天上の月影

勅命のほかに領解なし

本覚法門雑記(16)

2016年11月30日 | 法本房行空上人試考

 また「妙覚成道の事」には、

問ふ。妙覚成道とは、何処において唱ふるや。答ふ、妙覚成道とは、理即の一念の心において、これを唱ふるなり。その故は、理即の体は、本(もと)より如来蔵なり。(中略)平等法界、本来常住にして改めざるを、妙覚と云ひ、寂光と云ふ。(中略)これを知らざる日は、ただ如来は自身の外にこれあり、これを知る日は、これ一切自身なり。(一五八頁)

といって、妙覚の成道は理即の一念に成就すると示している。理即とは天台で六即の行位を立てる最初で、仏の教えを聞く以前の段階である。まだ仏の教えも聞かず、修行もしていないのであるから、まったく凡夫のあり方である。その当体においても本来、如来蔵・仏性の理を内在していて、すでに妙覚を成就しているというのである。そして平等なる法界はことごとく常住であって、ここでも「改めざるを」という。理即の凡夫がそのまま妙覚であり、この娑婆世界がそのまま常寂光土であると示すのである。これを知らない間は自身とは別に仏がましますと思っているが、これを知ったときには一切が自身である。自身のほかに一切があるのではない。一即一切であるから、仏もまた自身の内にましますことを知るのである。理即の凡夫のままで妙覚を成就しているというわけである。これでは凡夫が仏に成るということが否定されることになる。凡夫が凡夫のままで仏なのであるから、修行して成仏するという「修行」も「成る」ということもなくなってしまう。本覚思想が「成る」論理の欠如、修行無用論に陥る傾向をもっているといわれるのはこれである。

                         

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本覚法門雑記(15)

2016年11月29日 | 法本房行空上人試考

            九

 『三十四箇事書』は前に述べたように、天台本覚思想の主要なものがすべて出そろっているといわれる。本書は「常のごとし」「常の人」「普通の義」「常の義のごとし」「尋常に人の思ひたるは」などといって、従来の説あるいは一般的な説を出して、「今家の意は」「今云ふ」「今の意は」「一家の意」「今は云く」「当家一流」などといって、それを超える説を展開するという論法が用いられている。論理としては、「本地無作三身の事」に、

正報は正報ながら三身なり、依報は依報ながら三身なり。これを改めて三身と云ふにはあらず。ただ、正報ながら、三身の徳を具し、依報ながら、三身の徳を具するなり、(一七三頁)

とあるように、まったく改めることなく、正報は正報、依報は依報、そのまま三身の徳を具するという、徹底した自己同一性に貫かれている。ほかにも、「生死即涅槃の事」に、

無常は無常ながら、常住にして失せず、差別は差別ながら、常住にして失せず。(中略)譬へば、波は動ずといへども、動ながら三世常住にして、動の始めもなく、動の終りもなく、無始無終なるがごとし。(一五七頁)

といって、波が静まって常住になるのではなく、波が動いているままが常住である。そのように、無常は無常、差別は差別、そのまま常住であるというのである。これは世俗の現象世界がそのまま常住であることをいっている。

 また「仏界衆生界不増不減の事」には、

円教の意は、衆生を転じて仏身と成るとは云はざるなり。衆生は衆生ながら、仏界は仏界ながら、倶に常住と覚るなり。(一七六頁)

といって、衆生が転じて仏に成るとはいわない。衆生は衆生のまま仏であるというのである。ここでは成仏ということが否定されている。さらに「草木成仏の事」には、

今の意は、実に草木不成仏と習ふ事、深義なり。所以はいかん。草木は依報、衆生は正報なり。依報は依報ながら、十界の徳を施し、正法〔正報の誤記か〕は正報ながら、正報の徳を施す。もし草木成仏せば、依報減じて、三千世間の器世間に減少あらん。故に、草木成仏は巧に似るとも、返つて浅に似たり。余も、これに例す。地獄の成仏、餓鬼の成仏、乃至菩薩の成仏、皆しかなり。その体を捨てずして己心所具の法を施設する故に、法界に施すなり。もし当体を改めば、ただ仏界なり。常住の十界全く改むるなく、草木も常住なり、衆生も常住なり、五陰も常住なり。(一六七頁)

といって、衆生のみならず、草木の不成仏を立てる。それはいいかえれば、草木そのままが仏であるということであり、さらには現象界がそのまま絶対肯定されているのである。

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本覚法門雑記(14)

2016年11月28日 | 法本房行空上人試考

 なお『真如観』は前に触れたように、浄土教も説かれている。もう一度取り上げると、

疾く仏に成らんと思ひ、必ず浄土に生んと思はゞ、我心即真如の理也と思ふべし。(一二○頁)

と説いている。ここでは浄土に生まれようとするならば、我心即真如の理なりと思うべきであるというのである。観念の念仏である。また、

又た真如を観ぜん者、極楽に生んと思はゞ、心に任て決定して生む事疑なし。その故は、仏に成ん事は極て難し。自行化他の無量の功徳、法界に満て仏に成が故也。極楽に生む事極て易し。悪業を作る者も、命終の時、心を至て、一々に十度南無阿弥陀仏と唱れば、必ず生る。故に而るに真如を観ずれば、成り難き仏にだにも、とく成る。況や生じ易き極楽に生む事、決定して疑なし。されば必ず生ぜんと思はん者は、只だ真如を観ずべし。されば百人を百人ながら、定て極楽に生ずる事、決定して疑なし。(一二一頁)

と説いている。成仏することは極めて難しいが、浄土に生まれることは極めて易いとおさえたうえで、真如を観ずれば仏にも成り、浄土にも生まれると説く。そのときの行法として真如を観ずることと並び、十念の念仏が説かれている。口称の念仏が同時に説かれているわけである。「悪業を作る者も」とあるから、利根は真如観により、鈍根は口称の念仏によって浄土に生まれるということであろう。

常に真如を観じて、わするゝ事無くば、悪業煩悩、往生極楽の障りと思ふ事なかれ。(一二五頁)

とも説いている。ここは「常に真如を観じて」であるから、真如観を行ずる利根の者ということになるが、前に「悪業を作る者も」とあったから、往生極楽に悪業煩悩は障りとならないとするのである。こうして、

又た娑婆世界の人は必ず極楽を願ふべし。有縁の国なるが故也。されば、我も口には弥陀の名号を唱へ、一心に真如の理を思へば、須臾の間に仏に成る。況んや弥陀宝号を唱れば、念念に、八十億劫の生死の罪を滅し、十念成就すれば、決定して極楽に生る。殊勝の功徳にかねて真如を観ぜむは、云ふ限りに非ず。(一四一~一四二頁)

と説くのである。『観経』の下下品を念頭に口称の念仏を十念成就すれば、八十億劫の罪を滅して決定して浄土に生まれるといい、真如を観ずればなおさらであるというのである。

 はじめに引用した法然の法語に「念仏を信ぜざる人々」が「くまがへの入道・つのとの三郎は無智のものなればこそ、余行をせさせず、念仏ばかりおば、法然房はすゝめたれ」といったというのは、このことをいっているのかもしれない。『真如観』は浄土に生まれる行法として真如観とともに口称の念仏を説いているが、明らかに真如観のほうをすぐれた行法としている。そこで法然は無智のものには念仏を勧めるが、他にすぐれた行法があることを隠しているようにいうのである。いまの『真如観』を想定すれば、それは我即真如と観ずる行法になる。「念仏を信ぜざる人々」の発言は『真如観』を承けたものと思われる。ただここでは浄土をあくまで彼岸的に捉えている。本覚思想は「己心の弥陀」「唯心の浄土」を説くのが特徴であるから、いささか趣を異にしていると見られる。もっとも、

此土に有りながら極楽に生れりといへ共、真如の理を知らざれば、我身弥陀如来と其の体不二なりと知らざればかひなし。(一四二頁)

と、我身と阿弥陀仏はその体が不二であると説いているから、『真如観』も本覚思想の線上にあると見なければならないであろう。

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本覚法門雑記(13)

2016年11月27日 | 法本房行空上人試考

 さらに『真如観』は、

万(よろづ)の蟻けら如き皆真如なれば、(一三三頁))
蟻けら如きの一切の有情も、皆真如なれば、(一三五頁)

とも説いている。そして、

有情類の真如のみに非ず、非情、草木等にも、真如なれば、(一三四頁)
一切の非情、草木・山河・大海・虚空、皆真如の外の物にあらず。此等皆真如なれば、皆真如は仏也。真如を実の仏とするが故也。(一二五頁)
草木・瓦礫・山河・大地・大海・虚空、皆是真如なれば、仏にあらざる物なし。虚空に向ては、虚空則仏也。大地に向ては、大地則仏也。東方に向ては、東方則仏也。南西北、四維上下、亦此れに同じ。(一三四頁)

とも説いているのである。また、

地獄も真如也。餓鬼も真如也。畜生も真如也。真如を実相の仏と名くれば、十界本(もと)より仏なりと云ふ事明らか也。(一二九頁)

とも説いている。有情・非情、正報・依報、みな真如ならざるものはないというのである。すべてが真如であり、我即真如であると知れば、すなわち仏なのである。そして、

我則真如なりと知りぬれば、煩悩即菩提なり、生死即涅槃なれば、煩悩を断じ、生死を離れむと思ふ煩もなし。(一三九頁)
煩悩即菩提なりと思へば則ち菩提也。生死即涅槃と思へば則ち涅槃也。(一四○頁)

とも説いている。煩悩と菩提、生死と涅槃はもともと相反するものであって、煩悩を断じて菩提が実現し、生死を離れて涅槃を得るのであるが、それを「即」で結び、煩悩のままが菩提であり、生死のままが涅槃であるという、まさに現実肯定が天台本覚思想の特徴なのである。

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本覚法門雑記(12)

2016年11月26日 | 法本房行空上人試考

 すでに述べたように、最初に天台本覚思想に注意を喚起し、その研究の必要性を強く主張された島地大等氏は、はじめ「本覚門の信仰」と「始覚門の信仰」という言い方で古今南北の仏教を分けてみたらどうか、といわれていた。その「始覚門」とは「始めて覚る」であるから、多劫の修行を経て、始めて仏に成るというものである。それに対して「本覚門」とは「本より覚る」であるから、多劫の修行を経ずして、もとより仏であるということである。それをいいかえれば、本来仏であるということである。前の「本地無作の三身」がそれである。そしてまた衆生も本来仏であると説くのである。衆生が修行をして仏に成るのではなく、もとより仏であるというのである。それを『真如観』に見てみると、随所に示されている(1)。たとえば、

疾く仏に成らんと思ひ、必ず極楽に生んと思はゞ、我心即真如の理也と思べし。法界に遍ずる真如我体と思はゞ、即ち我法界にて、此外にことものと思べからず。悟れば十方法界の諸仏、一切の菩薩も、皆我が身の中に、まします。我身を離れて、外に、別の仏を求めむは、我身即真如なりと知ざる時の事也。真如と我と一つ物也と知ぬれば、釈迦・弥陀・薬師等の十方諸仏も、普賢・文殊・観音・弥勒等の諸の菩薩も、皆我身を、はなれ玉へる物にあらず。或は法花経等の八万法蔵十二部経、乃至仏菩薩、因位の万行、果地の万徳、凡そ自行化他の無辺の功徳、何物か我身の中に備ざらん。(一二○~一二一頁)

とある。疾く仏に成ろうと思い、阿弥陀仏の浄土に生まれようと思うならば、我が心即ち真如の理と思うべきであるというのである。この阿弥陀仏の浄土について説かれていることについては後述するが、我が身を離れて別の仏を求めようとするのは、我が身即ち真如と知らないときのことである。真如と我が一つと知れば、十方の諸仏も諸菩薩も我が身を離れたものではない。ただ真如を観ずればいいのである。それで、

故に而に真如を観ずれば、成り難き仏にだにも、とく成る。況や生じ易き極楽に生む事、決定して疑なし。されば必ず生ぜんと思はん者は、只だ真如を観ずべし。(一二一頁)

と説き、

哀き哉、我等無間地獄に堕せん事も、極楽世界に生ぜん事も、只だ此の度の心に任たりと。我等則真如なり。信ぜずは決定して地獄に堕ちなむ。深く信じて疑はずば極楽に生なむ。既に極楽に生じ、地獄にをちん事、真如を、信じ信ぜざらとの不同に、よるべし。(一二三頁)

と説き、地獄に堕ちるか極楽に生まれるかは我等則真如なりと信ずるか信じないかの不同によるというのである。法然の信疑決判を思わせるが、いまは本願への信疑ではなく、我即真如への信疑である。近似する表現として、

我等は、かゝる無量劫の苦行をもせず、六度をも修行せずして、只だ且くの間、我身の真如なりと思ふ計りの一念の心に依て、仏に成り、極楽に生ずる道を知る。返々世の中に有りがたき希有なる事也。(一二三頁)

とも説かれている。親鸞の信一念業成と類するようであるが、これはあくまで「我身の真如なりと思ふ計りの一念の心」であることに注意しなければならない。ともあれ、

今我等は骨もくだかず、命も捨ずして、只だ我真如なりと思ふ計りの事によりて、須臾に仏に成ると云ふ、安かる教を聞ながら、信用せずして、無間獄の底に沈みなん、過をまぬかむ。(一二八頁)

と説き、

又た法花経には真如実相の理を詮ずれば、須臾に、仏に成ると明すのみにあらず、又た一切衆生本(もと)より仏なりと説く。(一二九頁)

と説いているのである。

(1)『真如観』(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』、以下、頁数のみ示す。なお、読みやすさの便をはかって、送り仮名を付した箇所がある。

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本覚法門雑記(11)

2016年11月25日 | 法本房行空上人試考

 ところで、この『三十四箇事書』は本覚思想を研究するうえで重要な文献である。末木文美士氏は「本書は口伝法門としては比較的初期のものでありながら、内容的には成熟した本覚思想をあまり複雑化せずに原形のまま伝える趣があり、貴重な文献である(1)」といわれ、また田村芳朗氏も「天台本覚思想の主要なものは、ここに出そろったといえよう。これ以後に成立してくる文献は、すべて、それらを整理し、類型化し、体系化していったものといって過言ではない(2)」といわれている。この書の重要性が知られよう。著者については早くから皇覚の撰述と見られてきたが(3)、花田充道氏がそれを決定づけ、生没年を「おおよそ一○九六から一一七六年にかけての生存であると考えるべきであろう(4)」と推定されている。そうすると田村芳朗氏はこの書を第三次的形態(鎌倉初期一二○○─鎌倉中期一二五○)のなかに入れられているが、もっと早い時期に設定しなければならない。仮に皇覚の没年に撰述されたとしても、法然は四十四歳であるから、充分に読んでいた可能性がある。その弟子である行空ならなおさらであろう。前に触れたように『真如観』は法然と接点があったことは文献上で確かめられるが、この書も法然や行空との関係が考えられる。そこでとくに『真如観』と『三十四箇事書』を通して天台本覚思想の特色を見ておきたいのである。

(1)末木文美士氏『日本仏教思想史論考』「中世天台と本覚思想」(大蔵出版、一九九三年)三二六頁。
(2)田村芳朗氏「天台本覚思想概説」(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』解説・五三一頁)
(3)ただし田村芳朗氏「天台本覚思想概説」(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』解説・五三一頁)、同氏『鎌倉新仏教思想の研究』(平楽寺書店、一九六五年)四一二~四一三頁には疑問を呈されている。
(4)花野充道氏『天台本覚思想と日蓮教学』(山喜房仏書林、二○一○年)五九四頁。

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本覚法門雑記(10)

2016年11月24日 | 法本房行空上人試考

        八

 天台本覚思想の特色の二、三を挙げれば、まず一切衆生は本来的に仏のさとりが備わっていていると説くところにある。『本覚讃』に「本来、三身の徳を具足し(1)」とあるごとくである。法・報・応の三身の徳性が本来的に心に備わっているというのである。『真如観』には「弥陀・薬師等の諸仏、遙に十万億の十方恒沙世界を過て尋ねざれども、我胸の間に、ましますと知ぬ。無数劫の修行を運ざれども、大日・釈迦等の妙覚究竟の如来、本より法然として、具足し玉へり」とか「本有三身万徳の仏、法然具足して」といわれている(2)。『三十四箇事書』には「本地無作三身の事」と題し、「無始本有として一切の諸法は皆三身の体なり。仏の作にあらず、修羅・天人の作にあらず。法爾自然にして、三身にあらざるなき故に(3)」といわれている。ここでは「一切の諸法」すなわち森羅万象までが三身の体であると説かれている。

(1)『本覚讃』(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』九八頁)
(2)『真如観』(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』一三九頁)
(3)『三十四箇事書』(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』一七三頁)

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本覚法門雑記(9)

2016年11月23日 | 法本房行空上人試考

 そしてそれらが相当量になったころ、集めて書物にまとめるようになった。口伝時代から文献化時代を迎えるのである。ただし文献化が開始されても、口伝法門は口伝法門として続行されていたのであり、文献にそれらをつけ加えることによって、数多くの文献が誕生することとなった。そのうえ書物には著者名が必要ということから、また権威づけも手伝って、最澄・円仁・円珍・良源・源信など過去のすぐれた祖師たちの名を借りて、著者名とするにいたった。そこで文献の一々について成立年代を考証することはきわめて困難な作業となっている。田村芳朗氏は「試みの段階を出ないものであり、また、他にも多くの関係文献があり、今後の検討が待たれるところである」と前置きして、次のように表にされている。
○第一次的形態(平安後期一一○○─平安末期一一五○)
 本理大綱集(伝最澄) 円多羅義集(伝円珍)
○第二次的形態(平安末期一一五○─鎌倉初期一二○○)
 牛頭法門要纂(伝最澄) 五部血脈(伝最澄)
 註本覚讃(伝良源) 本覚讃釈(伝源信)
○第三次的形態(鎌倉初期一二○○─鎌倉中期一二五○)
 真如観(伝源信) 三十四箇事書(枕雙紙、伝源信)
○第四次的形態(鎌倉中期一二五○─鎌倉末期一三○○)
 修禅寺決(伝最澄) 断証決定集(伝最澄) 三大章疏七面相承口決(伝最澄)
 漢光類聚(伝忠尋) 法華略義見聞(伝忠尋)
○第五次的形態(鎌倉末期一三○○─南北朝期一三五○)
 法華肝要略註秀句集(伝最澄) 法界心体論(伝最澄) 紅葉抄(伝最澄)
 河田谷十九通(信尋) 一帖抄(一三二九、心聡筆) 二帖抄(相伝法門見聞、一海筆)
 八帖抄(一海筆)
○第六次的形態(南北朝期一三五○─室町時代一四○○)
 蔵田抄(一三四七、豪海) 等海口伝抄(宗大事口伝抄 一三四九、等海) 
 八帖抄見聞(一三六七、直海) 七帖見聞(天台名目類聚鈔、一四○二、貞舜)
 二帖抄見聞(一五○一、尊舜) 三大部見聞(尊舜) 法華鷲林拾葉鈔(尊舜)
である(1)。

 これに異を唱えられるのが花野充道氏である。氏は、「田村氏が『第一次形態』というような言葉をもって整理されていることについても、賛同することができない。それは『形態』の変化進展ではなくて、単に文献の時代設定であるからである。『形態』という表現を使うならば、口伝→切紙→文献化というように整理すべきであり、また、素朴な形態→整理された形態→体系化された形態というように分別すべきであると思うからである」といわれ、田村芳朗氏の時代設定を掲げたのち、自身の時代設定を示されている。
○平安末期までの成立
 本理大綱集 円多羅義集 牛頭法門要纂 註本覚讃 本覚讃釈 観心略要集 真如観
 妙行心要集 自行念仏問答 三十四箇事書
○鎌倉初期ごろの成立
 修禅寺決 断証決定集 三大章疏七面相承口決
○鎌倉中期ごろの成立
 一帖抄 漢光類聚 法華略義見聞
○鎌倉末期ごろの成立
  河田谷十九通 二帖抄 八帖抄
である(2)。

  このなかで『真如観』はのちに述べるように『和語灯録』「一百四十箇条問答」にその名が見える(3)。また『漢光類聚』は田村芳朗氏も花野充道も鎌倉中期ごろの成立と見られているから、重松明久氏が行空の房号を法本房ということについて、『漢光類聚』に「三千法本有、而一念名法性常寂」というごとき意味の「法本」をとったものかと思うといわれているが(4)、行空以後に成立しているので、そのようなことはないといわねばならないであろう。

(1)田村芳朗氏「天台本覚思想概説」(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』解説・五四○~五四一頁)
(2)花野充道氏『天台本覚思想と日蓮教学』(山喜房仏書林、二○一○年)六○六~六○八頁。
(3)『和語灯録』巻五「一百四十五箇条問答」(『真宗聖教全書』四・五四六頁)
(4)重松明久氏『日本浄土教成立過程の研究』(平楽寺書店、一九六四年)四三九~四四○頁。

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本覚法門雑記(8)

2016年11月22日 | 法本房行空上人試考

            七

 この天台本覚思想は田村芳朗氏によれば「絶対的一元論」と呼ばれているが、内容については後述するとして、まず進展状況を概観しておこう。氏は次のようにいわれている。

平安後期(一二世紀)までは口伝あるいは切紙相承で伝えられ、平安後期から鎌倉時代(一三世紀)にかけて、それらを収集して文献化することが試みられ、鎌倉中期(一二五○)ごろ、文献化が一応ととのうと、四重興廃とか三重七箇の法門など、天台本覚思想の体系化に努力がはらわれるようになり、鎌倉末から南北・室町時代(一四─一五世紀)にかけては、本覚思想の集大成とともに、それにたいする注釈がなされていったといえよう。南北・室町期における文献の多くは、注釈書である。つまり、天台本覚思想は、口伝時代・文献化時代・体系化時代・注釈時代という段階をへて進展していったということである(1)。

そして氏はそれらを詳しく述べられていく。はじめに口伝という伝授法式である。

天台本覚思想は、究極・内奥の真理を解明したものということで、文章に公けにすることはできず、師から弟子へと以心伝心で口授するほかないと考えられた。ここから秘授口伝とか面授口決などということが強調され、重んじられるにいたった。(中略)天台本覚思想が強調した口伝・口決は、教相・経説によらず、師の内的体験を直接、弟子に伝えることを意味した。究極・内奥の真理は教相・経説をこえたところに、あるいは文底に秘められてあり、心を通してしかつかまれないという考えから、そのような口伝・口決が強調されるにいたったのである。そこには、本来の天台などの口伝の考えかたに、さらに一段つけ加わったものが感ぜられる。そのつけ加わったものとは、すなわち密教における口伝思想である。いいかえれば、本来の口伝の考えかたに密教の口伝思想がプラスされて、天台本覚思想の口伝法門がおきていったということである。そこで密教の口伝思想がプラスされた時期であるが、およそ勝範(九九六~一○七七)あたりではないかと想像される。というのは、勝範の師である皇慶(九七七~一○四九)は、台密事相の大成者であり、全山に影響を及ぼし、台密の諸派分流の源をなした人物であるが、かれは、みずから筆をとって著作することなく、口授・秘伝を重んじたといわれるのである。したがって、その師についた勝範あたりから、天台本覚思想が口伝の形でもっておこり、また伝えられていったと推定される。後世の文献に、しばしば「蓮実房の云く」とか、蓮実房口伝ということばが見えているところである。蓮実房とは、勝範の房号である(2)。

また切紙相承という伝授方法については、

小さな紙切れに、いわば真理のエキスを書き記して伝授する方法である。(中略)たとえば『枕雙紙』(版本)に貞治三年(一三六四)の叡憲の奥書が付されているが、その中で、「先師は、一紙一紙各別にこれを書く。都盧とこれを名づく。恵心の枕雙紙、随分の秘書なり」とのべている。なぜ切紙を都盧と称したかについては不明であるが、ともかく、この文章から、本来、口伝ないし切紙によって個々別々に伝えられていったことが知られる(3)。

といわれている。ただそれが秘授口伝ないし切紙伝授として伝えられたから、誰が誰に伝えたかは、ほとんど不明といわねばならないとされている。

(1)田村芳朗氏「天台本覚思想概説」(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』解説・四七九頁)
(2)田村芳朗氏「天台本覚思想概説」(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』解説・五一九~五二○頁)
(3)田村芳朗氏「天台本覚思想概説」(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』解説・五二○、五二二頁)、『枕雙紙』奥書(『同』四○八頁)

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本覚法門雑記(7)

2016年11月21日 | 法本房行空上人試考

           六

 島地大等氏はこの本覚法門の研究に生涯を捧げられたといってもいいであろう。最後に発表された論文は亡くなられる前年の大正十五年(一九二六)九月であった。「日本古天台研究の必要を論ず」と題されている。「日本古天台」というのは、日本天台を時代的に中古天台と近古天台とに分け、前者を安楽派以前、後者を安楽派以後に配されている(1)。田村芳朗氏の補足によれば、安楽派とは、妙立慈山(一六三七~一六九○)・霊空光謙(一六五二~一七三九)の二人が出て、四明天台復帰・安楽律唱道を試みたことをさすといわれている(2)。それ以前が中古天台、それ以後が近古天台ということである。その中古天台をここでは「日本古天台」といわれているのである。そしてその教義上の特色を表示するのに適当な語の一つとして「本覚思想」が用いられている。前の「本覚門の信仰」では「まだ適当な新しい語を見出しません」といわれていたが、晩年になると「本覚思想」という語が用いられているわけである。またほかにも「本門思想」「本覚法門」といった呼称も挙げられている。その研究の必要性を強調されているわけである。理由としては、第一に天台学そのものの研究から、第二に日本仏教そのものの立場から、第三に日本宗教史の立場から、第四に日本の倫理史・道徳史から、第五に日本中古の文化との交渉から、というように壮大なスケールで論じられている。それをまとめて、

仏教史的見地からは、形の上から顕密融合の思想、質の上からは本覚思想とも名けらるゝものであつて、天台教学史の立場からは、本門思想とも事本思想とも云ふべきであらう。その他それぞれの立場から、道徳絶待の思想、神祇本地の思想、芸術至上主義とも名けられよう。この題名は何うあらうと、それ等に一貫せるものは予の所謂具体的絶待論であり絶待肯定の思想であつて、専門的には本覚思想と称するものである。(中略)この本覚思想が所謂天台教学の中樞となり、天台学それ自体にありては、事本理末となり、理即成仏となり、還同有相となり、本門至高の主張ともなつて、特に日本特有の天台教義を宣明し、仏教々学史に在りては日本特有本覚思想を開顕し、乃至宗教に道徳に芸術に、各方面に同工異曲の種々相を展開すべき根本思想であり、この根本の思想を究明することが日本古天台を検討する所以の眼目であつて、将来純粋日本思想史の成立せる場合にはその中心課題となるべきものである(3)。

といわれている。天台学のみならず、仏教、宗教、道徳、芸術に一貫する根本思想であるから、これを研究する必要があるということである。そして最後に、

予はこの日本哲学成立の可能を想定せんがため、試に仏教哲学時代に於ける思想上のクライマツクスを古天台の本覚思想に設定せんと提唱したるものである(4)。

といわれている。本覚法門を思想上のクライマックスとされるのである。それは氏の言葉では「具体的絶待論であり絶待肯定の思想」である。

(1)島地大等氏『教理と史論』「日本古天台研究の必要を論ず」(明治書院、一九三一年)一二○頁。
(2)田村芳朗氏「天台本覚思想概説」(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』解説・四七八頁)
(3)島地大等氏『教理と史論』「日本古天台研究の必要を論ず」(明治書院、一九三一年)一三五頁。

(4)島地大等氏『教理と史論』「日本古天台研究の必要を論ず」(明治書院、一九三一年)一三八頁。

 

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本覚法門雑記(6)

2016年11月20日 | 法本房行空上人試考

つづいて「本覚門の信仰」を説明して、

本覚の語は読んで語の如く「本より覚る」と云ふのでありまして、(他力門から云へばさながら救はるゝの意、下また同じ)始覚門の様に理想を現実からかけ離して遙に向ふに認め、之に奮進邁往すると云ふ態度に立つのではなくて、その反対に理想を前の方に置かずに、理想を後に背負ふとでも云ふべき態度にある信仰であります。少し六ヶ敷なりますが、結局現実を理想直下の内容と見るので、これから多劫の訓錬・修養を経たる後、始めて解決すべきものとするのでなく、既に永遠の過去に解決されたものと為し、この既解決の理想から無限に現実を生み出すと云ふ信仰であります。つまり始覚門では、理想は事実としては永久の未来に在りて解決せらるべく、現在の立場では未解決のものでなくてはならぬ訳が、本覚門では、理想は久遠の古に在りて解決せられたもの既解決のもの、現実はこの理想から今日已後に無限に顕れて来るもの故、寧ろ未解決に属すべきものと云ふ訳になるのであります。(中略)普通で云へば、少くとも理想は時間的に未来に属するものであり、同時に事実化するまでには余裕のあるえきものと解されて居るのが、本覚門では理想は時間的に寧ろ過去に属し事実以上の大事実であるのであります。理想がさうなつて来るから現実と云ふ語の意味も従つて変つて来る。始覚門では不完全なるもの、軈て捨つべきもの、断ずべきものであるのが、本覚門では完全なもの、取るべきもの、離るべからざるものとなるのであります。(中略)さてこの本覚門の信仰を「従果向因門の信仰」と云ふのであります。日本天台や日蓮宗の語を藉れば「本門の信仰」(中略)何故「従果向因」と云ふかと申しますと、従果向因或は真言宗の「従本垂末」とも申しますが、「果より因に降る」、「本より末を垂る」、何れにしてもこれから多劫の修養を経て後、絶待地に入るのではない。絶待地の証悟は既決の問題、本覚即ち「本より覚れるもの」は、即ち「本来の覚者即仏陀である」と云ふのである、久遠から是仏であり即仏である。(始覚門では成仏である)。何を苦しんでか、これから修行し訓錬して証ると云ふ様な造作が入るものかと云ふ立脚に在るので、既に仏である点が果或は本、故にこの自覚を起点として、爾後の全生活はその絶待の活現となる。これが向因又は垂末と云はるゝものである。要するに始覚門の信仰とは現実の地上から訓錬の羽翼を張り扶搖を搏ちて、理想の星界に遊ばうと云ふ態度、本覚門の信仰は理想の星界に先づ在つて、不思議の彩雲に駕して四天下に遊行すると云つた態度、と喩へへて見ても善からうかと思ふのであります(1)。

といわれている。要約していえば、始覚門の信仰とは始めて覚るであるから、現実から遠く離れた理想に向かって努力精進し、多劫を経て、ようやく理想に到達しようとするものであり、本覚門の信仰とは本より覚るであるから、理想を遠くに見るのではなく、現実のなかに理想を実現するものであるといえよう。

 そして「次に之を現存仏教の上に適用して見たいと思ふのであります」といい、

南方仏教は勿論始覚門の信仰に分属せらるべきもので、支那仏教中一部の禅を除きては、余は全部実際上始覚門に属するものと考へらるゝのであります。たゞ達磨系の禅法だけが支那に在つて最も本覚門の信仰に近いかと思ふのであります。転じて日本に置きましては外国仏教の移植に過ぎざる寧楽の六宗は何れも始覚門に属する事は勿論であり、平安朝初期の天台や真言と雖も矢張始覚門に近いのであつたが、その晩期の所謂日本天台、高野の真言に至つて始めて本覚門に属すべきものとなり、下つて鎌倉時代の親鸞聖人の真宗・日蓮上人の日蓮宗が真に本覚門の信仰を鼓吹されたものと思ふのであります。支那唯一の本覚門とも云ふべき宋禅の移植にして、日本民族と同化したる曹洞禅・臨済禅の如きも、亦同系に属するものと考へらるゝのであります(2)。

といわれている。

(1)島地大等氏『思想と信仰』「本覚門の信仰」(明治書院、一九二八年)五三四~五三六頁。
(2)島地大等氏『思想と信仰』「本覚門の信仰」(明治書院、一九二八年)五四○頁。

 

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本覚法門雑記(5)

2016年11月19日 | 法本房行空上人試考

            五

 田村芳朗氏の言葉を借りれば、「最初に天台本覚思想にたいして注意を喚起し、みずから、その研究に着手したのは、島地大等(一八七五~一九二七)である(1)」。島地大等氏は明治三十九年(一九○六)九月に「本覚門の信仰」という題で講演をされた。そのなかで次のようにいわれている。

まだ適当な新しい語を見出しませんから、日本の先徳の用ひられました語を拝借して申しますと、印度と云はず支那と云はず、日本と云はず南方仏教と云はず、惣じて古今・南北仏教的信仰の実際地を惣観して、之を本覚門の信仰と始覚門の信仰と、かう二つに分けてみたらどうかと思ふのであります。(予めお断り致して置きますが、私の本覚・始覚は普通『起信論』あたりで用ひてをるそれとは、聊か意を異にして居るのであります。追々とその理由を説明致しますが、此の点は予め御承知をば願ひたいのであります。)この二箇の信仰はどう云ふ点から区別されるかと申しますと、仮に真言・天台・日蓮等の諸宗碩学の術語を拝借して申しますと、本覚門の信仰と申すのは「従果降因の信仰」であり、始覚門は「従因向果の信仰」となるのであります(2)。

ここでは「まだ適当な新しい語を見出しません」として、日本の先徳の語を拝借して「本覚門の信仰」と「始覚門の信仰」と呼ばれている。その内実については前者を「従果降因の信仰」、後者を「従因向果の信仰」とされている。それによって古今南北の仏教を分けてみたらどうかというのである。そしてまず「始覚門の信仰」を説明して、

始覚の語は読んで字の如く「始めて覚る」、即ち絶待の理想を現実から全く隔つた遙遠の天に認めて、その理想に向つて現実を出立して奮進健闘し、修養を勧め、多劫の訓錬を経たる後、漸く絶待理想地に到着すると云ふので、覚ると云ふこと(他力門では救と云ふことゝ解する、後文みな同じ)が多劫訓錬を経たる後、始めて得べき事実であつて、この事実が修養期に立てる者の立場では、未解決の状態にあるから始覚と云ふのであります。(中略)これを「従因向果門の信仰」とも云ふ。日本の天台や日蓮宗の語を以て云へば「迹門の信仰」とも云ふので、「従因向果」は読んで語の如く、因より果に向ふと云ふのであります。現実から歩一歩理想に向ふ道程が全部因であつて、理想を全体としての完全なる果、それに至る長程万里の道程が部分としての完全なる果であります。即ち、不完全状態の現実我を自覚して歩一歩理想に向つて進むを従因向果と云ふので、始覚門の信仰は何れもこの形式に属するものであります(3)。

といわれている。

(1)田村芳朗氏「天台本覚思想概説」(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』解説・四七七頁)
(2)島地大等氏『思想と信仰』「本覚門の信仰」(明治書院、一九二八年)五三二~五三三頁。
(3)島地大等氏『思想と信仰』「本覚門の信仰」(明治書院、一九二八年)五三三~五三四頁。

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本覚法門雑記(4)

2016年11月18日 | 法本房行空上人試考

            四

 この『大乗起信論』の「本覚」と「始覚」という用語を淵源として、日本の中古天台宗では、本覚門の仏教と始覚門の仏教とに分かれ、特異な発展をした。伝説によれば、最澄(七六七~八二二)が入唐して、道邃から本覚法門を伝えられ、行満から始覚法門を伝えられ、みずからは両法門を合わせて持した。帰朝後、これを円仁(七九四~八六四)に伝え、以後、良源(九一二~九八五)まではそのまま伝わったが、その弟子に慧心院源信(九四二~一○一七)と檀那院覚運(一○○七寂)が出て、源信には本覚法門を、覚運には始覚法門を伝え、以来、慧心院流と檀那院流とが系統を分かち、この慧檀二流がそれぞれ四流を分出して、合わせて八流になったという。ただし最澄が道邃・行満から別の法門を伝えられたかどうかは史実として明確でなく、中古天台に至り、とくに慧心流における伝説とされる(1)。島地大等氏は最澄が道邃・行満から別の法門を授けられたというのは、おそらく忠尋(一○六五~一一三八)がはじめていったとして、その著である『漢光類聚』巻四の次のような文を引用されている(2)。その一部を挙げれば、

山家の大師、唐朝において二箇の宗義を相伝したまふ。一には宗教、二には宗旨なり。宗教は顕説法華を所依となし、宗旨は根本法華を所依となす。また、宗教は経に依つて宗を立て、宗旨は心に依つて宗を立つるなり。(中略)山家、この一紙の血脈を、大経蔵の前において慈覚大師に授く。横川の大師、本朝五代の流れを受けて、この血脈を源信に授く。三千の門徒の中にこの血脈を得たる人は、源信和尚のみなり。檀那院の相承には、ただ宗教の分を伝ふるが故に、天台一宗の法門を依経立宗と意得たり。恵心流の相承には、宗教は経に依つて立て、宗旨は心に依つて宗を立つるなり(3)。

といっている。ここにいう「宗教」とは文言による教学の理論のことであって教相であり、「宗旨」とはそれを超えたさとりの内容を扱うことであって観心である。最澄はその二個の宗義を相伝したというのである。巻一にも「山家の大師、道邃・行満の二師に値ひて、天台一家の法門を伝へ給へり」とあり、また巻四の「血脈相承次第」には文章で忠尋に至る系譜を記している(4)。それによれば忠尋は、良源─源信─覚超─勝範─長豪─忠尋と次第しているから、恵心流の本覚法門の人である。それで「邃和尚を正伝となす」というのであろう。道邃は最澄に本覚法門を授け、そののち源信から忠尋に至っているからである。恵心流の本覚法門を「正伝」と見ているのである。もっとも忠尋は本覚法門・始覚法門という語を用いていないが、「檀那院の相承には」「恵心流の相承には」と相対させているから、恵心流の優越性を示し、そこに言はなくとも本覚法門を正嫡としているのである。しかしこれは忠尋が判じていることで、檀那流にもそののち多くの学匠が出ている(5)。ただ恵檀両流のうち、後世にいたって発展したのはやはり恵心流であった(6)。

(1)宇井伯寿氏『仏教汎論』(岩波書店、上巻・一九四七年、下巻・一九四八年、合本・一九六二年)八六三頁、その他参照。
(2)島地大等氏『天台教学史』(明治書院、一九二九年、のち『現代仏教名著全集』九、隆文館、一九六四年)四四一頁。
(3)『漢光類聚』巻四(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』二七九~二八○頁)
(4)『漢光類聚』巻一、巻四(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』一九一、二八四~二八五頁)
(5)宇井伯寿氏『仏教汎論』(岩波書店、上巻・一九四七年、下巻・一九四八年、合本・一九六二年)八六六頁。
(6)島地大等氏『天台教学史』(明治書院、一九二九年)、のち『現代仏教名著全集』九、隆文館、一九六四年)四三○頁。

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本覚法門雑記(3)

2016年11月17日 | 法本房行空上人試考

            三

 本覚法門というのは「本覚」の語が関係文献に盛んに用いられているからそのように呼ぶのである。その「本覚」という語は、田村芳朗氏によれば、「経典としては、北涼失訳の金剛三昧経と不空訳(七六五)の仁王般若経、論書としては、真諦訳(五五四)の『大乗起信論』があげられる」といい、それぞれの成立を問題にして考察したのち、「本覚の語の現われるのは、『大乗起信論』が最初ということになり」といわれている(1)。すなわち「本覚」の語は『大乗起信論』に端を発するのである。そこでまず『大乗起信論』を見てみることにしよう。

言ふ所の覚の義とは、心体の離念なるを謂ふ。離念の相は虚空界に等しくして、遍ぜざる所無ければ、法界一相なり。即ち是れ如来の平等法身なり。此の法身に依りて説きて本覚と名づく。何を以ての故に。本覚の義は始覚の義に対して説き、始覚は即ち本覚に同ずるを以てなり(2)。

といわれている。これは『大乗起信論』の解釈分を顕示正義・対治邪執・分別発趣道相の三章に分かつなかの第一・顕示正義において、「一心法」すなわち衆生心であり、われわれの経験の全体をいうが、それを心真如門・心生滅門の二面に分ける。そして心生滅門に覚と不覚の二義があり、覚の義を解説したのがいまの文である。ゆえに「言ふ所の覚の義とは」というのである。その「覚」とはさとりの智慧のことであり、本来の在り方では「心体の離念」なるをいうのである。「心体」とは如来蔵・自性清浄心であり、「離念」は妄念を離れることで、心が見るものと見られるものとに分裂しない。そこでさとりの智慧が心の全体に行きわたり、妨げるものはないから、「虚空界」にたとえられ、智慧の一色になるので「法界一相」といわれる。また「如来の平等法身」とは理智不二の智を「法身」といったもので、如来の智慧のことであり、それは煩悩に覆われた如来蔵の位でも、煩悩を離脱した如来の法身でも変わりがないので、「平等法身」といったのである。こうして法身は心に本来固有のものであるから、「本覚」と名づけるというのである。どうしてかといえば、「始覚」という事実があるからである。ここで『大乗起信論』は「本覚」を「始覚」に対して用いていることに注意すべきである。平川 彰氏は「凡夫が仏教の修行を実践をして止まなければ、ある日突然悟りの智慧が完成するという事実がある。この時から凡夫の位を離れて聖者の位に入る。この悟りの智慧はそれまで現われなかったものであるから『始覚』と呼ばれざるを得ない。そのために、この始覚に対して法身を本覚と呼ぶことになるのである。しかしこの始覚もついには本覚に帰入するものである。聖者の段階は、初地から修行が進むにしたがって始覚の覚の作用が次第に力を強め、完全になってゆく。そして十地に至って覚行が窮満し、覚そのものになりきる。その時、始覚は本覚に合体するのである。故に聖者の修行の始めより終りまでを始覚と呼ぶことになる。このような覚は、凡夫においては不覚であるが、聖者の段階に至り始覚となっても、それはまだ煩悩と共存している。そして次第に煩悩を断じて覚の独存となった時、始覚は本覚と同ずるのである。(中略)両者は本性は同じであるが、在り方が異なっているので、名が分れるのである(3)」といわれている。要するに『大乗起信論』では本覚を始覚に対して呼ぶが、在り方が異なっているだけで、本性は同じである。原意は「本来の覚性」という意味であったといわれている(4)。あるいは「法身の衆生内在論、すなわち如来蔵や仏性とほとんど同義である」ともいわれている(5)。

(1)田村芳朗氏「天台本覚思想概説」(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』四八三~四八四頁)
(2)『大乗起信論』(『大正新脩大蔵経』三二・五七六頁中)
(3)平川 彰氏『仏典講座二二 大乗起信論』(大蔵出版、一九七三年)一○四頁。
(4)田村芳朗氏「天台本覚思想概説」(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』四八四頁)

(5)花野充道氏『天台本覚思想と日蓮教学』(山喜房、二○一○年)六二三頁。

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本覚法門雑記(2)

2016年11月16日 | 法本房行空上人試考

            二

 本覚法門は本覚思想と呼ばれることが多いかもしれない。それをいま本覚法門と呼ぶのは、袴谷憲昭氏が『本覚思想批判』という書を著し、批判するところの本覚思想と区別するためである。氏は序論の冒頭に「本書は、突き詰めて言えば、たった一つのこと、即ち『本覚思想は仏教ではない』ということを主張せんがために上梓されるものである(1)」といわれている。氏は、「それをまた言葉を換えて言うならば、本覚思想とは、自国の土着的伝統の場を自己肯定的に温存する「場所の哲学」だとも言えるのであるが、では、この本覚思想の真向から対立する仏教となにかといえば、むしろその当然の帰結かもしれないが、正しい仏教とは、まず土着の思想や宗教を否定する外来の思想であり、次に、その土着温存の「場所の哲学」を否定する「批判の哲学」でなければならないのである」といわれている。その正しい仏教からかえりみて、本覚思想を仏教ではないとするのである。そしてさらにその本覚思想について、

「本覚思想」の定義も、個々の学者によってそのニュアンスが異なることは充分に予想されるのであるが、少なくとも、私が「本覚思想」と言う場合は、本質的に言って、一切の法の根底に、一なる「体」や「真如」としての「本覚」を捉え、そのうちに一切合財を包含するという構造を示していれば、同一の「本覚思想」と見做しているのであって、その際は一応程度の差は無視すべきあるとさえ思っているのである。

といい、その本覚思想の規定を論理的に敷衍して以下の三点に押さえられている。

(一)すべてを包含する「一なる本覚」とは、無条件に前提とされるものであるゆえに、動物以来の太古より人間が己れの「場所(トポス)」としてそこにうまれそこに死んでいった固有の土着思想と無意識のうちに合体してしまったものを指す。(中略)仏教は、この空間的に不変なる一なる「場所」を否定して時間的な「縁起」のみが真実だと主張したにほかならない。この仏教が外来宗教として中国に伝わった時、それを換骨奪胎し、中国古来の老荘的土着思想を「場所」として急浮上した本覚思想は、当然のことながら仏教的な特質を微塵も示さず、仏教の「縁起」や「因果」を骨抜きにして、老荘由来の「自然」を温存し続けてきたのである。
(二)土着思想を何らかの論証を経ることなく自己肯定的に前提としてしまう本覚思想は、単に己れの伝統の永さを誇るだけの権威主義にしかすぎないが、「場所」を否定して「縁起」を主張する仏教は、当然「無我」説を表明し、権威主義を否定することによって自己否定的に利他に向って言葉を大切に選ぶようになる。逆に、自己肯定的な本覚思想では、理論上、利他が成り立つことはありえず、「一仏成道、観見法界、草木国土、悉皆成仏、有情非情、皆倶成仏道」などという名文句も単なるまやかしにすぎないのである。
(三)「一なる本覚」の離念の世界に踏ん反りかえって得意になり、そこで体得された「真如」は言葉によっては表現できないとする本覚思想は、「信仰」や「知性」を全く軽視して言葉を無視するが、仏教は、釈尊の「知性」によって考え抜かれた「縁起」の教えが始めて説かれたことに由来するのであり、(中略)仏教は、「信仰」と「知性」によって「縁起」を考えていく知性主義にほかならないが、本覚思想は、それとは全く逆に、無為自然を尚ぶ、「得意妄言」の悟りの体験主義であるにすぎない。

とされている(2)。いま、このような氏の規定について検討してみる余裕をもたない。ただ注目したいのは、つづいて述べられる次の文章である。すなわち、

更に、私が「本覚思想」を規定する際に、他の学者と最も大きく異なる点は、その用語に「天台」という概念語を決して付さないということにあるといえる。通常一般に、この思想が「天台本覚思想」とか「天台本覚法門」とかと呼ばれたりするのは、この思想が、我が国の比叡山を中心に確立された天台教学をベースにして我が国独特に成熟したものとの矜持を込めた上でのことと思われるのであるが、私のように、「本覚思想」は既に『大乗起信論』において充分に確立されていたと、本質的な構造から押える場合には、「天台」などという限定語を付す必要は全くないのである。(中略)「天台」という限定語を外すことによって、「本覚思想」が我が国独特のものだとの錯覚は差し当って排除することができるのではないかと思う。

といわれている。『大乗起信論』については後に述べるが、氏が他の学者と違い、「天台」という限定語を外すのは、天台の思想との混乱を避け、本覚思想を日本独特のものではないことを明確にするためであるというのである。しかし、それは氏の考えであって、私が行空の寂光土義を考える場合、日本の平安時代院政期から発達してくる、いわゆる中古天台の本覚法門の思想が問題なのである。行空の寂光土義がそれと関係をもっているのかどうかである。良心や妙瑞の釈はそれと混同しているように思われるが、はたして当否はどうであろうか。そのことを確かめるのが目的であるから、袴谷憲昭氏がいわれる「本覚思想」と区別して「本覚法門」という呼称を用いているのである(3)。

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