぶ同行がありて、私は如来様といふよき親様を持ちまして仕合者(しあはせもの)である。世間の親でさいも子供を可愛がれば子供はよき親を持つたとよろこびますが、夫(それ)を見るに付けてもよろこばれます。又世間の人が酒飲爺を持つて困つてをるものもありますが、夫(それ)を聞くに付けても一子の如く憐愍したまふ親様を持つたことの仕合(しあはせ)とよろこんでをるが、なかなか仕合(しあはせ)の同行がをります、と話されました。そのとき老衲(わたくし)の申すには、如来様は私の様な放蕩息子を持つて、さぞかし御困り遊ばしたであらふ。悪たれものと思ふても御すてもなされず、此の私一人が不憫ゆへに五劫永劫の間かゝりはてゝ下されたかと思へば、身の毛もいよだつやうに思はれる。「思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし」よくよくの放蕩ものゆへ此の様な長(なが)の御心配御かけ申したが、今はやがてのうち親様の前に御詫びさせて頂くことが出来ますと、共々に涙をこぼして御話したことがありましたが、どうぞ皆様も御詫びする身にならふぢやありませんか。真実(ほんま)に参らしていたゞかうぢやありませんか。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

末代無智章法話(11)

2017年02月19日 | 利井鮮妙和上集

○「さらに余のかたへこころをふらず」とは子供や財産を「余のかた」といふのではありません。後生の為めには余仏をたのんでみても、向ふの方からはねつけられたる此の私を、阿弥陀如来様は一人で引受ると仰せらるゝをたのみにし力にするが「余のかたへこころ」をふらぬのであります。
此の頃の気候で申さば、箕面山は紅葉盛りにして見物人は織(お)るが如くに歩行してをる。誰でも気晴しに遊びにゆきたいと思ふであらふ。御弁や瓢箪を持ちて出かけますが、若し朋友同士ならば出し合いにせねばなりませんが、親と共にゆく日になれば、少しも出し合いはいらぬ。御弁の御馳走を味ひながら紅葉見のたのしみが出来ます。南無のつけたしも発願回向の出し合いも私の手許には少しもいらぬ。一切は皆如来様の方で引受けて下さる。その様な阿弥陀如来一人手で助け下さる御力にをまかせするを「こころひとつ」といふのであります。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

末代無智章法話(10)

2017年02月18日 | 利井鮮妙和上集

【読みやすさの便をはかり、旧字を改め、句読点や送り仮名を付したところもある】

○「こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて」とは色々の雑行雑善を廃することを「こころをひとつにして」といふのではない。在家止住の心中のまゝで助けて頂くといふが「こころをひとつにして」といふ事であります。私共が後生の為に薬師如来を御たのみ申しても、そちの様な十悪五逆の罪人は、此の方の力では助けかねると、薬師様の方からをことはりなされます。又大日如来を御たのみしても、悪重く疑い深きがゆへに千仏身を繞くれども助くる能はず、をれの力では、ようたすけぬと御拒りなされる。然るに私共のたのみとなつてくださるは阿弥陀如来、たのまれてくださるは阿弥陀如来ばかりであります。たのみにならぬ仏をたのまず、たのみになる仏をたのむを「こころをひとつにして」と仰せられるゝるのであります。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

末代無智章法話(9)

2017年02月17日 | 利井鮮妙和上集

【読みやすさの便をはかり、旧字を改め、句読点や送り仮名を付したところもある】

○「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは」とは願文の十方衆生のことなり。十方衆生とはあれども其の中に於て本意は凡夫にあるが故に唯今はヶ様に御示し下されたのであります。つまつた善人はつまらん凡夫と同様に聴聞せねばなりません。法然様も「一代の法文をよくよく学すとも愚痴無智の尼入道に同ふして、ゆめゆめ智者のふるまひあるべからず」とも仰せられてあります。「末代」とはスエの世の事で上代に対したものだなどゝいはぬとも宜敷い。「無智」とは世間上の智識をいふのではない。如何なる学者なりとも自分の後生の一大事を知らぬものならば我身しらずの阿房者(あほうもの)である。夫(それ)を「無智」と仰せられたものであります。「在家止住」とは五欲の我屋に貪着して少しも法座に出ることなき出嫌いものをさしたものにして、今日の同行衆は皆「在家止住」であります。出嫌いものゆへ何処も出ぬかといへば、儲け口なら何処いでも出る。腹立ちまぎれの争いには人目もかまはぬ、どこいでも飛び出す浅間識やつなり。その様な「男女たらんともがらは」の根性でどうして出かけますか。夫(それ)に教えを聴聞して如来大悲の本願に信順すれば「後生をしるを智者とす」といふ大仕合(しあはせ)ものとなるのであります。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

末代無智章法話(8)

2017年02月16日 | 利井鮮妙和上集

【読みやすさの便をはかり、旧字を改め、句読点や送り仮名を付したところもある】

又、同行衆の中で真実(ほんま)に後生を老衲(わたくし)に任したものがありますか。五十年来御話をしてをるけれども、真実(ほんま)に老衲(わたくし)にまかせたものは五六人位のものぢや、老衲(わたくし)にまかせたといふは、老衲(わたくし)の取次御教化にまかせたもの、御教化にまかせたは、本願に御任せ人であります。皆様執拗(しつこい)やうですが、真実(ほんま)に聴聞なさいや。本間に死にますぞ。老いたものは猶更のこと、若い壮健ぢやといふても不定の世の中です。皆様見てをるではありませんか。それに少も驚くこゝろもなく、まーまーと引きのばし、大命終らんとして悔恐(けく)交(こもこ)も至る様な事となりては実に情けないではありませんか。と申したとて今死ぬと思ひ、又は思ひつめに思ゑとはいふのでありません。不定の世界なれば、今をもしれぬ身なりと心得て貰いたい。蓮師も「今日までは無常のはげしき風にもさそはれずして、我身ありがほの体(てい)をつらつら案ずるに、たゞゆめのごとし、まぼろしのごとし、いまにをいては生死出離の一道ならでは、ねがふべきかたとてはひとつもなく、またふたつもなし」と仰せられてあります。此の心得で聴聞すれば、間違ないの御慈悲ゆへ、間違なしと聞ばかりであります。鋏で毛を切るといふか、刀で竹を割るといふか、判るも判るも是程判るものはない、易いも易いもこないに易い御教化はないのであります。いよいよこれから御文に付て御話致しませう。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

末代無智章法話(7)

2017年02月15日 | 利井鮮妙和上集

【読みやすさの便をはかり、旧字を改め、句読点や送り仮名を付したところもある】

 さう皆様本気になりて聴聞しなさい。真実(ほんま)に仏になりたいならば、真実(ほんま)にあの壇上の御相(おすがた)を御礼なさい。皆様はどないにあの御尊様を御礼して居なさるか。あの御相(おすがた)は、いかほど身は八裂(やつざき)になるとも衆生が往生するならば、少も苦と思はぬといふ大悲の顕はれであります。御聖教のなかには(註、『漢語灯録』巻一「大経釈」、『真宗聖教全書』四・二七九~二八○頁、ただし原文と多少異なっている)、「弥陀如来もと菩薩の道を行じたまひしとき檀を修し(布施の行なり)劫波をおくる(永き年月を経たまふをいふなり)経に云く、ほどこすところの目は一恒河沙のごとし、乞眼婆羅門のごとく、飮血の衆生を乞ふにほどこすところの生血は四大海水のごとし、噉肉の衆生ありて身分(しんぶん)の脂肉を乞ふにほどこすところのししむらは千須弥山のごとし。しかのみならず、捨つるところの舌は大鉄囲山のごとし、捨つるところの耳は純陀羅山のごとし、捨つるところの鼻は毘富羅山のごとし、捨つるところの歯は耆闍崛山のごとし、捨つるところの身皮は三千大千世界の所有の地のごとしと云云、しかのみならず、あるときには肉山となりて衆生に食噉(じきたん)せられ、あるときは大魚となりて身分(しんぶん)を衆生にあたふ、菩薩の慈悲これをもてしるべしと云云、衆生の貪欲これをもつてしるへしと云云、飮血噉肉(たんにく)の衆生はなさけなくも菩薩利生の膚(はた)をやぶり、求食著味の凡夫は、はゞかりなく薩埵慈悲の肉を食す、かくのごとく一劫二劫にあらず、兆載永劫のあひだ四大海水の血をながし、千須弥山の肉をつくす、すてがたきを、よくすて、しのびがたきを、よくしのびて、壇度(布施)を満じ、尸羅波羅蜜を満足し(戒行忍辱精進禅定智慧六度円満し、万行具足すと云云と仰せられてあります。皆様いかゞです。この様に私共の往生を心配してこのなり、そのまゝ、決定必定助け救ふの御相(おすがた)であります。それを世間の挨拶の如くに御礼する様では、とてもとても御心はいたゞけるものではありません。皆様後生は誰をあてにするつもりです。此の鮮妙はあてにはなりませんぞ。此の鮮妙は人の後生はひきうけませんぞ。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

末代無智章法話(6)

2017年02月14日 | 利井鮮妙和上集

【読みやすさの便をはかり、旧字を改め、句読点や送り仮名を付したところもある】

以上五段に分ちましたものゝ前四段は信心正因、後の一段は称名報恩の事となります。いよいよもって第十八願の有(あり)の儘を私共の判りやすき様に御化導下されたのであります。此の御教化を聴聞すればするほど、拝読すればするほど、今度の一大事の後生は何事にも用事なしの身になつて参らして頂くのであります。もしも何事かに用事があつたならば御互(おたがひ)共に大変な事であります。難有(ありがたう)なつて、嬉しくなつて、嗜まれて、称名相続出来て、そして参る様な気持であつたならば、折角(せつかく)何事もいらずに助けたまふ大慈悲を徒事(いたづらごと)にすることになります。京都の某家(それがし)に探幽の真筆書がありました。然し探幽の落款が印(お)してありません故、其の子孫が若しや後代になりて真偽が判らぬ様になりては残念なりと思ふて、大名書家(めいしよか)に探幽の真筆なりと書て貰いましたら、却て偽物となりて仕舞ふたといふ事が御座ります。如来様の決定必定助け救ふの御慈悲に向つて自分の方から難有味(ありがたきみ)を付けたり称名の称へぶりを付けて地獄に落ちては大変な事であります。如来様の御他力を不足に思ふて自力の印形(いんぎよう)を付て堕獄して取返しが付きません。御給仕が美(よ)く出来るといふに目がつくも自力のはからひ、御給仕せいでもよしと思ふも自力のはからひ、御慈悲以外のものは何も角(か)も自分の計(はからひ)であります。近頃は自分で阿房(あほう)がつて善きつもりになつてをる人もありますが、善根さい間に合はぬと癈(す)てられてあるものを自分から阿房(あほう)がつてをるもの、尚更間に合はぬ事であります。智者ぶるも善人ぶるも愚者がるも悪人きどるも皆自ら添(そへ)もの付けものなれば、我が機の上の是非善悪または心の持様(もちやう)等に貪着なく、曠劫以来御やるせなき如来様の御慈悲一つを目当にせねばなりません。然れば「かならず弥陀如来はすくひましますべし」と御救ひ下さるに間違ありません。

 或人が一人の同行を尋ねて貴下(あなた)は今度の往生は如何でありますと申したら、同行の申さるゝに、私の様な阿房(あほう)ものも今度は如来様の御慈悲にて間違なく御助け下さるゝと喜んでをります。或人がいふには、それは真実(ほんま)ですか、そんな安心ならば南無ぬけの安心ぢや、往生など出来ませんと申されたれば、其の同行が私にぬけたところや足らぬところがあれば如来様が足して下さるゆへ、私の方より南無をつけぬとも如来様がよきやうにして御助け下さる、難有(ありがたい)難有(ありがたい)、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と喜ばれたといふことです。左様に申すと皆様はそんなら御他力と思ふておればよいと考らるゝかも知れぬが、たゞ御言葉まかせにしてはなりません。真実(ほんま)に御言葉にまかすのならよろしいけれども、御慈悲を真実(ほんま)に頂かぬに御言葉まかせは危険千万であります。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加