天上の月影

勅命のほかに領解なし

寂光土の往生(9)

2016年08月31日 | 法本房行空上人試考
       九

 この五障説と三従説はもともと別々に説かれていた。五障説を説くところに三従説はなく、三従説を説くところに五障説はない。いままで引用した文献を見ればわかるであろう。それがのちには「五障三従」と対句で呼ばれるようになる。たとえば、はるか後世になるが、蓮如の『御文章』五帖目第七通に、

それ、女人の身は、五障・三従とて男にまさりてかかるふかき罪のあるなり。このゆゑに一切の女人をば、十方にまします諸仏も、わがちからにては女人をばほとけになしたまふことさらになし(1)。

とある。こうした五障と三従を一つにするのは、おそらく中国撰述の偽経とされる『超日明三昧経』によるものであろう。そこには、

女に三事の隔と五事の礙有り。何をか三と謂ふ。少は父母に制し、出嫁しては夫に制し、自由を得ず。長大にして子に難ず。是れを三と謂ふ。何をか五礙と謂ふ。一に曰く、女人は帝釈と作ることを得ず。(中略)二に曰く、梵天と作ることを得ず。(中略)三に曰く、魔天と作ることを得ず。(中略)四に曰く、転輪聖王と作ることを得ず。(中略)五に曰く、女人は仏と作ることを得ず(2)。

とある。この「三事」が三従であり、「五礙」が五障であることはいうまでもない。ここに五障と三従が一つに説かれており、「五障三従」という対句が生まれたのであろう。

ところで先ほどの『御文章』には五障三従を「かかるふかき罪」といわれている。杉思朗氏は、「五障は未来に善果を得られないことから、其(その)罪の深いことを示し、三従は現在の生活状態が不自由で、思ふまゝに道を修むることができない境遇を示したものです」といい、「之を以て女人の罪障の深きことを示」したものといわれている(3)。しかし前に述べたように五障説を示すものとして一番有名なのは『法華経』であるが、サンスクリット原典では、

婦女子は今日に至るまで五種の地位を得たことはない。五つとは何であるか。第一はブラフマンの地位、第二はインドラの地位、第三は四大王の地位、第四は転輪聖王の地位、そして第五はひるむことのない求法者の地位である(4)。

とある。異訳の竺法護による『正法華経』では、
女人の身を以ては未だ五位に階(のぼ)らず。一に曰く天帝、二に曰く梵天、三に曰く天魔、四に曰く転輪聖王、五に曰く大士なり(5)。

となっていて、原典にほぼ忠実に訳している。ただ原典にはない「女人の身」という「身」の語を付しているのは、仏教で性別が問題になるとき必ず身体に言及するからであり、インドの読者にはいう必要がないが、異文化で育った中国人の読者に正確を期すため、念を押したのである。そして原典では「五種の地位」、竺法護訳では「五位」といっている。五種の地位につくことができないというのである。最後の第五が仏ではなく、「求道者」「大士」となっているのが注意されるが、それは菩薩のことで仏道修行に励む者であるから、その地位につけないというのは究極的に仏になれないのと同じになるであろう。問題はその「五種の地位」を鳩摩羅什訳の『法華経』では「五障」と訳していることである。鳩摩羅什自身は五種の地位につけないという意味で訳したのであろうが、中国語で「障」は「さえぎるもの」「近づくのを拒むもの」という意味で使われている。そうすると、もともと女性の身体では五種の地位につけないというだけであったのが、とくに仏に成ることを妨げる要因という意味に理解することも可能である。実際、先の蓮如や後述する法然など日本ではそのように受け取り、鳩摩羅什の「障」を「さわり」として女性の心に内在していると見たのである。そして三従と組み合わせて「罪」としたのである。それは鳩摩羅什の意図したところと異なっている。小林信彦氏はその「障」理解を日本人の「読み間違い」といわれている(6)。


(1)『御文章』五帖目第七通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』一一九四頁。そのほか一帖目第七通、一帖目第十通、二帖目第十通、二帖目第十五通、三帖目第五通、三帖目第七通、五帖目第八通、五帖目第十五通(『同』一○九三頁、一○九八頁、一一二四頁、一一三二頁、一一四二頁、一一四六頁、一一九五頁、一二○二頁)などにも見られる。
(2)『超日明三昧経』巻下(『大正新脩大蔵経』一五・五四一頁中)
(3)杉思朗氏『御文章講話』「御文章要義講話」(永田文昌堂、一九八八年重版)一一八~一一九頁。
(4)『妙法蓮華経』巻第五「提婆達多品」(岩波文庫本・中巻、二二三頁)
(5)『正法華経』巻第六「七宝塔品」(『大正新脩大蔵経』九・一○六頁上)
(6)小林信彦氏「日本文献に見られる『五障三従』─異文化の文献を読み違えて作った対句─」(『国際文化論集』二二、二○○○年)
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寂光土の往生(8)

2016年08月30日 | 法本房行空上人試考
          八

 そしてもう一つ取り上げねばならないのは三従説である。たとえば『玉耶女経』には、

仏、玉耶に告げたまはく。女人の法は三鄣十悪有り。(中略)玉耶、仏に白して、何等をか三鄣十悪と。仏、玉耶に告げたまはく。一は小時に父母の所鄣、二は出嫁して夫主の所鄣、三は老時に兒子の所鄣なり。是れを三鄣と為す(1)。

とあり、『賢愚経』には、

舍利弗言く。婦人の法は一切時中に常に自在ならず。少小は則ち父母の護、壮時は則ち其の夫の護、老時は則ち子の護なり(2)。

とあり、『華厳経』には、

処女は家に居て父母に隨ひ笄年にして事に適ふ。又た夫に従ひ、夫亡きは子に従ふ(3)。

とあり、『大智度論』には、

又た一切の女身は繋属する所無く則ち悪名を受く。女人の礼は、幼にしては則ち父母に従ひ、少にしては則ち夫に従ひ、老にしては則ち子に従ふ(4)。

とある。要するに、幼いときは父母に従い、結婚しては夫に従い、年老いては子に従うということで、女性の全生涯はつねに男性に従属すべきであるというのである。

 香川孝雄氏は、この三従説が「漢訳経典に限られていることと、中国の『礼記』二や『孔子家語』六などの儒教の文献にあらわれているところから中国の儒教倫理が仏典に取り容れられた思想ではなかろうかと思われるが(5)」といわれている。このなか「『礼記』二」というのはどこを指示しているのかわからないが、その「郊特性第十一」に、

婦人は人に従ふ者なり、幼くしては父兄に従ひ、嫁しては夫に従ひ、夫死すれば子に従ふ(6)。

とある。また『孔子家語』は、

女子は男子の教に順ひて其の理を長ずる者なり。是の故に専制の義無くして三従の道有り。幼にしては父兄に従ひ、既に嫁しては夫に従ひ、夫死しては子に従ふ。再醮の端無きを言ふ(7)。

とある。こうした三従説が漢訳経論に限られるとすれば、儒教倫理が仏教に取り入れられた可能性はあるであろう。
ただ香川孝雄氏が「思われるが」といわれるは、古代インドの『マヌ法典』にも三従説が見られることをいおうとされているのである。それを発見したのは田辺繁子氏であった。すなわち、その第五章に、

一四八 婦人は幼にしてその父に、若き時はその夫に、夫死したる時は、その子息に従ふべし。婦人は決して独立を享受すべからず(8)。

とあるのである。これによって田辺繁子氏は『マヌ法典』の研究に入られ、また日本で広く知られるようになったのである。三従説は中国の儒教のみならず、古代インドの『マヌ法典』にも説かれていると。しかし小林信彦氏は、『マヌ法典』は「一方的に女を奴隷視する言説ではなく、『男の義務』を規定する条項と対になっている。インドの父親と夫と息子は、強い社会的静寂を受けて、娘と妻と母親を保護することを義務づけられている。そして、『夫と妻の義務』を規定する条項では、『死ぬまで互いに忠実であること』が義務づけられ、『離婚することのないように互いに最善を尽くすこと』と『相手に対する忠実が破れることのないよう最善を尽くすこと』が義務づけられている。女が父親と夫と息子に頼ることは、男の義務と対になって、幸せな家族生活を保障する要因として、肯定的に提示されているのである(9)」といわれている。それによって見れば、『孔子家語』も三従説の直前に「男子は天道に任じて万物を長ずる者なり。為す可きことを知り為す可からざるを知り、言ふ可きことを知り言ふ可からざるを知り、行ふ可きをを知り行ふ可からざるを知る者なり。是の故に其の倫を審らかにして其の別を明らかにす。之を知と謂ふ。匹夫の徳を致す所以なり」とあって、男性の徳と対になっている。『礼記』にも「男女別有りて、然る後に父子親しみ」等とある。男女の別が確立して夫婦相争わず和合すれば、それが基本となって父子、親子の仲も親和するというのである。したがって男女互いに和合する道を説くものではなかろうか。ただしそれでも、女性を男性に従うべきものとすることに変わりはないであろう。


(1)『仏説玉耶女経』(『大正新脩大蔵経』二・八六四頁上)
(2)『賢愚経』巻第四(『大正新脩大蔵経』四・三七四頁下)
(3)『大方広仏華厳経(四十華厳)』巻第二十八「普賢行願品」(『大正新脩大蔵経』一○・七九○頁中)
(4)『大智度論』巻第九十九(『大正新脩大蔵経』二五・七四八頁中)
(5)香川孝雄氏「法然上人の女人往生観」(『浄土宗学研究』八、一九七五年)
(6)『礼記』「郊特性第十一」(竹内照夫氏『新釈漢文大系二八 礼記 中巻』〈明治書院、一九七七年〉四一○頁)
(7)『孔子家語』巻第六「大命解」(宇野精一氏『新釈漢文大系五三 孔子家語』〈明治書院、一九九六年〉三三九頁)
(8)田辺繁子氏訳『マヌの法典』(岩波文庫、一九五三年)一六三頁。
(9)小林信彦氏「日本文献に見られる『五障三従』─異文化の文献を読み違えて作った対句─」(『国際文化論集』二二、二○○○年)

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寂光土の往生(7)

2016年08月29日 | 法本房行空上人試考
      七

 ところが後になると、釈尊が八敬法を条件に女性の出家を許したことによって正法の時代が減少する理由として、女人五障説が説かれるようになる。それは八敬法を関するすべての資料に示されるのではなく、『五分律』『中阿含経』『中本起経』にのみあらわれる。そこで前の世 燈(金 仁叔)氏は「女人五障説は後世の挿入である可能性が窺われる」といわれている。

 その『五分律』には次のように説かれている。

女人五礙有り。:天帝釈、魔天王、梵天王、転輪聖王、三界法王に作ることを得ず(1)。

『中阿含経』は次のようである。

阿難当に知るべし。女人は五事を行ずることを得ず。若し女人は如来・無所著・等正覚、及び転輪王、天帝釈、魔王、大梵天と作らんは、終に是の処無し(2)。

『中本起経』は次のようである。

阿難、女人は五処有つて作るを得ること能はず。何等をか五と為す。女人は如来・至真・等正覚と作ることを得ず。女人は転轉輪聖王と作ることを得ず。女人は第二利天帝釈と作ることを得ず。女人は第六魔天王と作ることを得ず。女人は第七天梵天王と作ることを得ず(3)。

このほか『増一阿含経』にも説かれており、次のようである。

夫れ女人の身に処りて、求作転輪聖王と作るを求めんことは終に獲ざる也。帝釈と作るを求めんことは亦た獲べからざる也。梵天王と作るを求めんことは亦は得べからざる也。魔王と作るを求めんことは亦た得べからざる也。如来と作るを求めんことは亦た得べからざる也(4)。

 これらを見ると、内容は同じであるが、順序が異なっている。女人五障説を説くものとして一番有名なのは『法華経』である。それによれば、

又た女人の身には猶ほ五障有り。一は梵天王と作ることを得ず。二は帝釈、:三は魔王、四は転輪聖王。五は仏身なり(5)。

とある。要するに、女性は梵天王、帝釈天、魔王、仏になれないというのである。このなか重要なのは最後の仏になれないという項目である。『法華経』はいまの文につづいて、「云何ぞ女身、速やかに成仏を得ん」と説かれ、またその前に「女身は垢穢にして是れ法器に非ず。云何ぞ能く無上菩提を得ん。仏道は懸曠にして、無量劫を経て、勤苦して行を積み、具さに諸度を修して、然して後、乃ち成ずるなり」とも説かれている。「速やかに」「無量劫を経て」等はさておき、「女身は垢穢にして是れ法器に非ず」と女性の救いを閉ざしているのである。実はこれを克服しようとするのが『法華経』なのであるが、それについては後述するであろう。ともかく、女性には五障があって、とくに仏になれないと示されてくるのである。源 淳子氏はそれを釈尊よりのちの『阿含経』がまとめられるころ、すなわち部派仏教の時代に変容したと見られているようで、「部派仏教の教理には、このように女人五障説が出されており、女性は仏になれないということは、『阿含経』以来の説であって、仏教界において公認されていたのである」といわれている(6)。女性に救いはないということの公認である。


(1)『五分律』巻第二十九(『大正新脩大蔵経』二二・一八六頁上)
(2)『中阿含経』巻第二十七(『大正新脩大蔵経』一・六○七頁中)
(3)『中本起経』巻下(『大正新脩大蔵経』四・一五九頁中)
(4)『増一阿含経』巻第三十八(『大正新脩大蔵経』二・七五七頁下)
(5)『妙法蓮華経』巻第五「提婆達多品」(『大正新脩大蔵経』九・三五頁下)
(6)源 淳子氏『鎌倉浄土教と女性』(永田文昌堂、一九八一年)二九~三○頁。
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寂光土の往生(6)

2016年08月28日 | 法本房行空上人試考
       六

 しかしそれは釈尊が女性を蔑視したということではない。さとりの境地に到達した比丘尼も多く出て、釈尊は彼女らを賞賛したと伝えられている。中村 元氏によれば、かなり時代を経過してから後にまとめられたといわれているが、『アングッタラ・ニカーヤ』には次のように説かれている。

わが女性の弟子にしてビクニーなる者どものうち、
出家して久しい者どものうちの最上者は、マハーパジャーパティー・ゴータミーである。
大いなる智慧ある者どものうちの最上者は、ケーマーである。
戒律をたもつ人々のうちで最上の者は、パターチャーラーである。
説法する者どものうちで最上の者は、ダンマディンナー
禅定に専念する人々のうちで最上の者は、ナンダーである。
努力する人々のうちで最上の者は、ソーナーである。
天眼ある人々のうちで最上の者は、サクラーである。
すみやかに神通力を示す者どものうちで最上の者は、バッダー・クンダラケーサーである。
前世のありさまを思い出す人々のうちで最上の者は、バッダー・カピラーニーである。
大いなる神通力を得た人々のうちで最上の者は、バッダー・カッチャーナーである。
粗衣をまとう人々のうちで最上の者は、キサー・ゴータミーである。
信によって理解を得た人々のうちで最上の者は、シガーラの母である(1)。

 このなかでダンマディンナーは、マガダ国の都ラージャガハ(王舍城)の、ある家庭の妻であったが、すでに釈尊に帰依していた夫・ヴィサーカの勧めもあって出家し、熱心に修行した結果、まもなく阿羅漢の位に達した。彼女は真理を体得したよろこびを家族や親類の人々にも分け与えたいと思い、ラージャガハの家に戻ると、ヴィサーカは釈尊の教えについて質問をはじめた。それを彼女はよどみなく一つ一つ明快に答えた。ヴィサーカは釈尊のもとへ行き、ダンマディンナーとの問答の一部始終を語ると、釈尊は、

ヴィサーカよ、ダンマディンナーは賢者である。ヴィサーカよ、ダンマディンナーは大智慧者である。もし、あなたが、それを問えば、私も彼女と同じように答えるであろう。

とダンマディンナーをほめたたえたといわれている(2)。

 またこのなかに名は見えないが、ウッパラヴァンナー(蓮華色尼)も神通第一と称せられた比丘尼である。皮膚の色が青蓮華の萼のようであったので、ウッパラ(青蓮華)ヴァンナー(色)と呼ばれたという。彼女と「大いなる智慧ある者どものうちの最上者は、ケーマーである」といわれたケーマーの二人は、比丘中でのサーリプッタ、モッガッラーナの双弟子にも比せられ、比丘尼の範とされたという(3)。

 またソーマーという比丘尼もおり、『サンユッタ・ニカーヤ』に次のような物語と詩が伝えられている。

一 サーヴァッティー市がゆかりの場所である。
そのときソーマー尼は、早朝に衣をつけ、鉢と衣とを手にとって、托鉢のためにサーヴァッティー市に入っていた。
二 サーヴァッティー市で托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林に入った。うす暗い密林をかきわけて入って、昼間の休息のために、ある樹木の根もとに坐した。
三 そのとき悪魔・悪しき者は、ソーマー尼に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想から離れさせようとして、ソーマー尼に近づいた。近づいてから、ソーマー尼に向かって、詩をもって語りかけた。
「達成しがたくて、仙人たちのみが体得しうる境地は、二本の指ほどの〔わずかな〕智慧しかない女人がそれを体得することはできない」と。
四 そこでソーマー尼はこのように考えた。「詩をとなえているこの者は、だれなのだろう? 人間なのであろうか?あるいは人間ならざる者なのであろうか?」と。
五 つづいてソーマー尼は、このように思った。「これは、悪魔・悪しき者が、わたしに、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想をやめさせようとして、詩をとなえているのだ」と。
六 そこでソーマー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に詩をもって語りかけた。
「心がよく安定し、智慧が現に生じているとき、正しく真理を観察する者にとって、女人であることが、どうして妨げとなるでしょうか。
『われは女であろうか?』『われは男であろうか?』また『われはなにものなのだろうか?』と、このように迷っている人こそ、悪魔が呼びかけるのにふさわしいのです。」
七 そこで悪魔・悪しき者は、「ソーマー尼はわたしのことを知っているのだ」と気づいて、うちしおれ、憂いに沈み、その場で消えうせた。

これについて中村 元氏は「この最後の詩に含まれている趣意は、男であるか、女であるか、社会的になにものであるか、というようなことは、解脱への道にとっては、なんら問題としてはならないということなのである。カースト制度や、後代の『変成男子』の思想と、真向から対立する」といわれている(4)。釈尊が比丘教団を優先したとしても、さとりへの道は女性に閉ざされていたわけではないのである。


(1)中村 元氏『中村元選集〔決定版〕第十三巻 仏弟子の生涯』(春秋社、一九九一年)五八七~五八八頁。
(2)菅沼 晃氏『ブッダとその弟子 89の物語』(法蔵館、一九九○年)一五八~一五九頁参照。
(3)水野弘元氏『釈尊の生涯』(春秋社、一九六○年)二三九頁。
(4)中村 元氏『中村元選集〔決定版〕第十三巻 仏弟子の生涯』(春秋社、一九九一年)四一九~四二一頁。
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寂光土の往生(5)

2016年08月27日 | 法本房行空上人試考
      五

 そして釈尊は、女性の出家を許すことによって、正法の時代が減少すると説かれたといわれる。ただそれがいつ説かれたかについては資料によって相違がある。マハーパジャパティー(ゴータミー)たちが八敬法のうち、「受戒して百歳になる比丘尼でも、本日受戒した比丘に敬意を払うこと」という条項に対して異議を申し立てたとき黙殺した理由として説かれたとも、あるいは彼女の出家を許したあとに嘆いた言葉であるとも、彼女が二度目に出家を懇請したとき許そうとしなかった理由として説かれたともいわれている。そこでは具体的に正法が減少する年数について示されていない場合もあるが、示す場合はすべて正法が千年つづくところ五百年減少すると説かれている。正法五百年説はここから来ているのである。それらの出拠は、先ほどの世 燈(金 仁叔)氏がすべて示されているので参照されたい(1)。そして氏は「正法減少説は全資料合致する記事である。この説には、仏陀が、比丘の梵行の欠如と、それによる正法の存続期間の減少に、繋念を示したことがよく現れている」といわれている。八敬法に関する資料のすべてに正法減少説が出ているということは、釈尊が、女性の出家によって男性の清らかな修行が妨げられ、正法の時代が減少することを繋念されたことがよく現われているというのであろう。さらに「仏陀の八敬法制定は、仏陀最大の過ちであった。八敬法制定によって仏陀の平等思想は完全なものでなくなるからである」とさえいわれている。水野弘元氏は「以上(=八敬法)は婦人と男子との差別待遇を示すものであるけれども、人間としての基本的能力の平等は認めた上で、当時の実際社会における婦人の地位態度に応じて定められたものであって、比丘教団をなるべく清浄平和なものとして維持したいという念願から、実成に即して右の如く規定されたものと思う(2)」といわれ、源 淳子氏は「(釈尊は女性が)出家して修行するのに適しているとは見なかったのであろう。だから、すぐにも許可しなかったし、許可するとしても、その困難さを考えて条件を出し、戒を多くすることによって解脱を求めて修行する道を開いていったということになる。八つの条件の内容も戒の数も、女性を低くみて与えたのではなくて、解脱を求めるために、女性に必要なものとして与えたということになる。男性にも同じく戒があることは、修行者の道が如何に厳しいものであるかを、仏陀自身が一番よく知っていたということに基づいている。故に、仏陀の女性観は男女平等論に立つことはいうまでもない(3)」といわれている。真っ向から反対する意見である。しかし水野弘元氏の「比丘教団をなるべく清浄平和なものとして維持したいという念願」というのは比丘教団を優位に見ていることではなかろうか。源 淳子氏も「仏陀の女性観は男女平等論に立つ」という前定にした論述のように思われる。やはり八敬法を素直に理解すれば、世 燈(金 仁叔)氏が「仏陀最大の過ち」といわれるのは極言であるとしても、釈尊が比丘教団を優先的に見ていたことは否定できないであろう。


(1)なお正法減少説は、叡尊の『興正菩薩御教誡聴聞集』「女人出家事」にも「阿難尊者、大愛道(=マハーパジャパティー)の出家を請ず。如来云く、『女人を度すは、五百年仏法を滅すべし』、之に依つて許さず」といわれている(『岩波日本思想体系一五 鎌倉旧仏教』二○三頁)。
(2)水野弘元氏『釈尊の生涯』(春秋社、一九六○年)二三八頁。
(3)源 淳子氏『鎌倉浄土教と女性』(永田文昌堂、一九八一年)二六頁。
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寂光土の往生(4)

2016年08月26日 | 法本房行空上人試考
      四

 仏教は基本的に全人類平等の立場に立つ。最古の経典といわれる『スッタニパータ』の有名な、

生れによって賤しい人になるのではない。生れによってバラモンになるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる(1)。

という言葉が端的に示していよう。釈尊は当時の厳しい階級制度を打破しようとしたのである。そこでは当然、男女平等論になる。

 ところが一方で女性は障りが多く罪が深いという女性観も説かれている。存覚の『如人往生聞書』にはそれを示す諸経論の八文を挙げ、解説を加えている。いくつか取り上げると、

『涅槃経』にいはく、「諸有三千界男子諸煩悩合集為一人女人之業障」。この文のこゝろは、あらゆる三千界の男子のもろもろの煩悩をあはせあつめて一人の女人の業障とすとなり。

とあり、

『阿含経』にいはく、「一見於女人永結三塗業、何況於一犯定堕無間獄」。この文のこゝろは、ひとたび女人をみればながく三途の業をむすぶ、いかにいはんやひとたびおかしぬるにおいては、さだめて無間獄におつとなり。

とあり、

『唯識論』にいはく、「女人地獄使永断仏種子、外面似菩薩内心如夜叉」。この文のこゝろは、女人は地獄のつかひなり、ながく仏の種子をたつ、ほかのおもては菩薩ににたり、うちのこゝろは夜叉のごとしとなり。

というのである(2)。こうした女性観はまさに男尊女卑論といわざるをえない。

 また比丘尼教団の成立事情にも問題がある。釈尊が成道後に故郷へ帰ったとき、釈迦族の多くの青年が出家したあと、釈尊の養母・マハーパジャパティー(ゴータミー)も出家することを望み、釈迦族の子女とともに釈尊のもとへ行って願い出たが、なかなか許されなかった。ようやくアーナンダのとりなしによって、かろうじて出家が許されたという。これによって比丘尼教団が成立したが、その条件として釈尊は比丘尼に八敬法を課したといわれている。それは諸経律に説かれているが、資料によって重複するものもあれば、資料独自のものもあり、それぞれ順序も異なる。そこで世 燈(金 仁叔)氏は十種の資料を用いて共通する七つの条項を要約し、次のように示される。

(一)受戒して百歳になる比丘尼でも、本日受戒した比丘に敬意を払うこと。
(二)半月ごとに比丘衆に教誡を受けること。
(三)僧残罪を犯せば、二部衆において、半月間摩那を行うこと。
(四)安居の最後の日に、二部衆において、自恣を行うこと。
(五)二部衆に従って具足戒を受けること。
(六)比丘のいない所では安居をしないこと。
(七)比丘に対する言路を閉ざす。

そして行事に関する条項である(二)(三)(四)(五)を一つにして、さらに要約し、

一、受戒して百歳になる比丘尼でも、本日受戒した比丘に敬意を払うこと。
一、全ての行事は比丘衆に従って行うこと。
一、比丘のいない所では安居をしないこと。
一、比丘に対する言路を閉ざす。

とされ、「少なくともこれらの3、4の条項は、最初から制定されたものであり、これが八敬法の原形であると推定される」といわれている(3)。すなわち原形が推定されるならば、比丘尼の比丘に対する尊敬法である八敬法の制定は歴史的事実である可能性が高いのである。


(1)中村 元氏訳『ブッダのことば』(岩波文庫、一九八四年)三五頁。
(2)『女人往生聞書』(『真宗聖教全書』三・一一○~一一二頁)。なお、その引用経論について滝口恭子氏「存覚『女人往生聞書』における所引経論の一考察」(『真宗学』一三一、二○一五年)がある。
(3)世 燈(金 仁叔)氏「八敬法の歴史性に関する考察」(『駒沢大学仏教学部論集』二四、一九九三年)
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寂光土の往生(3)

2016年08月25日 | 法本房行空上人試考
         三

 法然の選択本願念仏、専修念仏の教えは広汎な人々の帰依を受けた。それは「弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等を諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたま(1)」うた教えであり、「いまのときにおいて」「機と教と相応せる法門(2)」であったからである。その受容層について伊藤唯真氏はまず先学の研究をまとめられている。

(一)田村圓澄氏……旧教団・貴族から蔑視された農民・都市下層民などの庶民階層こそ中心的な受容層で、貴族・武士階級はむしろ弾圧者の側にあり、厭離穢土を前提とする専修念仏は商工業者には受容されなかった。
(二)井上光貞氏……法然と武士の関係は貴族よりはるかに密接であった。
(三)重松明久氏……貴族をふくみ直接生産から遊離した上層武士か隠遁武士、もしくは庶民な中でも尼入道のように生業から隠遁したものが帰依層である。
(四)赤松俊秀氏……この時代は社会の各層が関係しあっており、この意味では貴族と武士の動向だけを注意するのは不十分であり、田堵名主と商人層の動向も併せて重視すべきである。

 そして伊藤氏は、「専修念仏の受容層についてのこれらの諸見解は、広汎な帰依者の重要な側面を指摘するとともに、信者の多様性を示唆していて、それぞれに注目される」といわれるが、また「法然が大きな期待をかけたのは武士階層であった。法然が直接勧化し、その内容がはっきりしている教化対象は、特定の僧侶貴族を除けば武士階層である」「武士は専修念仏の積極的な受容層であり、法然の関心もこの階層に向けられていた」ともいわれている(3)。

 確かに『拾遺語灯録』には「津戸三郎へつかはす御返事」が三通収録され(4)、親鸞も『西方指南抄』の最後に「津戸三郎に答ふる書」を収録したあと、「つのとの三郎といふは、武蔵国の住人也。おほご・しのや・つのと、この三人は、聖人根本の弟子なり(5)」といっている。このなか「おほご」というのは上野国の大胡太郎実秀のことであり、『西方指南抄』に「実秀の妻に答ふる書」「実秀の妻に答ふる書」が収録されている(6)。「しのや」というのはよくわからないが、相模国の渋谷七郎道遍のことか武蔵国の塩谷入道信生のことであろう。かれらはみな御家人である。また熊谷次郎直実も忘れてはならない。『西方指南抄』に「熊谷入道へ遺す書」が収録され、『拾遺語灯録』にも「熊谷の入道へつかはす御返事」が二通収録されている(7)。そのうちの一通は「御自筆也」という註があり、京都清涼寺に所蔵されている法然の真蹟書状がそれである(8)。こうした武士たちに法然は懇切丁寧に教えを説いている。法然がとくに関心を向けたというのも無理はない。

 しかし法然の最大の庇護者であった九条兼実はじめ貴族や、いまいう武士たちはごく一部の人たちである。大半は一般民衆である。慈円は『愚管抄』に「又建永の年、法然房と云(いふ)上人ありき。まぢかく京中をすみかにして、念仏宗と号して、(中略)不可思議の愚癡無智の尼入道によろこばれて」等といっている(9)。「不可思議の愚癡無智の尼入道」にも受容されていたのである。むしろそのほうが多かったはずである。彼らを法然が一人で相手にできるはずはない。「濁世の富楼那」と称された唱導の名人である聖覚も及ばなかったであろう。そこで行空らの登場となるのである。むしろ行空らの活躍によって「不可思議の愚癡無智の尼入道によろこばれて」といわしめたのではなかろうか。聖覚は九条兼実の日記・『玉葉』や藤原定家の日記・『明月記』にその名が散見するが、行空は『三長記』に興福寺から訴えられているというだけで名が見える。おそらく行空は「愚癡無智の尼入道」を対象に教えを説いていたのであろう。そのなかでとくに「尼」という女性に焦点を合わせてみよう。


(1)『選択集』本願章(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』一二○九~一二一○頁)
(2)『西方指南抄』巻上本「法然聖人御説法事」(『真宗聖教全書』四・五七頁)
(3)伊藤唯真氏「初期浄土宗教団の社会的特質」(『歴史教育』一五─八、一九六七年、のち伊藤唯真・玉山成元両氏編『日本名僧論集第六巻 法然』〈吉川弘文館、一九八二年〉所収)。また同氏『浄土宗の成立と展開』(吉川弘文館、一九八一年)第三章第二節「念仏聖の活躍と社会的基盤」には法然滅後における専修念仏衆ないしその集団の支持基盤といった面から専修念仏の受容層を考察されている。
(4)『拾遺語灯録』巻中(『真宗聖教全書』四・七二九~七三六頁)
(5)『西方指南抄』巻下末「津戸三郎に答ふる書」(『真宗聖教全書』四・二六○頁)
(6)『西方指南抄』巻下末「実秀の妻に答ふる書」「実秀に答ふる書」(『真宗聖教全書』四・一八一~一九九頁)
(7)『西方指南抄』巻下末「熊谷入道へ遺す書」(『真宗聖教全書』四・二三四頁)。『拾遺語灯録』巻下(『真宗聖教全書』四・七五九~七六二頁)
(8)斉木一馬氏「清涼寺所蔵の源空自筆書状について」(『櫛田博士頌寿記念 高僧伝の研究』〈山喜房仏書林、一九七三年〉、のち伊藤唯真・玉山成元両氏編『日本名僧論集第六巻 法然』〈吉川弘文館、一九八二年〉所収)が詳しい。
(9)『愚管抄』巻第六(『岩波新古典文学大系八六 愚管抄』二九四頁)
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寂光土の往生(2)

2016年08月24日 | 法本房行空上人試考
        二

 行空が幸西(一一六三~一二四七)とともに一念義の代表的人物であったことは周知のとおりである(1)。三条長兼(生没年不詳)の日記・『三長記』の元久三年(建永元年、一二○六)二月二十一日条によれば、行空・幸西のほか安楽房遵西(?~一二○七)・住蓮(?~一二○七)の四人が興福寺から名指しで訴えられている(2)。梯 實圓氏はこの四人を「法然教団の信仰と伝道の中核」(3)という言い方をされている。そのなかでとくに目立っていたのは行空と遵西であったようである。二月十四日条、二月二十二日条、二月三十日条には行空と遵西の名しか見えないからである(4)。そこで四人のうちでは行空と遵西がリーダー格であったのであろう。また慈円(一一五五~一二二五)の『愚管抄』には遵西と住蓮を「つがいて」(5)といっているから、遵西と住蓮で一組であったことがうかがえる。そうすると行空と幸西で一組ということになる。松野純孝氏は「安楽・住蓮が同志の間柄であったように、行空・幸西にもそうした関係が考えられなくもない」といわれている。微妙な言い方であるが、法然教$団の中核は、遵西と住蓮、行空と幸西という形であったのであろう。いま遵西と住蓮は横に置いて、行空と幸西を見てみると、先ほどの二月二十一日条には幸西に「此の弟子未だ名字を知らず」という割註がある。行空ほど知られていなかったらしい。そこで前面に出て、法然の選択本願念仏、専修念仏の教えを説き弘めていたのは行空であったことが知られる。興福寺がとくに行空を名指しするのはそのゆえであろう(6)。したがって行空は教学者というより伝道者であったと思われる。それは著述のあった形跡がないことからもうかがえよう。また前稿で述べた『金剛宝戒章』「秘決鈔」における行空の問が伝道に関するものばかりであることからもうかがえると思う。それに対して幸西は現存する『玄義分抄』をはじめ多くの著作を遺している。そして独創的で深遠な教学を展開している。梯 實圓氏は「行空は行動的な一念義であり、幸西は一念義の理論派」(7)であったといわれている。いいえて妙であろう。そこで行空の教学には法然の意を得た理論的裏づけがあったはずであるが、新たな教学を構築していったというより、民衆に対する伝道者としての教学であったと思われる。この点をまず留意すべきであろう。


(1)ただし梯 實圓氏『玄義分抄講述─幸西大徳の浄土教─』(永田文昌堂、一九九四年)七三頁には、「幸西は、自身の立場を真宗とか真門とよんでいて、一念義とはいっていない」といわれている。
(2)『三長記』元久三年二月二十一日条(『増補史料集成』三一・一七四頁)
(3)梯 實圓氏『親鸞聖人の生涯』(法蔵館、二○一六年)九三頁。
(4)『三長記』元久三年二月十四日条、二月二十二日条、二月三十日条(『増補史料集成』三一・一七二、一七六、一八二~一八三頁)
(5)『愚管抄』巻第六(『岩波新古典文学大系八六 愚管抄』二九四頁)
(6)いうまでもなく遵西も同じであるが、いまは略している。
(7)梯 實圓氏『親鸞聖人の生涯』(法蔵館、二○一六年)一一七~一一八頁。また『玄義分抄講述─幸西大徳の浄土教─』(永田文昌堂、一九九四年)四頁にも行空・遵西・住蓮の三人が行動派であったのに対して幸西は理論派であったといわれている。
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寂光土の往生(1)

2016年08月23日 | 法本房行空上人試考
       一

 行空の義として知られているものに寂光土義がある。弁長(一一六二~一二三八)の『末代念仏授手印』裏書に、

或る人の云く、寂光土の往生、尤も是れ殊勝なり。称名往生は是れ初心の人の往生なり。寂光土往生は尤も深きなり。

とあるのがそれである。『念仏名義集』は少し文が違って、

或る人は寂光土の往生を立つる。此の学文を我に随てせよ。若し此の心を知らずして念仏申さん者は往生すべからずと申す。

とあるが、内容は同じであるといっていいであろう。ただまったく同じでないところに着目したいのであるが、それについては後述することにする。

 この寂光土義を最初に解釈したのは良心(?~一三一四)の『授手印決答巻下受決鈔』である。

或人云等は極楽世界に於て体相同じからず。称名をば相の土に属して浅と為す。寂光土を欣ふは理解、因と為すべし。何ぞ称名の事行を要と為すや。美濃国の法報房と云ふ人、此の義を立つ云云

といっている。良心は、弁長─良忠(一一九九~一二八七)─性心(?~一二九九)─良心と伝統した人で、弁長から見れば曾孫弟子にあたる。それ以前に寂光土義を解釈をした人はいないから、良心が何をもってそのような解釈をしたのかわからない。またそれがどこまで正確であるかもわからない。そこで良心の解釈をそのまま鵜呑みにするわけにはいかないが、いちおう参考にはなるであろう。

 そして江戸時代になって妙瑞(?~一七七八)は『鎮西名目問答奮迅鈔』に良心の解釈によってさらに解釈している。必要部分を挙げれば、

極楽に於て体相二種の浄土を立て、念仏に於て称念理念の二種を立て、称念称名は浅近の故に相の浄土に生ず。理念理解は深遠の故に体の浄土に生ず。

とある。図示すれば次のようになるであろう。

  体の浄土……深遠……理念理解
  相の浄土……浅近……称名念仏

 これによって寂光土義のおおよその構造が浮かび上がってくる。すなわち、『末代念仏授手印』の「称名往生は是れ初心の人の往生なり」というのは称名念仏を浅近な行と見るから初心の人の往生であり相の浄土に生まれる。「寂光土の往生、尤も是れ殊勝なり」というのは理念理解を深遠な行と見るから寂光土という体の浄土に生まれ殊勝であるというのであろう。ただしそこには文に出没があって、体の浄土が寂光土であることは明白であるが、相の浄土が何であるのか示されていない。また相の浄土に生まれる因が称名念仏であることは明確であるが、寂光土に生まれる因は示されていない。『念仏名義集』の「若し此の心を知らずして念仏申さん者は往生すべからず」とあるのを逆に見ると、此の心を知って念仏すれば寂光土に生まれるというふうにも窺える。いずれにせよ、両者ともに「理念理解」という語のないことに注意すべきである。それゆえ良心や妙瑞の解釈は全面的に信用することができないのである。

 そこで私は前稿「法本房行空上人の教学試考─とくに寂光土義をめぐって(その一)─」(『行信学報』二九、二○一六年)において、念仏に二種を立てたというのは信具の念仏と不信の念仏のことであり、その不信の念仏によって往生する相の浄土とは他の同じ思想傾向にあったと考えられる諸門弟の教学から見て辺胎の土や九品の差別のある浄土のことではないかと試考した。そこで残ったのは信具の念仏による体の浄土である。それは九品の差別のない、平等の証果を得る真実報土のことであろう。そのようにいって、他の諸門弟と異なることははない。ただそれを寂光土といったところに行空の特徴がある。行空はなぜ寂光土の名目を用いたのであろうか。また何を意図したのであろうか。以下、試考してみることにする。
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九品の浄土(14)

2016年08月15日 | 小論文
           十四

 こうして隆寛・幸西・證空を見てきたが、彼らは親鸞と同じ思想傾向にあったといえよう。阿弥陀仏の報土には九品の差別がなく、同一証果を得るというのである。それは遠くは『論註』に「往生を願ずるもの、本はすなはち三三の品なれども、いまは一二の殊なりなし」(『七祖篇』一二一~一二二頁)とある文を承け、近くは法然の「極楽の九品は弥陀の本願にあらず、四十八願の中になし、これは釈尊の巧言なり。善人・悪人一処にむまるといはゞ、悪業のものども、慢心をおこすべきがゆへに、品位差別をあらはせて、善人は上品にすゝみ、悪人は下品にくだるなりと、ときたまふなり。いそぎまいりてみるべし」(『真聖全』四・二一四頁)という法語を承けるものと思われる。ただし同一証果といっても、隆寛は初住(円教の所談)、幸西は初地(別教の所談)、證空は等覚、親鸞は妙覚と相違がある。いずれにしても、善導によって確立された凡夫入報義において、趣入の土である報土に九品の差別を認めないところは共通している。それは法然教学の帰結である「称名必得生、依仏本願故」を純粋に領納すれば、本願を憑む称名念仏という一行が立ち、そのほかに往生の因はないから、果もまた同一でなければならないと見ることによって成立する。『論註』の「同一に念仏して別の道なきがゆゑなり」(『七祖篇』一二○頁)である。果に九品の差別を認めれば、因にも差別があることになってしまう。因が同一念仏なのであるから、果もまた同一証果ということである。

 ところが弁長は『浄土宗要集(西宗要)』第二に「土、能化の仏、之を造ると雖も、能生の因は行者の造る所也。是を以て経文に九品の行因を明して九品の浄土に生ずと説くをや。是れ則ち身土相ひ順じ因果相ひ叶へり」(『浄全』一○・一七四頁)といっている。能生の因は行者の造るところであるから、行因に九品の差別があることになり、必然的に浄土にも九品の差別が立つというのである。良忠はさらに『浄土宗要集(東宗要)』巻第五に九品の差別がある理由として、「一に念仏の数遍の多少、二に安心の浅深、三に行業の強弱、四に菩提心の具不具、五に解了の大小、六に宿善の厚薄、七に機根の善悪、八に修行の行体の勝劣也」といって詳述している(『同』一一・一○四~一○五頁)。そして弁長は「極楽九品の浄土に於て九品各別也と雖も、同一の安楽浄土也」(『同』一○・一九九頁)といい、「師(=法然)の御意の云く、観経に明す所の極楽世界に九品の差別有りと説けるは報土也」(『同』一○・二○一頁)といっている。良忠も「九品即ち報土也」(『同』一一・六五頁)といっている。これらは阿弥陀仏の報土に九品の差別を認めるものであるから、明らかに先の諸門弟と見解を異にしている。

 この相違について、かつて私は法然の釈尊の巧言とする法語が禅勝房(一一七四~一二五八)の問いに対する答えであることをもって、禅勝房の法然に入門したのが建仁二年(一二○二)であり、その二年後の元久元年(一二○四)七月に弁長が法然のもとを辞していることから、その法語は弁長の帰郷以後のものではないか、つまり弁長は聞いていなかったのではないかと考えた。では長西はどうか。長西は法然の配流先にまで随ったのであるから、当然法然の法語を聞いていたはずである。しかし那須一雄氏は「覚明房長西における『観無量寿経』九品段の解釈」(『印仏研』六二─二)に「『観経』九品段の原文に説かれる通り、九品の機類が、それぞれの機に相応した九品の浄土に往生するとする立場を示している」といわれる。九品の差別を認めているわけである。それでは法然の法語を無視していることになるのではなかろうか。ただ『浄土法門源流章』には、「念仏諸行は皆是れ弥陀如来の本願なり。所修の業に随つて皆報土に生ず。一切穢土の修業の人に九品の別機有り。宜異なるが故に九品の行者倶に報土に生ず。機に随ひ業に任せて来迎の別有り。生じ已りぬれば即ち是れ斉同不退なり」(『浄全』一五・六○○頁)とある。九品の行業に九品の差別があるから来迎の別があるが、往生して後は等しく不退に住するというのである。しかし安井広度氏は『法然門下の教学』七六頁に「その不退は処不退にして(法事讃光明鈔)、生後も九品の差別を認めたるが如く、(中略)彼は九品の浄土を報土と解し、九品の行者が同一処不退の浄土に生れるから斉同不退としたのである」といわれている。そうすると長西は弁長と同じ思想傾向にあるといえよう。隆寛・幸西・證空・親鸞が他力の信を強調するグループであるとするなら、弁長・長西は自力の行を強調するグループと分類することができる。法然の法語を聞いたかどうかを軸に考えれば長西が該当しない。やはり杉思朗氏が『西鎮教義概論』一三五頁に弁長についてであるが、「往生の為に機の自力の功を認むるからして、機の自力即ち因に三輩九品が分るゝから、果も分れねばならぬ」といわれているように、自力を認めるか認めないかという思想基盤から来る相違と考えるほうが穏当のようである。ともあれ、他力の信を強調するグループでは果に九品の差別がなく同一証果を得ると見るのである。
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九品の浄土(13)

2016年08月14日 | 小論文
         十三

 次に證空を見てみると、『散他筆鈔』巻下に下下品の華内の三障について、

三種障等とは抑止門に属する也。其の故は極楽無為涅槃の境に入りぬれば斉同不退の法性身也。三種の障り有りと説くは重罪を抑止する方便の教の中に施設する所也。故に云く。九品倶に回して不退を得、阿毘跋致は即ち無生也と。讃じて人天善悪皆往生を得て彼こに到りて殊無く斉同にして不退なりと云ふ、云云。故に註論に云く。本則三三の品なれども今は一二の殊無しといへり。今云く。此の義は弥陀摂取門〔正因平等〕也。但し彼の土には華開の早晩、得益の遅疾無しとは云ふべからず。然るに差別は釈迦抑止門〔正行差別〕也。故に正因に依れば九品皆一の無生の身也。此を以て人天雑類等の殊無しと釈せり。(中略)又た正行に就て九品各々の別位也。此の故に華開の早晩、得益の遅疾有ることを説く也。先師上人の云く。九品の階位は別願報土の顕れる銘也と仰せられけるなり。(『西全』五・三七○頁)

と述べている。これによれば、正因・正行の二門を立て、正因門は弥陀摂取門であって九品の差別がなく平等の証果を得る。正行門は釈迦抑止門として施設されたもので九品の差別が宛然とあると見ている。その正行門すなわち釈迦抑止門というのは先に引用した法然の「これは釈尊の巧言なり」を承けたものと思われる。二次資料になるが、『浄土法門源流章』にも「九品の説相は唯だ是れ釈迦、娑婆の機に随つて其の階昇を説く。浄土の中に実に九品有るに非ず。唯だ是れ教文施設の安立なり」(『浄全』一五・五九六頁)とある。問題は正因門すなわち弥陀摂取門である。『論註』の「本則三三の品なれども今は一二の殊無し」の文を引用しいるのが注意されるが、その「一二の殊無し」という平等一味の証果とは何であろうか。那須一雄氏は「法然門下の『往生』理解─特に浄土往生後の菩薩の階位の問題を中心として─」(『印仏研』五八─一、二○○九年)に『定散料簡義』の、

五に当得往生、是は発三心の上の益を顕はす。捨命の後、正に見仏聞法して即悟無生する時、(中略)仏も衆生も不二一体にして遙かに凡聖の境を超へ、色身の都を出でて等覚の眠を醒ます位なり。(森 英純氏編『西山上人短編鈔物集』七一頁)

という文のなかの「等覚の眠を醒ます位なり」に着目され、等覚位と見られている。さらに註において『礼讃観門義』巻第八に「十地を経ること、(中略)今、他力に乗じて、一生の修因、多少を択ばず。之を得つれば、十地の功徳自然に彰る」(『西全』三・五○八~五○九頁)という記述も證空が往生後、等覚位に達すると見ていたことの根拠となるといわれている。しかし石田充之氏は『法然上人門下の浄土教学の研究』上巻・三六九頁に、『定散料簡義』の文について「衆生は浄土に往生すれば阿弥陀仏と一体不二の無上の証果を得せしめられるのであると示される意は明らかであろう」といわれ、『礼讃観門義』の文についても「自力聖道門の修行と異なり、今他力念仏者が往生すれば時節を限ることなく自然に他力不思議力に依り無上の仏果を得るのであると示される意は明らかであろう」 といわれるのである。両氏ともに『般舟讃観門義』や『散観門義』を引いて、九品の差別がないことを示されるのは同じであるが、証果の内容を等覚位と見るのか無上仏果と見るのか見解に相違があるのである。試みに『浄土法門源流章』を見てみると、『論註』の眷属功徳の文を引き、「既に是れ同一念仏の所生なり。自余の諸善雑行に由らず。如来の出世成道説法は凡夫を度し浄土に生ぜしめて直爾に無上菩提を得せしめんが為なり」(『浄全』一五・五九七頁)とある。「直爾に無上菩提」というのであるから、往生即成仏である。石田氏の見解と一致するが、同時に親鸞の証果論とも一致する。しかし古来より親鸞の往生即成仏は己証といわれてきた。證空もそれを説いたというなら、己証とはいわれまい。また西山派のほうでも積極的に説くはずである。にもかかわらずそれがないということは、やはり那須氏のように、等覚位と見るのが穏当ではなかろうか。ただ「等覚の眠を醒ます位」という言い方に、妙覚位のことをいっているような感もないわけではないが、いまは等覚位と見ておくことにする。
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九品の浄土(12)

2016年08月13日 | 小論文
        十二

 次に幸西を見てみると、『浄土法門源流章』に、

念仏往生、具周成立することは、必ず信心と彼の仏智一念の心と相応契会するに由る。(『浄全』一五・五九三頁)

といわれている。そこでは仏智を受け入れた信心が強調され、その信心を得た者が浄土に往生できるとする。『玄義分抄』別時門には、

定善を捨てゝ散善を行せしめ、諸行を捨てゝ称仏を行せしめ、多称を捨てゝ一称を行せしめ、諸仏を捨てゝ弥陀を行せしむる事は、法華経・観経等に依る、四の捨行の中に終りの一は唯観経也。口称を捨てゝ心念を行せしむる事は大経に依る。(梯 實圓氏『玄義分抄講述』付録・四六四頁)

とあり、四種の捨行といって次々に廃立をかけていく。その最後は口称と心念にまで廃立をかけているようであるが、これは本願を信じない不如実の称名と、本願を信じる如実の称名のことと考えられる。いいかえれば自力の念仏と他力の念仏である。その他力の念仏を成立させるのが仏智と相応する信心である。信心は他力の念仏の成立根拠なのである。そして浄土に報土と化土を立てる。『玄義分抄』二乗門に「大経に報化二土の義あり。(中略)観経に又報化二土の義あり」(付録・四六五、四六六頁)というのがそれである。化土については別に考察したのでいまは略するが、報土往生については『玄義分抄』二乗門に次のように述べられている。

無漏無生の国に入る生因無二なるか故に果の不同なし。無漏の善といは第九の受法。是仏法不思議の力、五乗の浅深九品の善悪をえらはす、純一に化生して即初地に入る、(付録・四六七頁)

すなわち、報土は無漏無生の世界であるから、その因は無漏の善でなければならない。それこそ本願に誓われた念仏である。たとえ凡夫が行ずる念仏であっても、無漏の果を感得する徳用をもっている。その本願に相応した念仏という同じ因によって往生するのであるから、果に不同のあるはずはない。地前の菩薩・縁覚・声聞・天・人といった五乗の功徳の浅深も、九品の善悪もわけへだてがない。まったく平等一類の機となって、報土に化生し、初地に入るというのである。ここで幸西は初地といっている。隆寛は初住であった。それは別教でいうか円教でいうかの相違だけである。同じ証果を見ている。したがって報土往生に九品の差別はないわけである。なお、幸西が証果を初地と見ることは『浄土法門源流章』に引用された『称仏記』にも出ているし(『浄全』一五・五九二、五九三頁)、凝然の地の文にも述べられている。
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九品の浄土(11)

2016年08月12日 | 小論文
       十一

 ここで法然門下を見てみると、まず隆寛は『極楽浄土宗義』巻中の冒頭に、

大文第二に往生の機を解すとは、斯の中に二有り。一には報土往生の機、二には辺地往生の機なり。(平井正戒氏『隆寛律師の浄土教』遺文集・二一頁)

といって、往生人を報土往生の機と辺地往生の機の二種に分類している。そして報土往生の機を「本願往生の機」といい、「本願往生の機と言ふは三心具足の念仏者、正しく是れ其の人也」といっている。報土に往生する機とは三心を具足した念仏者であるというのである。それは『具三心義』巻上に「念仏に二種有り。一には本願の念仏、二には非本願の念仏なり。々々々の々々とは六念中の念阿弥陀是れ也。本願の念仏とは三心具足の念仏、今、論ずる所也」(遺文集・二頁)といい、念仏といっても本願の念仏と非本願の念仏があり、いま三心を具足した念仏者とは本願に誓われた念仏を行ずる人である。それはまた同じく『具三心義』巻上に、「釈迦、往生極楽の機の為に三心具足の行を説きたまふ。此の行は自力を募るに非ず、唯し他力を憑む也」(遺文集・一頁)といって、自力を募るのではなく、ただ他力を憑むのである。いいかえれば、自力の念仏ではなく、他力の念仏である。『自力他力事』には「念仏の行につきて自力・他力といふことあり」(『註釈版』一三七七頁)と標して詳述している。

 そしてその三心を具足した念仏を行ずる人が往生する報土について、『極楽浄土宗義』巻下のはじめには、

第一に国土の相を結するとは、此の中に二有り。一には報土、二には辺地なり。報土の中に就て又た其の二有り。一には自受用土、唯仏与仏、自受法楽なり、金剛心位も見ること能はず。二には他受用土、広大にして辺際無し、能化者は八万四千の相好光明を具し、所化者は住行向地等の諸大菩薩也。(遺文集・三○頁)

といっている。報土に自受用土と他受用土があるなか、自受用土は唯仏与仏の境界であるから、三心具足の念仏者が往
生するのは他受用土なのである。そこでは能化者と所化者が立つ。その所化者を「住行向地等」といっている。十住・十行・十回向・十地、「等」は等覚であろう。そのなかで『同』巻中には、

問。凡夫、本願に乗じて報土に往く時、何位をか証得するや。
答。無生法忍を得て初住の位に登る。本願難思の力に由るが故也。(遺文集・二三頁)

といって、初住位とする。そこに「無生法忍を得て」とあるが、『散善義問答』には良源の『極楽浄土九品往生義』に上品上生の「聞き已りて即ち無生法忍を悟る」とあるのを釈して、「疏(=天台観経疏)に云く、無生忍とは初地に登るを言ふ也と。初地と言ふは歓喜地也。別教の義に望めて是くの如きの判を作す。若し円教に望めば初住と云ふべし」(『浄全』一五・八頁)という文を引用している(遺文集・六六頁)。そこで隆寛が初住といったのは円教の所談であり、別教でいえば初地ということになる。そして『極楽浄土宗義』巻中には「行者正しく観音の蓮台に坐する時、無明を断じ無生を得。此れ従り以去は自然に諸地の功徳を円満す」といっている。それは自力による昇階ではなく、報土往生後に無生法忍を得て備わる「自然依入の徳」であるとしている。ゆえに「娑婆の機に対して其の心を勧めんが為に十地三賢を判ずる如きには非ざる也。次位を論ずると雖も、永く瓔珞経等に異なり。彼は自力の断証を説く。此は他力の断証を明かす故也」というのである(遺文集・二五頁)。『瓔珞経』等に説かれる自力の断証でなく、他力によって断証せしめられるのである。こうして『散善義問答』には「本(もと)念仏の行者に於ては全く九品の不同有るべからず。同一念仏して異途無きが故なり」といい、諸文を挙げるなか、『論註』の「本則三々の品なれども、今は一二の殊無し」を引用している(遺文集・四四頁)。同一証果を得るのである。

 なお九品段については、『散善義問答』に「品位の不同は余行に約すと見たり」(遺文集・四四頁)といっているほか、別に考察したので、いまは略する。(本ブログでは「寂光土義の論文(13)に述べている)
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九品の浄土(10)

2016年08月11日 | 小論文
       十

 法然は安心門において同一証果を得ると見ていたと思われる。ただ冒頭に引用した『論註』の「本はすなはち三三の品なれども、いまは一二の殊なりなし」の文に注目することはなかったようである。「偏依善導一師」といって、もっぱら善導に依っているのである。また同時に源信の影響を受けていることも先学の指摘するところである。そこでその著である『往生要集』を見てみると、大文第十の問答料簡・諸行勝劣に「もろもろの行のなかにおいて、ただ念仏の行のみ修しやすくして、上位を証す。知りぬ、これ最勝の行なりといふことを」といい、最勝の行である念仏によって上位を証するといっている。法然が起行門において目指す上品の往生のことである。それについて同・往生階位には、慧遠が上上品を四・五・六地、上中品は初・二・三地、上下品は初地以前の十住・十行・十回向と見るなど、諸師の見解を挙げ、「諸師の所判の不同なる所以は、無生忍の位の不同なるをもつてのゆゑなりと」といっている。上品が得るという無生法忍(上下品の当面には説かれていない)をいかに理解するかによって諸師の見解が異なるというのである。そしてその無生忍について、「『仁王経』には、無生忍は七・八・九地にあり」等と、諸種の見解を挙げている。そこに注意すべきは、無生忍をどれほど高く見ても、第九地であるということである。つまり親鸞がいうような往生即成仏ではないわけである。

 法然の法語を見ても、『西方指南抄』「法然聖人御説法事」に、

浄土者(は)まづこの娑婆穢悪のさかひをいで、かの安楽不退のくにゝむまれて、自然に増進して、仏道を証得せむともとむる道也。

といっている。「四箇条問答」にも、

蓮台に託して、往生已後の増進仏道をもて用とす。これは極楽にての事也。

といっている。浄土に往生して仏道を増進するというのである。それは「念仏大意」に、

末代の衆生、その行成就しがたきによりて、まづ弥陀の願力にのりて、念仏の往生をとげてのち、浄土にして、阿弥陀如来・観音・勢至にあひたてまつりて、もろもろの聖教おも学し、さとりおもひらくへきなり。

といい、「要義問答」に、

まことに観念もたえす、行法にもいたらさらむ人は、浄土の往生をとけて、一切の法門おも、やすくさとらせたまはむは、よく候なむとおほえ候。

といい、同じく「要義問答」に、

とくとく安楽の浄土に往生せさせおはしまして、弥陀・観音を師として、法華の真如実相平等の妙理、般若の第一義空、真言の即身成仏、一切の聖教、こころのままにさとらせおはしますへし。

といっている。「もろもろの聖教」「一切の法門」「法華の真如実相平等の妙理、般若の第一義空、真言の即身成仏、一切の聖教」を学し、やすくさとるのである。それは「弥陀・観音を師」とするからである。そこで「自然に増進」するというのである。したがって即成仏するとはいっていないのである。それは『往生要集』大文第二・欣求浄土に十楽を挙げるなかの「増進仏道の楽」を承けるものであろう。「要義問答」には、

往生浄土門といふは、まづ浄土にむまれて、かしこにてさとりおもひらき、仏にもならむとおもふなり。

といい、「浄土にむまれて、かしこにてさとりおもひらき」とあって、即成仏のようであるが、そのあとに「仏にもならむとおもふなり」といっている。仏になろうと思うというのであるから、成仏していないことがわかる。もっとも法然が往生後の階位をどのように見ていたのかはわからない。無生法忍の説明もないようである。

 ところが浅野教信氏は「法然上人の証果観について」(『真宗学』三五・三六、のち同氏『親鸞と浄土教義の研究』所収)に、上品上生は還相摂化の利他行をなすこと、「見仏色身」の得益が説かれることから、上品上生即成仏と推察されている。そして浄土での仏道増進の修行は自悟楽の風光と考えられている。しかしこの推察が正しいとすれば、法然門下も語るはずではなかろうか。それがないということは、やはり納得しがたい。ただ親鸞がその幽意を開顕したと考えられなくもない。もしそうであれば、法然と親鸞の脈路が見出せるであろう。
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九品の浄土(9)

2016年08月10日 | 小論文
        九

 ところが法然にはこのような法語もある。『西方指南抄』の「十一箇条問答」である。『和語灯録』でいえば「十二問答」である。

極楽の九品は弥陀の本願にあらず、四十八願の中になし、これは釈尊の巧言なり。善人・悪人一処にむまるといはゞ、悪業のものども、慢心をおこすべきがゆへに、品位差別をあらはせて、善人は上品にすゝみ、悪人は下品にくだるなりと、ときたまふなり。いそぎまいりてみるべし。

というのである。これは明らかに浄土における九品の階位を否定している。その理由は四十八願のなかに九品をもうけると誓われていないということである。そもそも阿弥陀仏の浄土は四十八願に酬報した土であった。ゆえに報土なのである。天親の『浄土論』には浄土の三厳二十九種の荘厳を説き、「また向(さき)の荘厳仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就を観察することを説けり。この三種の成就は、願心をもつて荘厳せり。知るべし」といっている。曇鸞は『論註』にそれを註釈するにあたって、一々の荘厳に「仏本(もと)なんがゆゑぞこの荘厳功徳を起したまへる」といった言い方をして、一々の荘厳が成就された理由を解明している。そして「『知るべし』とは、この三種の荘厳成就は、本(もと)四十八願等の清浄願心の荘厳したまへるところなりによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり。無因と他因の有にはあらざるを知るべしとなり」といっている。善導もたとえば『往生礼讃』に日中讃に「四十八願より荘厳起りて、もろもろの仏刹に超えてもつとも精なり」といってる。四十八願が成就して浄土の荘厳があるのである。しかしその四十八願には九品をもうけるという願はどこにもないのである。したがって浄土には九品の階位はないといわねばならない。では『観経』に九品が説かれるのはなぜかというと、釈尊の巧言であるというのである。その意味は善人と悪人が一処に生まれるといえば、悪業のものどもが慢心をおこして、向上心を失うおそれがあるから、品位階位があることを示して、悪をつつしみ、善にむかわせようとした釈尊の巧みな方便説であるということである。「いそぎまいりてみるべし」とは、浄土に九品の階位はないと断ずる法然の自信のあらわれといえよう。とすれば、九品の浄土は真実報土ではないということになるであろう。これが問題である。真実報土には九品の階位がないのであるから、同一証果を得ることになる。九品の浄土が起行門の所談であるなら、同一証果を得ることは安心門の所談である。そこではどういう証果を得るのであろうか。また九品の浄土をいかに解すればいいのであろうか。
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