天上の月影

勅命のほかに領解なし

是報非化論(7)

2016年07月31日 | 小論文
       六

 次に(二)の『大経』によって報身の義を証するというのは、聖道の経に対して自前の浄土の経である『大経』をもってきて証明していくものである。「『無量寿経』にのたまはく」といい、「すなはちこれ酬因の身なり」と結ぶのがそれである。「酬因の身なり」とは報身であるということと同じで、因に願と行がある。その願と行に酬報するから報身と呼ばれるのである。しかし善導は、「法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして菩薩の道を行じたまひし時、四十八願を発したまへり」といって、四十八願のみを出している。兆載永劫の修行は省略しているわけである。それについて義山は『真宗百題啓蒙』に「弥陀の諸仏に異なる所以、願を以て弁ずるを顕著とするが故なり、若し自利の因行に就かば、弥陀諸仏異なることあるべからず、利他衆生の為の行は不同なるべしと雖も、其相の差別は経説に見ざる所なり」(『真叢』二・一七八頁)といっている。すなわち阿弥陀仏と諸仏の異なる所以は願にあるのであって、行についていえば異なるところは経説に見えない。したがって願が重要なのである。いいかえれば、因行酬報でなく因願酬報というところに阿弥陀仏の特徴を見いだしている。
 そして「一々の願にのたまはく」といって、第十八願取意の文を出してくる。それは四十八願の一願一願のなかに第十八願の意がこめられているということで、四十八願といっても根本は第十八願にあるのであって、第十八願に集約されることをあらわす。ここに善導の本願観、四十八願観がある。
 またその第十八願取意の文は、「もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは正覚を取らじ」というもので、「わが名号を称してわが国に生ぜん」とあるように、称名往生を誓った願と見ている。『往生礼讃』後序にも「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(『七祖篇』七一一頁)と取意している。これも善導の本願観、第十八願観というべきである。
 そして善導は法蔵菩薩を「いますでに成仏したまへり」というのである。称名往生の願に酬報して阿弥陀仏と成られたのであるから、「すなはちこれ酬因の身なり」と、報身であることを義をもって証しているのである。
 さらにそれは単に報身の義証ということにとどまらず、「もし生ぜずは正覚を取らじ」という誓いが、「いますでに成仏したまへり」である以上、必ず往生させるという第十八願成就の救済者であることをあらわす。逆にいえば、必ず凡夫が往生することができるという必然性をあらわすのである。すなわち、これが凡夫入報をいう伏線になっているのである。したがって、善導が三つの理由を挙げて阿弥陀仏の浄土が報土であることを証明するなかの中心になるのである。
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是報非化論(6)

2016年07月30日 | 小論文
(つづき)

すなわちその下巻に、

復た阿弥陀如来・蓮華開敷星王如来・龍主王如来・宝徳如来有り。是くの如き等の清浄仏刹所得道の者有り、彼の諸の如来は初の仏地を得たまへり。此の地の中に在て是の神を作す。(『大正蔵』一六・六五一頁中)

および、「海妙深持自在智菩薩、復た仏に問て言さく、世尊、仏身に幾の種かある。仏の言はく、善丈夫、略して説くに三有り。何等をか三と為する。一は報、二は応、三は真なり」と説き、「世尊、何者をか名て如来の報と為する」という問いに対して、

仏の言はく、善丈夫、若し彼の仏の報を見んと欲はば、汝今当に知るべし、今日我を見よ、現に諸の如来清浄刹にして、現に得道するは、当に得道すべき者、是の如きの一切即ち是れ報身なり。(『同』一六・六五一頁下)

とある。道綽が浄土中の成仏を報身とするのは、山本佛骨氏『道綽教学の研究』三四○~三四一頁によれば、この二文を合揉して取意したものといわれている。すなわち前文に阿弥陀仏の名を挙げ、清浄仏刹において得道した者であることを示し、次文に清浄仏刹に得道した者は報身であると説かれている。これによって阿弥陀仏は浄土中の成仏であるから報身であると取意したのである。つづく応身、法身について示す経文は略するが、善導はそれを承けながら、さらに『大乗同性経』の経文を取意し、「西方安楽の阿弥陀仏はこれ報仏報土なり」と引用しているのである。それは先ほどの山本佛骨氏によれば、「然しながら、三身成仏の浄土、穢土を定むるに、法報応の三身の中、法報二身は浄土に限り、応身は浄穢に通ずるという説があり、又法報は浄土に限り応身は穢土に限るという説がある。道綽は後者に依つたのであるが、浄影等は前者に依つたと見れば各拠一義という事になり、此の会通は一往のものとなつて必ずしも適中しない事になる。故に善導は更に積極的に報身の名を『大乗同性経』に取ると雖も、義は『大経』の別願酬報の義に拠つて是報非化を確認せしめられた事を注意すべきであろう」(三四一~三四二頁)といわれている。要するに、浄土中の成仏は報身、穢土中の成仏は化身という論拠は一往のものとなる可能性があるから、善導はそれを省略し、「西方安楽の阿弥陀仏はこれ報仏報土なり」とだけ取意したということであろう。善導は聖道の諸師に対するから、まず聖道の経である『大乗同性経』によって阿弥陀仏が報身であるという報の名を証したのである。
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是報非化論(5)

2016年07月29日 | 小論文

【昨日は日帰りで福岡県立図書館へ行った。待宵小侍従に関する郷土資料を見るためである。郷土資料は貸し出しができないので、私が行くしかなかったのである。待宵小侍従のことは後日に投稿するが、ともかく疲れたので、今日は途中までであることを御了解いただきたい。】

         五

まず(一)の『大乗同性経』に「西方安楽の阿弥陀仏はこれ報仏報土なり」とあるをもって、報身の名を証するというのは、道綽の『安楽集』第一大門・三身三土を承けたものである。すなわち、
 

問ひていはく、いま現在の阿弥陀仏はこれいづれの身ぞ、極楽の国はこれいづれの土ぞ。
答へていはく、現在の弥陀はこれ報仏、極楽宝荘厳国はこれ報土なり。

と断定し、

(一)いま『大乗同性経』によりて報化・浄穢を弁定せば、『経』にのたまはく、「浄土のなかに仏となりたまへるはことごとくこれ報身なり。穢土のなかに仏となりたまへるはことごとくこれ化身なり」と。
 (二)かの『経』にのたまはく、

〈報身〉「阿弥陀如来、蓮華開敷星王如来・竜主如来・宝徳如来等のもろもろの如来、清浄の仏刹にして現に道を得たまへるもの、まさに道を得たまふべきもの、かくのごとき一切はみなこれ報身の仏なり。

〈化身〉何者か如来の化身、なほ今日の踊歩如来・魔恐怖如来のごとき、かくのごとき等の一切の如来の、穢濁世のなかにして現に仏となりたまへるもの、まさに仏となりたまふべきもののごとし。兜率より下り、乃至一切の正法・一切の像法・一切の末法を住持す。かくのごとき化事みなこれ化身の仏なり。

〈法身〉何者か如来の法身。如来の真法身とは、色なく形なく、現なく着なく、見るべからず。言説なく、住処なく、生なく滅なし。これを真法身の義と名づく」と。(『七祖篇』一九一~一九二頁)

と述べている。詳しいことは省略するが、ここに『大乗同性経』が二文引用されている。とくに重要なのは、第一文の浄土中の成仏は報身であるというところであろう。しかし、いずれも取意の文である。このままの文はない。原文の必要部分を挙げれば次のようである(『六要鈔』第五にも引用されている)。

 

 

 

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是報非化論(4)

2016年07月28日 | 小論文

         四

 善導の論証は三つの理由からなっている。便宜上、その三つを分けて全文を示してみよう。

 いかんが知ることを得る。
(一)『大乗同性経』(意)に説きたまふがごとし。「西方安楽の阿弥陀仏はこれ報仏報土なり」と。
(二)また『無量寿経』(上・意)にのたまはく、「法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして菩薩の道を行じたまひし時、四十八願を発したまへり。一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは正覚を取らじ〉」と。いますでに成仏したまへり。すなはちこれ酬因の身なり。
(三)また『観経』(意)の中の上輩の三人、命終の時に臨みて、みな「阿弥陀仏および化仏と与にこの人を来迎す」とのたまへり。しかるに報身、化を兼ねてともに来りて手を授く。ゆゑに名づけて「与」となす。この文をもつて証す。
 ゆゑに知りぬ、これ報なり。(『七祖篇』三二六~三二七頁)

すなわち、(一)『大乗同性経』、(二)『大経』、(三)『観経』という三経によって論証しているのである。
 それについて、『六要鈔』第五は「初の経は名を証す、次の経は義を証す。後の経は通じて両経の意を成ず」(『真聖全』二・三五九頁)といっている。義山の『真宗百題啓蒙』にはこの『六要鈔』の説を「従うべし」と評している。また同時に顕意の『階定記』に五義を出すなか、第一の「初の文は教証、後の二は理証」等という義と、第二の「初の二は是れ報の義を証す、(中略)後の一は非化の義を証す」等とある義を「此二義佳し」とも評している(『真叢』二・一七八頁)。梯實圓氏は「親鸞聖人の阿弥陀仏観の一考察」において、「こうして善導大師は、『大乗同性経』によって報身の名を証し、『大経』によって報身の義を証し、『観経』をもって報身であることの文証とし、この三経をもって阿弥陀仏が報身であり、その浄土が報土であることを証明されたわけである」と述べられている(『浄土教学の諸問題』上巻・二五一頁)。三経による論証は総じていえばそういうことになるのである。次に別して各経による論証を見てみよう。

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是報非化論(3)

2016年07月27日 | 小論文

        三

 そこでまず是報非化論の背景として、聖道の諸師が阿弥陀仏の身土をどのように見たかを述べねばならないが、詳しいことは別の機会に譲る(当ブログでは、「寂光土義の論文(三)」、「浄土宗独立の意義(一)(三)(四)」に触れている)。いまは先の大原性実氏の言を借りて、「諸師は弥陀の身を応身、土を応化土と見」たということにとどめよう。それに対して善導は、「玄義分」和会門に「六に経論の相違を和会するに、広く問答を施して疑情を釈去すとは、この門のなかにつきてすなはちその六あり。一には先ずもろもろの法師につきて九品の義を解す。二にはすなはち道理をもつて来してこれを破す。三にはかさねて九品を挙げて返対してこれを破す。四には文を出して来して、さだめて凡夫のためにして聖人のためにせずといふことを証す。五には別時の意を会通す。六には二乗種不生の義を会通す」(『七祖篇』三○九頁)と標し、第一から第四において九品唯凡説を立てるのである。それは「さだめて凡夫のためにして聖人のためにせず」とあるように、浄土教は常没の凡夫のための教えであることを論定するのである。そして第五の「別時の意を会通す」において有名な六字釈をもうけ、称名念仏の行にはよく願行具足しているから即時に往生することを得ると明かす。それによって凡夫が称名念仏して趣入する土とは何かと導いていくのである。そこで第六の「二乗種不生の義を会通す」にはまず端的に次のように問答するのである。

    問ひていはく、弥陀の浄国ははたこれ報なりやこれ化なりや。
    答へていはく、これ報にして化にあらず。(『同』三二六頁)

ここに「是報非化」という語が出てくるのである。阿弥陀仏の浄土は報土であって決して化土ではないということである。そこに凡夫が称名念仏によって報土に往生するという凡夫入報義が成立するわけである。古今楷定の中心はここにある。
 法然がその釈義によって浄土宗を立てたことは冒頭に述べたとおりであるが、それは法然自身がいうように諸宗の許さないところである。のちの覚如も『口伝鈔』第七条に「おほよそ凡夫の報土に入ることをば、諸宗ゆるさざるところなり。しかるに浄土真宗において善導家の御こゝろ、安養浄土をば報仏報土と定め、入るところの機をばさかりに凡夫と談ず。このこと性相の耳を驚かすことなり」(『註釈版聖典』八八二頁)といい、『改邪鈔』第十七条にも「おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり」(『同』九三九頁)といっている。通途の性相では耳を驚かす例のない言語道断の不思議というのである。しかし『口伝鈔』第四条には「凡夫引接の無縁の慈悲をもって、修因感果したまへる別願所成の報仏報土へ五乗ひとしく入ることは、諸仏のいまだおこさざる超世不思議の願なれば」(『同』八七八頁)といっている。要をいえば、諸仏がいまだおこしたことのない阿弥陀仏の超世不思議の願によるというのである。すなわち阿弥陀仏の別願である第十八願の意は凡夫を報土に往生せしめることにあったのである。したがってそれは別途不共の法門といわねばならない。そこに聖道門と浄土門の相違がある。ゆえに通途の聖道門によって見るから、言語道断の不思議と映じるが、実は阿弥陀仏の願意であったのである。そこで善導はまず是報非化と判じ、つづいてそれを立証していくのである。

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是報非化論(2)

2016年07月26日 | 小論文

         二

 善導の『観経疏』は古来、「古今楷定の疏」とも呼ばれてきた。古今楷定が善導の勲功なのである。それを「古今楷定は終南(=善導)の功」といいならわしている。その出拠は「散善義」後跋に、

某(それがし)、いまこの『観経』の要義を出(いだ)して、古今を楷定せんと欲す。(『七疏篇』五○二頁)

といわれたものである。意味をいえば、まず「古」は古旧、古来、あるいは古説で、善導以前の『観経』解釈をいう。具体的には、浄影寺慧遠(五二三~五九二)、嘉祥寺吉蔵(五四二~六二三)、天台大師智顗(五三八~五九七)の『観経』解釈である。彼らはみな『観経』の註釈書を造っている。ただし智顗のそれは真撰とは認められず、後代に仮託された書といわれているが、内容は天台の教学に立脚したものであり、智顗の書と信じられてきたから、いちおう「古」のなかに入れておく。「今」は当今、今時、あるいは今説で、善導当時の『観経』解釈である。具体的には、摂論宗や法相宗の人たちの『観経』解釈である。そして「楷」は「楷模」で、模範、手本のことである。後世の軌範たるべきをいう。「定」は「決定」で、義の是非を定めることである。そこで古今楷定とは、古今の学者の『観経』解釈における義の是非を定めて、後世の手本となすことをいう。いいかえれば、古今の学者の『観経』に対する誤った見解を正し、『観経』の真意を明らかにすることである。それが凡夫入報義である。「『観経』の要義を出(いだ)して」というのはそのことをいう。つまり凡夫入報という『観経』の要義を出して、古今の学者の誤った『観経』解釈をしりぞけ、正しい『観経』理解を示されたのである。それは浄土教開説の仏意でもあるから、親鸞が「正信偈」に「善導独り仏の正意をあきらかにせり」(『註釈版聖典』二○六頁)という所以である。
 そこにおいて、古今の学者すなわち聖道の諸師と善導のあいだには多くの相違点が見られる。寺倉 襄氏『真宗七祖の教学』(法蔵館、一九九九年)一六五頁には、先哲が十異、二十異、二十二異を数えていることを示されている。そのなかで二十二異は大原性実氏『善導教学の研究』(永田文昌堂、一九七四年)の見解でもある。いまそのすべてを列することはできないが、ただ必要な相違点をあげれば次のようである。
 

(六)身土に就いて
 10、報土化土の異、諸師は弥陀の身を応身、土を応化土と見るに対し、善導は報身・報土とする。(六二頁)

これが是報非化論のことをいっていることはいうまでもない。

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是報非化論(1)

2016年07月25日 | 小論文

    一

 法然が浄土宗を独立して一宗を立てたのは、善導の釈義によって、凡夫入報義を明らかにするためであった。醍醐本『法然上人伝記』に、
 

或る時に云く、我れ浄土宗を立つる意趣は、凡夫往生を示さむが為也。若し天台の教相に依らば、凡夫往生を許すに似たりと雖も、浄土を判ずること至りて浅薄也。若し法相の教相に依らば、浄土を判ずること甚深と雖も、全く凡夫往生を許さざる也。諸宗の談ずる所は異なると雖も、惣じて凡夫の浄土に生ずると云ふ事を許さず。故に善導の釈義に依つて浄土宗を興す時、即ち凡夫の報土に生ずると云ふ事が顕はるる也。(『法然伝全』七七五頁)

といわれたものがそれである。同じことが『拾遺語灯録』巻上「浄土随聞記」(『真聖全』四・六九五~六九六頁)や『四十八巻伝』第六巻(『法然伝全』二七頁)にも出ている。その凡夫入報義とは、凡夫が称名念仏の一行をもって阿弥陀仏の本願力により報土に往生することである。それを支えるのが善導の釈義なのである。天台宗や法相宗の教相によればありえないことであるから、善導の釈義は重要な意味をもつ。そこには凡夫ということや称名念仏という往生行についての問題もあるが、いまはとくに報土ということを取り上げたいと思う。阿弥陀仏の浄土が報土であることは、すでに道綽の『安楽集』第一大門・三身三土に論定されている(『七祖篇』一九一頁)。しかし法然は善導の釈義によるというのであるから、善導の論定を見てみたいのである。すなわち『観経疏』「玄義分」に展開される是報非化論である。

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行空上人と佐渡島(32)

2016年07月24日 | 法本房行空上人試考

          2

 通憲の子息が流罪になったことを記す資料としては『平治物語』上巻がある。すなわち、

新宰相俊範、出雲国。播磨中将重憲、下野国。右中弁定憲、土佐国。美濃少将修憲、隠岐国。信濃守惟憲、佐渡国。法眼静憲、安房国。〔法橋観敏、上総国。大法師勝憲、安芸国。〕憲耀、陸奥国。覚憲、伊予国。明遍、越後国。澄憲、信濃国。かやうに国国へぞながされたる。(『岩波新古典文学大系』四三・一七六頁)

とある。このなか遊蓮房は「信濃守惟憲、佐渡国」である。「惟憲」は正しくは「是憲」であるが、そういう表記になっている。いずれにせよ、流罪先は佐渡国である。『尊卑分脈』を見ても、「是憲」に「平治配佐渡国」という註記がある(『新訂増補 国史大系』五九・四八八頁)。ところが『平治物語』の脚注に「他諸本『安房国』」といわれている。実際、『越佐史料』巻一所収の『平治物語』では「信濃守惟憲安房国」(四二一頁)となっている。『平治物語』のテキストは幾種類もあって、『岩波新古典文学大系』は現存最古態と目される伝本を底本にしたといっている。いまの上巻は陽明文庫所蔵本のようであるが、文中の「〔法橋観敏、上総国。大法師勝憲、安芸国。〕」と括弧書きになっているのは、脚注に他本からの挿入であることを記している。また右の引用の前に、他本には「俗は位記をとゝめられ、僧は度縁をとて還俗せさせられ(るカ)」の一文が入ることを記し、それを「底本の誤脱か」といっている。確かに『越佐史料』所収本にはその一文が入っている。そこで現存最古態の伝本を底本にしたといって、もっとも信頼すべきテキストのように見られるが、誤脱があるのである。したがって遊蓮房の配流先が佐渡国であったとは必ずしもいえない。安房国であった可能性もあるわけである。それでも『尊卑分脈』に佐渡国とあるではないかというに、『平治物語』と『尊卑分脈』のあいだには相違が多いのである。たとえば最初の「新宰相俊範、出雲国」が「配流越後国」となっているがごとくである(ただ上には「配流宣下出雲国」ともある)。もっとも次に「越後を改め阿波に赴く」といわれている。『越佐史料』所収の『公卿補任』にも俊範について越後国から阿波国に改められたといわれている(四一六頁)。このように資料によって異同があるのであるから、遊蓮房の流罪先は佐渡国か安房国かということにならざるをいえないであろう。
 そして『愚管抄』巻第五には「信西が子どもは又かずを尽してめしかへしてけり」(『岩波古典文学大系』八六・二三八頁)といわれている。すなわち彼らは召還されたというのである。その脚注によれば、永暦元年(一一六○)二月二十二日に決定したということである。遊蓮房たちの配流が僉議されたのは前年の平治元年(一一五九)十二月二十日であるから、わずか二ヶ月で召還されたことになる。そこで前の伊藤唯真氏は、遊蓮房は「配所へは実際に赴かずして出家したのであろう」(四七頁)といわれている。それを俊範の例で見れば、『公卿補任』に「十二月十日解官、同廿二日越後国に配流、同三十日出家、同二年正月越後国を改め阿波国に配す、二月召返」とある。『尊卑分脈』もほぼ同様である。そうした慌ただしい配流と召還の様子を見ると、やはり伊藤唯真氏がいわれるように遊蓮房は配所へは赴かなかったのかもしれない。あるいは赴く途中で召還の知らせを聞いたかもしれないし、赴いたとしてもほんの短期間ということになる。したがって『佐渡流人史』二頁に「彼(=行空)は佐渡配流を、一面で円照(=遊蓮房)の佐渡における諸体験の再体験者であるという自覚をもっていたに違いない」とはいえないであろう。まして遊蓮房の配所が安房国であったとすれば、なおさらである。遊蓮房のことは、行空と佐渡を考えるうえで、注意はしても、積極的に説かれるべきものではないと思われる。

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行空上人と佐渡島(31)

2016年07月23日 | 法本房行空上人試考

 第一章 行空上人の事蹟

第五節 佐渡の旧跡と活動

  一、遊蓮房連照のこと

     1

 佐渡に流された行空を語るにあたって、磯部欣三・田中圭一氏共著『佐渡流人史』(雄山閣、一九七五年)、およびそれを承けたと思われる花田玄道氏『鎮西教学成立の歴史的背景』(大本山善導寺、一九九六年)は、まず遊蓮房円照(一一三九~一一七七)のことから説きおこされている。いまもそれにならって、彼のことからはじめよう。
 遊蓮房円照は俗名を藤原是憲といい、後白河天皇(一一二七~一一九二)の近臣として権勢をふるった藤原通憲(信西入道、一一○六~一一六○)を父にもつ。『尊卑分脈』を見ると、通憲の子や孫には優れた人たちがズラリと並んでいる(『新訂増補 国史大系』五九・四八四~四九四頁)。まさに天才一家である。慈円(一一五五~一二二五)の『愚管抄』巻第五には「大方(おほかた)信西が子どもは、法師どもゝ、数しらずおほかるにも、みなほどほどによき者にて有(あり)ける程に」(『岩波新古典文学大系』二二六頁)といわれている。そのなか法然に関わる人だけ挙げても、明遍(一一四二~一二二四)、澄憲(一一二六~一二○三)とその子・聖覚(一一六七~一二三五)がいる。『興福寺奏状』を起草した貞慶(一一五五~一二一三)も孫である。また『三長記』の藤原長兼も孫にあたっている。そうしたなかの一人が遊蓮房である。
 しかし平治の乱(一一六○)において通憲が敗れ殺害されると、一族は連座して、流罪となった。遊蓮房は佐渡国であったといわれているのである。その後、遊蓮房は出家して京都・西山の広谷に棲み、善導の教えを軌範として、ひたすら念仏の生活を送り、霊証を得たといわれている。信瑞(?~一二七九)の『明義進行集』第二には「少納言入道(=通憲)の一族こそて遊蓮房をたとむ事、仏の如し」(『浄土仏教古典叢書』一五頁)といわれている。一族から仏のように敬われていたのである。法然が回心後、広谷に移住したのはこの遊蓮房に会うためであった。そして遊蓮房は善峰に移り、法然がその臨終の善知識をつとめた。『法然上人行状絵図』第四十五巻には、「名号をとなふること九遍、上人(=法然)すゝめて、いま一遍とおほせられければ、高声念仏一遍して、やがていきたえにけり」とある。つづいて、

上人のつねには、浄土の法門と、遊蓮房とにあへるこそ、人界の生をうけたる、思出にては侍れとぞおほせられけり。(『法然伝全』二八四頁)

と伝えている。これをもって行空が佐渡国に流されるとき、遊蓮房のことを思いあわせたのではなかろうかといわれるのである。
 この遊蓮房については、伊藤唯真氏『浄土宗の成立と展開』(吉川弘文館、一九八一年)の第一章第二節「遊蓮房円照と法然の下山─法然の聖的世界への接近─」に詳しい研究がある。いまはそれに依りながら、遊蓮房と佐渡に絞って考えてみることにしたい。

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行空上人と佐渡島(30)

2016年07月22日 | 法本房行空上人試考

 『教行証文類』後序に「建暦辛未の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて」(『註釈版聖典』四七二頁)とある。『拾遺古徳伝』巻八にも「建暦元年〔かのとのひつじ〕十一月十七日入洛す」(『真聖全』三・七五一頁)とある。勝尾寺にとどまっていた法然は勅免によって、建暦二年(一二一一)十一月十七日に京都に帰ることが許されたのである。すなわち流罪の全面解除、赦免である。このとき親鸞たちも同様であったはずである。ただ法然は翌・建暦二年(一二一二)一月二十五日に往生を遂げている。親鸞はしばらく越後にとどまったのち、関東に赴いた。ところが行空の足取りがつかめない。それまでに往生していたのか、あるいは法然が自分の没後に門弟たちのあいだで諍論のおこるのを案じて一所に群会することを禁じた「没後起請文」(『真聖全』四・一五六、五三○頁)、佐渡にとどまったのか、どこかへ移住したのか、まったく不明である。やはり橘正隆氏がいわれるように佐渡で往生したのかもしれない。もしかすると、命あって播磨国に赴き、そこで本間忠綱の帰依を受け、念仏の法門を授けたと考えられなくもない。江頭 亨氏『郷土史物語』一三八頁によれば、行空は諸国を行脚し、やがて天福元年(一二三三)福岡県八女市の「星野村と黒木町の境界にある高牟礼を越して星野に下る途中、縫尾久保という所で卒倒して死亡した」といわれているからである。そして村人たちは手厚くふもとの里に葬った。それが現在、八女市(星野村)の指定文化財になっている高野堂(こうやんどう)「行空上人の墓」である。

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行空上人と佐渡島(29)

2016年07月21日 | 法本房行空上人試考

 それは前に触れた日蓮の遺文からである。日蓮は行空が流罪になった六十四年後の文永八年(一二七一)に同じく佐渡に流罪になっている。『佐渡御書』によると、翌・文永九年(一二七二)正月十六・十七日に印性房という人を棟梁とする念仏者数百人と法論をおこなったという(『昭和定本日蓮聖人遺文』一・六一六頁)。『佐渡御書』はその年の三月二十日に著されている。その印性房がどういう系統の念仏者であったかわからない。『佐渡名勝志』(二五六頁)には橘正隆氏の註が施されているが、そこに次のようにいわれている。

此者(=行空)の布教業績は更に認められず、親鸞の高弟正全坊の来島により、嘉禄元年雑太夏渡の地に誓願興行寺の建立を見るに至つたのが念仏宗道場の初めと見るの外なく、其後仁治三年に至り善空房信念(佐渡院第一皇子彦成親王、初め叡山に学び、後親鸞に師事す)が、親鸞より北陸道衆生化益の付属を受けて此寺に来住するや、法運は益々繁盛に赴いたに相違なく、日蓮遺文に見る印性房、慈道房等も、此門輩と思はるゝ節が濃厚で、(後略)

しかし親鸞の門弟のなかに正全坊や善空房信念という人がいた記録はない。橘正隆氏は行空の「布教業績は更に認められず」といわれるが、佐渡で念仏を説き弘めたのはむしろ行空であったのではなかろうか。『呵責謗法滅罪鈔』には「此佐渡国は畜生の如く也。又法然の弟子充満せり」(『同』一・七八九頁)とある。それは行空の蒔いた念仏の種が花を咲かせたことをいっていると思う。というのは、『一代五時図』に次のようにあるからである(『同』三・二二八七頁)。          

        第一弟子 〔長楽寺 多念〕 隆寛 〔南無房 一切鎌倉の人人〕
            第一   コサカ      善慧房〔当院洛中 一切諸人〕
       第一聖光  〔筑紫九国 一切諸人〕
法然   一條覚明 〔今の道阿弥等〕
       成覚   一念
           法本   一念

すなわち、長楽寺流の隆寛、西山義の證空(善慧房)、鎮西義の弁長(聖光)、九品寺流の長西(覚明)、一念義の幸西の最後に、「法本」と付け足すように記しているのである。日蓮にとって行空は無視できない存在であったのではなかろうか。もっとも隆寛には「南無房 一切鎌倉の人人」、證空・弁長には「一切諸人」、長西には「今の道阿弥等」という割註があって、現在の状況を示している。それらに対して、幸西と行空にはそのような割註がない。ただ「成覚 一念」「法本 一念」とあるだけである。法然の高弟とは認めても、邪義とされる一念義を唱えたからであろうか。あるいは、行空の名を入れているのは、佐渡で行空の流れの念仏者がはびこっていたからではなかろうか。印性房などはそうであると思われる。ただし対論において勝利したから、隆寛たちのような割註を記さなかったものと思われる。
(*この稿、書き直しを要する)

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行空上人と佐渡島(28)

2016年07月20日 | 法本房行空上人試考

 そこで行空の佐渡における活動の実態はよくわからない。橘正隆氏『河崎村史料編年志』二四四頁には「或は佐渡で落命したのではなかろうか」といわれているが、それが佐渡に来ですぐのことであれば、活動などありえないであろう。しかしのちのことであれば、かつて伝道の最前線にいた行空のことであるから、流人の身であるにせよ、多くの人々に念仏を説き弘めたことと思われる。その一端が本間忠綱に念仏の法門を授けたという註記であろうが、確証が得られないことは既に述べたとおりである。
 ただ磯部欣三・田中圭一氏共著『佐渡流人史』六六頁には順徳上皇の臨終に注目されている。平 経高(一一八○~一二五五)の日記・『平戸記』によれば、順徳上皇崩御の一報が京に入ったのは仁治三年(一二四二)十月六日のことであった。そして十月十日の条に次のような臨終の記述がある。

只だ供御を聞こしめさず数日に渉り、九月九日御命を終るべきの由、兼て御祈請有りと云々、人之れを知らず、遂に案じて其の事を得たりと云々、而して件の日、猶ほ叶はずして十日に及ぶ也、御帰京の事、絶てりと思しめしての故と云々、之れに就て存命太だ無益の由、叡慮有りと云々、焼石を焼き、偸も御蚊触(かぶれ)の上に宛てしめ給ふ、人之れを知らざるか。二ヶ日此の如くの間、小物御増し、次第に御身躰尫弱に成らしめ給ふ、両左衛門大夫康光・盛実、御臨終已前に出家し、法衣を着して御前に祇候し、相互に高声に念仏を唱へしめ給ひ、眠るが如く御気絶ゆと云々、女房右衛門督、別当局已下八人出家、十三日御喪礼、兼て皆仰せ置かせらると云云、御念願の旨有りと云々、事趣を聞きて、太だ怖畏有り、御存知の旨、定めて甚深の子細有るか、筆瀉の及ぶ所に非ず、(『史料大成』二四・二二一頁)

これが順徳上皇臨終についての唯一の資料とされている。康光・盛実が称える高声念仏のなかで命終したというのである。両氏は「この日記でわかることは順徳上皇が生前深く念仏を信じられていたということである」といい、そのころの佐渡の念仏について「法本房行空の存在を指摘しておくのがよいだろう」といわれるのである。もっとも行空が、「そのころ存命であったかどうかは知る由もないが」と注意されている。しかしその臨終の様子は『往生要集』以来の臨終行儀とも見られ、単に伝統的な臨終の迎え方をしただけで、一概に行空の影響とはいわれまい。それでも、行空が佐渡に流されて何の活動もなく往生したとは思えないのである。

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行空上人と佐渡島(27)

2016年07月19日 | 法本房行空上人試考

 次に順徳上皇を預かったということであるが、『承久記』上によれば、承久の変のとき東海道を上洛する鎌倉方の先陣を大仏時房がつとめ、軍のなかに「本間左衛門」の名が見える(『岩波新日本古典文学大系』四三・三二九頁)。それは能忠の長男・忠家のことで、能久の兄、忠綱の叔父にあたる。そして鎌倉方が勝利し、後鳥羽上皇は隠岐国、土御門上皇は土佐国、順徳上皇は佐渡国に流罪となり、このとき忠綱が順徳上皇を預かったというのであるが、『承久記』下には次のように述べている。

新院(=順徳上皇)をば、佐渡国へ流し参らす。廿日に九頁へ移しまいらせ給ふ。夜中に岡崎殿へ入せ給ふ。御供には女房二人、男には花山院の少将宣経・兵衛佐教経つけり。(『同』四三・三五六頁)

『吾妻鏡』承久三年七月小二十日の条にも次のようである。

廿日壬寅。陰。新院(=順徳上皇)佐渡国へ遷御したまふ。花山院少将能氏朝臣、左兵衛佐範経、上北面左衛門大夫康光等、供奉す。(『続国史大系』四・八三一頁)

これを『承久記』と対照すると、「宣経」が「能氏」となっているが、同じく「花山院少将」とあるから同一人物であろう。また「教経」と「範経」は単に表記の違いに過ぎないであろう。そして北面の武士・康光が加わっている。順徳上皇の供はこれだけである。しかも能氏は途中で病気になって都に帰っていったようであり、範経も越後の寺泊についたとき病気になって亡くなってしまったという。上皇につきそったのは康光と女房たち四人であった。こうした史料のなかに、忠綱が預かったということは一言も触れられていない。それははたして事実なのであろうか。はなはだ疑問である。もし忠綱が播磨国に住していたのなら、どこで預かったのであろう。それを思うと、『承久記』上に次のような記事がある。

去程(さるほど)に、七月十三日には、院(=後鳥羽上皇)をば伊藤左衛門請取(うけとり)まいらせて、四方の逆輿(さかごし)にのせまいらせ、伊王左衛門入道御供にて、鳥羽院をこそ出させ給へ。(中略)明石へこそ著(つか)せ給へ。其より播磨国へ著(つか)せ給ふ。其より又、海老名兵衛請取(うけとり)参せて、途中までは送り参せけり。(『岩波新日本古典文学大系』四三・三五五頁)

後鳥羽上皇は隠岐国へ向かうのに京を出て、明石に着き、播磨国に入って海老名兵衛が受け取って途中まで送ったというのである。そこに「明石」という地名が出るから、このとき忠綱が関係した可能性も考えられるが、まったく触れられていない。そして播磨国で「海老名兵衛」が上皇を受け取っている。それは脚注によれば上海老名の「海老名季綱か」といわれている。しかし季綱はおそらく相模国にいたであろうから、下海老名の季能のことではなかろうか。あるいは子の家季のことかもしれない。家季が新補地頭になるのは戦後処理の恩賞であるが、父の季能が矢野庄と関わっているから、家季も矢野庄にいた可能性が高い。そこで季能もしくは家季が上皇を受け取ったと考えるほうが自然であると思われる。つまり季能か家季が後鳥羽上皇を預かったのを、忠綱が順徳上皇を預かったとすりかえられたのではなかろうか。忠綱が播磨国にいたのなら、佐渡国へ行く順徳上皇を預かるというのは方角が違うと思うのである。また前に引用した「中興村西蓮寺本間系図」には「播磨守(中略)承久二年順徳院奉預」とあった。承久二年というのは誤植か、何らかの間違いであろう。そのうえ忠綱は「承久三年二月十五日卒」とある。順徳上皇が佐渡国へ流される前である。そこで忠綱が順徳上皇を預かったというのは、いい伝えられているとすれば、伝説にすぎないと思う。
 このように見てくると、行空と忠綱のあいだに接点は見出せない。それでも忠綱にだけ行空から念仏の法門を授けられたという註記があるのは、やはりどこかでそういう事実があったのではなかろうか。順徳上皇を預かったというのは名誉なことであるから、作られる動機がある。しかし行空より念仏の法門を授けられたといっても何らの名誉でもないであろう。にもかかわらず、なぜそのような註記を入れる必要があるのかと考えれば、事実であったと思うからである。ただしそれがいつのことかは後考を俟たざるをえない。

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行空上人と佐渡島(26)

2016年07月18日 | 法本房行空上人試考

 その接点を追って考えてみると、忠綱の註記には「承元元年流人法本坊来りて念仏の法門を授く」(『佐渡名勝志』四七九頁)とある。これを素直に読めば、承元元年(一二○七)に忠綱は佐渡にいて、そこへ流人として行空がやって来たということになるであろう。しかし既に述べたように、そのとき忠綱は佐渡の守護ではなかったし、守護代としても、確認できるのは文永八年(一二七一)の重連のときである。そこで文治元年(一一八五)いわゆる文治の勅許によって頼朝が諸国に守護・地頭が設置したときの地頭であったのかもと思い、安田元久氏『地頭及び地頭領主制の研究』(山川出版社、一九六一年)の巻末に附表として「鎌倉時代地頭表」があるので、その一七頁の「佐渡国」を見てみると、「(未詳)」となっている。「未詳」ということは、忠綱が地頭であった可能性も残されるが、確実にそうといいきれるものではない。
 もう一つ考えておきたいのは、『続群書類従』所収の「本間系図」には能忠の註記に「播磨住」とあり、その子・能久の註記にも「住播磨国」とある。ただしその子・忠綱にはそれがない。しかし「本間系図佐渡本」には能忠の註記に「住播磨」とあり、能久になく、忠綱の註記に「播磨之国住」とある。「本間系図浅羽本」には能忠の註記に「実朝公時任播磨守護」とあり、能久の註記に「佐渡守」とあるが、忠綱の註記に「播磨守」とある。「海老名荻野系図」には忠綱の註記に「住播磨国」とある。
また『佐渡名勝志』所収の「本間系図」には能忠の註記に「播磨住(後略)」とあり、忠綱の註記に「播磨国之住」とある。「中興村西蓮寺本間系図」には忠綱の註記に「播磨守(中略)承久二年順徳院奉預 承久三年二月十五日卒 法名法心」とある。「河原田本間系譜」には能久の註記に「播摩(ママ)に住」とあり、忠綱にはない。また山中観一氏「佐渡本間物語(五)─天暦の治世と安和の変─」(『佐渡郷土文化』五、一九七七年)に掲げる系図には能忠の註記に「文治五年奥舟(ママ)の役の軍功により建仁元年播磨守護」とあり、能久の註記に「佐渡守右衛門尉 播磨住」とあり、忠綱の註記に「播磨守護 右馬允太郎左エ門 法名法心 順徳上皇を預る」とある。これらから注意される点は、能忠・能久・忠綱が播磨国と関わりをもっていたことと、承久の変で佐渡へ流罪になった順徳上皇を預かったということである。
 まず播磨国との関わりからいうと、先の山中観一氏「佐渡本間物語(六)─始祖本間能忠と宗忠の入国─」(『佐渡郷土文化』六・一九七七年)には、頼朝が没したのち北条時政父子の独裁体制がはじまり、「建仁三年(一二○三)能忠を播磨の守護に任じて鎌倉から遠ざけ」といい、「能忠は、子の能久、孫忠綱を伴って播磨国に入り明石月園に住む」といわれていた。しかし能忠が播磨国の守護になった形跡のないことは前に述べたとおりである。また能忠が能久や忠綱とともに播磨国に入ったというのは、傍証する史料がないので史実かどうかわからない。それでも系図の多くに「播磨」ということが註されているから、やはり本貫である相模国から播磨国に移り住んだと考えられなくもない。ただ播磨国といえば、海老名氏が想起される。海老名の姓を名のるのは季兼からで、その子・季定のあと、数家に分かれ、本間氏はその一つである。簡単に系図を示せば次のようである。

                     ┌季久〈上海老名〉─季綱
                   ├能忠〈本間〉───能久─忠綱
  季兼─季定 ├有季〈国分〉
                 ├季能〈下海老名〉─家季 
                    └季時〈荻野〉

このなか下海老名の季能が播磨国に進出している。『吾妻鏡』文治二年(一一八六)六月二十日条には、能季(=季能のこと)が地頭でないにもかかわらず、地頭と称して歓喜光院領の播磨国矢野庄別符に対して、押妨を加えたという理由で訴えられている。矢野別符というのは矢野庄別名のことで、現在の兵庫県相生市である。このとき本貫は相模国にあるのに、なぜ季能は播磨国の矢野庄に押妨を加えたのであろうか。播磨国に何らかの関係をもっていたとしか考えられない。そうとすれば、能忠・能久・忠綱の三代も同じ一族として播磨国と関係があったのであろう。そこで移り住んだのかもしれない。ただし山中観一氏がいわれる明石月園というのは現在の兵庫県明石市であろうが、具体的にどこであるのかわからない。なお『相生市史』第一巻・五五三頁によれば、季能の子・家季は承久の乱のあと、その恩賞として矢野庄の地頭職を宛行(あてが)われたとして、「海老名氏が新補地頭であったことはほぼまちがいない」といわれている。すなわち家季から正式に播磨国矢野庄の地頭になったのである。

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行空上人と佐渡島(25)

2016年07月17日 | 法本房行空上人試考
 大仏氏が佐渡の守護であったと確実にいえるのは宣時のときである。それを傍証するものは日蓮の『一谷入道御書』である。そこに次のようにいわれている。

文永八年〔太蔵癸亥〕九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが、忽に頸を刎らるべきにてありけるが、子細ありけるかの故にしばらくのびて、北国佐渡の嶋を知行する武蔵の前司預りて、其内の者どもの沙汰として彼嶋に行き付てありしが、(『昭和定本 日蓮聖人遺文』二・九八九頁)

そのなかの「北国佐渡の嶋を知行する」とは佐渡の守護のことであり、「武蔵の前司」とは大仏宣時のことである。したがって日蓮が佐渡へ配流となった文永八年(一二七一)には大仏宣時が佐渡の守護であったということがわかる。その預かりとなったのである。そして『種種振舞御書』には、

さがみ(相模)のえちと申すところへ入らせ給へと申す。(中略)午の時計りにえちと申すところへゆきつきたりしかば、本間の六郎左衛門がいへに入りぬ。(『同』二・九六七~九六八頁)

といわれている。相模国の依智というところへ行くことを申し渡され、本間六郎左衛門すなわち本間重連(生没年不詳)の家に入ったのである。そして、

同十月十日に依智を立つて、同十月二十八日に佐渡国に著きぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨る所に一間四面なる堂の仏もなし。(後略)(『同』二・九七○~九七一頁)

といわれている。十月十日に依智を出発し、二十八日に佐渡へ着いて、重連の家が後ろに見える塚原というところの一間四面ほどの堂に入ったのである。これによって宣時は、日蓮を被官の本間重連に預け、重連が佐渡へ送り、自分の家の前に住まわせたことがわかる。それを日蓮は「守護所」と呼んでいる(『同』二・九七三頁)。重連は宣時の守護代という立場にあったのであろう。

 ところで、『佐渡相川郷土史事典』六二四頁は重連について四種類の系図を挙げている。
(一)「本間系図」「本間系図佐渡本」
能久-忠綱-久綱-宣基-泰綱-重久-重連とし、
(二)「本間略系図」
 能久-忠綱-頼綱
       |
       -宗忠-忍達-久経
             |
             -重連
(三)「小野系図」は
 義久-源左衛門尉-新左衛門尉
          |
          -次郎兵衛
          |
          -重連
(四)相州依智の寺記
 重直-重連
    |
    -直重(依智三郎)
そのいずれが正しいのか、わからない。

ともあれ、重連は守護代といっても、佐渡に住みついていたわけではなかったようである。先の『種種振舞御書』に次のような記述がある。それは後述する文永九年(一二七二)正月十六日の法論のあとである。

皆人立ち帰る程に、六郎左衛門も立ち帰る。一家の者も返る。日蓮不思議一(ひとつ)云はんと思ひて、六郎左衛門の尉を大庭よりよび返して云く、いつか鎌倉へのぼり給ふべき。かれ答て云く、下人共に農せさせて七月の比(ころ)と云云。日蓮云、弓箭とる者はをゝやけの御大事にあひて所領をも給り候をこそ、田畠つくるとは申せ。只今いくさ(軍)のあらんずるに、急ぎうちのぼり、高名して所知を給はらぬか。さずがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし。田舎にて田つくり、いくさにはづれたらんは恥なるべしと申せしかば、いかにや思ひげにて、あはててものもいはず。(『同』二・九七五頁)

すなわち、法論に立ち会った重連が帰ろうとするとき、日蓮は大庭で呼び止め、「いつ鎌倉へ帰るのか」と問うと、「下人たちに農をさせて七月ごろ」と答えた。日蓮はさらに「弓矢をとる者は公の大事に所領をたまわることが大事だ。田畑を作るとはいえ、只今いくさがはじまろうとしているのだから、急いで鎌倉へ上り、名を挙げ所領をたまわらないのか。あなたは相模で名のある武士である。田舎で田を作り、いくさにはずれると恥になるであろう」というと、重連はものもいわなかったというのである。これによって重連は佐渡と鎌倉を往き来していたことがわかる。そして実際、

二月の十八日に島に船つく。鎌倉に軍あり、京にもあり、そのやう申す計りなし。六郎左衛門の尉、其夜にはやふね(早舟)をもて、一門相具してわたる。(『同』二・九七六頁)

とある。すなわち、二月十八日に連絡があって、いくさがはじまったことを知らされ、重連はその夜のうちに早船をもって一門をしたがえ、鎌倉へ向かったというのである。

こうして、重連は守護代といっても佐渡に住みついていたわけではなかったのである。田中圭一氏編『佐渡歴史文化シリーズⅨ 佐渡古城史』上・六三頁には、田中圭一氏の考え方として「本間氏が佐渡の国へはいりこむのは、元寇のあとから北条氏滅亡までの間(一二八○~一三三○)とみなければならない」といわれている。

そうすると、行空が一二○七年に佐渡へ流され、本間忠綱に浄土の法門を授けたというのは怪しくなってくる。しかし、すべての系図ではないにせよ、忠綱にだけそのような註記があるというのは、やはり何らかの接点が行空と忠綱とのあいだにあったのではなかろうか。  
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