天上の月影

勅命のほかに領解なし

寂光土義の論文(6)

2016年04月30日 | 法本房行空上人試考
        五

 そうした念仏に自力と他力を分けるのは行空だけではない。他の有力門弟たちを見てみても、隆寛(一一四八~一二二七)は『具三心義』に「念仏に二種有り。一に本願の念仏、二に非本願の念仏(65)」と分別し、とくに『自力他力事』には「念仏の行につきて自力・他力といふことあり(66)」と明言して、自力の念仏と他力の念仏について詳述している。

 證空も『女院御書』上巻に「但し念仏といふは、仏を念ずるなり。仏を念ずるといふは、其仏の因縁をしりてその功徳を念ずるを、真(まこと)の念仏とはいふなり」といって、真(まこと)ならざる念仏があることを示唆している。続いて「しかるに念仏について二つあり。一には諸経の念仏、二には観経の念仏なり」といい、諸経の念仏のなかに「たまたま名号を称念すといへども、倶にこれ定散の心に住して三昧の位にいたらん事を望みとす」る念仏を示している(67)。それは三昧に至る方便としての念仏であって、定散心すなわち本願を信じないで称する念仏であるから、真(まこと)の念仏に対する自力の念仏ということになろう。下巻には「仏の御名をとなふれども、心もみだれしづかならぬには、いかに申すとも来迎にあづかるまじきぞなど思ひ候は、ひとへに自力の念仏にて、弥陀の本願にたがふ行にて候なり(68)」と、「自力の念仏」という語が出る。そして『述成』には「念仏といふは他力なり。他力といふは我が心を本とせず(69)」とあって、我が心をたのまない、つまり本願をたのむ他力の念仏を示している。『白木念仏御法語』に「ほれぼれと南無阿弥陀仏とゝなふるが、本願の念仏にてはあるなり(70)」というのがそれであって、證空もまた他力の念仏と自力の念仏を見ているのである。

 幸西も凝然の『浄土法門源流章』に引用されている『称仏記』に「弥陀に二種有り。一に化身、像観の弥陀是れ也。(中略)二には報身、是れ別意弘願の弥陀也」と分け、前者のなかに「今此の観経の所説の称名は彼の仮立の弥陀の名号也。若し此の行に依て行ずる者は仮立の生を得べし。仮立とは胎生也」とある。それを凝然は「化身を称念して胎生の報を受け化の浄土に生ず。報身を称念して化生の報を受け報の浄土に生ず。像を念ずるは唯だ彼の仏の本願に順ず。真実の如来の本願に契ふに非ず。報仏を称念すれば正しく本願に契ふ」と釈している(71)。そのなかの「胎生の報」「化の浄土」や「化生の報」「報の浄土」については後述するが、いま少しだけ触れておくと、「胎生」「化生」というのは『大経』胎化段に説かれ、因として示されるのは疑惑仏智と明信仏智である。幸西はその仏智と冥合する一念を立てるのが特徴であるが、仏智の顕現が本願であるから、それを疑うか信ずるかである。疑えば凝然がいう「本願に契ふに非」ざる念仏となり、信ずれば「本願に契ふ」念仏となる。また『玄義分抄』には四種捨行を述べる最後に「口称を捨てゝ心念を行せしむる事は大経に依る(72)」といっている。それは一見すると口称と心念のあいだに廃立をかけているようであるが、不如実の称名と如実の称名のことといわれている(73)。すなわち本願に契わないか契うかであって、いいかえれば自力の念仏と他力の念仏ということになるであろう。

 親鸞も「真仏土文類」に「願海に真あり仮あり(74)」といって、四十八願のなか、とくに第十八願と第十九願と第二十願を生因を誓われた願と見て、第十八願が真実、第十九願と第二十願を方便と見る。そして第十八願を開説したのが『大経』で弘願と呼び他力念仏往生が誓われている。第十九願を開説したのが『観経』で要門と呼び諸行往生が誓われている。第二十願を開説したのが『小経』で真門と呼び自力念仏往生が誓われているとする。さらに真実の第十八願を第十七願、第十八願、第十一願、(第二十二願)、第十二願、第十三願の五願(六願)に開き、『教行証文類』の「教文類」「行文類」「信文類」「証文類」「真仏土文類」の前五巻をあらわし、方便の第十九願・第二十願によって第六巻の「化身土文類」をあらわした。その真門釈のなかで自力念仏往生の法義が明かされるが、それは「おのおの助正間雑の心をもつて名号を称念す。まことに教は頓にして根は漸機なり」「本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに」とあるように(75)、所修の行体は弘願と同じく南無阿弥陀仏であっても能修の心が自力疑心であることから成立する。すなわち信によって他力念仏となり、疑によって自力念仏となるのである。『高僧和讃』「曇鸞讃」に「如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり(76)」とあるのがそれである。その自力念仏を真門という一つの法門としたのが親鸞であった。

 こうして隆寛、證空、幸西、親鸞も念仏に自力と他力を見ている。それは先ほどの法然の法語を承けたものであろう。そこで行空が念仏に二種を立てたというのは自力の念仏と他力の念仏のことであったといっても特別なことではなかったといえよう。むしろ彼らと同じ思想傾向にあったといえるのではなかろうか。


(65)『具三心義』巻上(平井正戒氏『隆寛律師の浄土教』〈金沢文庫浄土宗典研究会、一九四一年〉遺文集・二頁)
(66)『自力他力事』(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』一三七七頁)
(67)『女院御書』上巻(森英純氏編『西山上人短編鈔物集』一九五~一九六頁)
(68)『女院御書』下巻(森英純氏編『西山上人短編鈔物集』二三二頁)
(69)『述成』(森英純氏編『西山上人短編鈔物集』八二頁)
(70)『白木念仏御法語』(森英純氏編『西山上人短編鈔物集』二四五頁)
(71)『浄土法門源流章』(『浄土宗全書』一五・五九二~五九三頁)
(72)『玄義分抄』(梯實圓氏『玄義分抄講述─幸西大徳の浄土教─』〈永田文昌堂、一九九四年〉付録・四六四頁)
(73)梯實圓氏『玄義分抄講述─幸西大徳の浄土教─』(永田文昌堂、一九九四年)七六、三五三頁参照。
(74)「真仏土文類」(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』三七一頁)
(75)「化身土文類」本(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』三九九、四一二頁)
(76)『高僧和讃』「曇鸞讃」(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』五八七頁)
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『教行証文類』序説(8)

2016年04月29日 | 教行証文類序説
     二、立教開宗の根本聖典

 親鸞の思想を知るには、幸いにも資料が豊富である。数多くの著作があるからである。なかには真筆ものこされている。それらを列挙すれば次のようである。
  顕浄土真実教行証文類
  浄土文類聚鈔
  愚禿鈔 
  入出二門偈
  浄土和讃
  高僧和讃
  正像末和讃
  三経往生文類
  尊号真像銘文
  一念多念文意
  唯信鈔文意
  如来二種回向文
  弥陀如来名号徳
  親鸞聖人御消息
このなかで親鸞の主著とされるのは『顕浄土真実教行証文類』である。浄土真宗の教義が組織体系化されている。親鸞の思想すなわち浄土真宗という教法を知るにはまずもってこれに依らねばならない。この書を著したから親鸞は浄土真宗の開祖と仰がれるのである。ただこの書は一部六巻あって大部であり、しかも漢文体であって、ほとんどが経・論・釈の引用のうえ親鸞独自の訓みがなされる場合があって一筋縄ではいかない難解な書である。そこで入門書として和文体の『歎異抄』が用いられることが多い。とくにその前半部分は師訓篇と呼ばれ、親鸞が語った法語が記録されている。著作には見られないものもあるから、それはそれでいいが、『歎異抄』は親鸞の直弟子であった唯円房(?~一二八八、一説に一二二二~一二八九)が著したものである。親鸞の著作に準ずるとはいえても、親鸞自身の著作ではない。やはり親鸞の思想は親鸞自身の著作を読むべきである。そのなかで『顕浄土真実教行証文類』は主著であり、浄土真宗とは何かを説くものであるから、いまはこの書を取り上げたいのである。
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『教行証文類』序説(7)

2016年04月28日 | 教行証文類序説
それと関連して『恵信尼消息』によれば、親鸞は関東へ移住する途中、上野国の佐貫(現在の群馬県邑楽郡板倉町板倉)で三部経千部読誦をはじめたが四、五日でやめ常陸へ向かったといわれている。その三部経千部読誦は衆生利益のためであったという。当時は干ばつによる飢饉で、多くの餓死者を出し、宿場町である佐貫の周辺は悲惨な状態にあったからである。親鸞はそれを見て、読経の功徳によって天変地異が早くおさまってくれるよう、また亡くなっていかれた人が少しでも幸せなところへ行ってくれるよう願いを込めて読経したのであろう。梯 實圓氏は『顕浄土方便化身土文類講讃』(永田文昌堂、二○○七年)に「そのような経典読誦によって国家の安穏を祈ることは律令に規定されていた寺院と僧侶に課せられていた義務だったのである。また民間ではそれぞれの在所に住んでいる念仏聖や、持経聖、あるいは山伏や、遊行聖といった民間宗教者たちもまた、民衆の要請を受けて読経したり、祈祷したりして、さまざまな宗教的要求に応えていたのであった。それはさまざまな形態を取りながら古代からつづいてきた習俗だったのである」(五九~六○頁)といわれている。いわば律令僧や聖たちの常の道であり、社会通念であったのである。しかしそれを四、五日でやめたというのは、そうした社会通念を払拭して自己批判し、自己改革していったのであって、親鸞が念仏一筋に生きていた証拠である。三部経読誦は自力の行であるから、親鸞はまだこの時点で第十八願に転入していなかったという人がいるが、そうではない。梯 實圓氏はつづいて「その人がどっぷりとつかっている俗信や習俗を突き破っていくには時間がかかるのである」といい、「三部経読誦を通して衆生利益が成立すると考えていた呪術的な俗信、習俗から脱却して、本願の教法に目覚めた信心の行者を育てることが自分に与えられた使命であると気づいていったのは信心の智慧が確実に聖人を動かしていたからである。『恵信尼消息消息』の伝説は、聖人の信心が如何に透徹したものであったかを物語っている挿話であるというべきであろう」といわれている(六○頁)。ともあれ、このことによって親鸞は越後から信濃国を通って常陸へ赴いたことがわかる。そして善光寺には多くの親鸞に関する伝説が伝わっているから、善光寺を経由したのであろう。また昭和三十七年(一九六二)に板倉町にある真言宗豊山派に属する宝(法)福寺から寄木造、像高八十センチの性信房の座像が発見された。その胎内銘は、たとえば今井雅晴氏の『親鸞と東国門徒』(吉川弘文館、一九九九年)一二四~一二五頁に翻刻されている。そこに「先師横曽根性信上人」とあるのである。したがって佐貫は性信房の拠点の一つであったことが知られ、やはり親鸞を関東へ招待したのは性信房であったといえるであろう。ただ私が疑問に思うのは、三部経千部読誦を中止して、そのまま常陸国へ向かったということである。「自信教人信」こそ自分の使命であると気づいたというなら、なぜ佐貫で本願の念仏を伝道しなかったのであろうか。『恵信尼消息』には「佐貫と申すところにて、よみはじめて、四五日ばかりありて、思ひかへして、よませたまひて、常陸へはおはしましまして候ひしなり」(『註釈版聖典』八一七頁)とあって、佐貫で伝道したというような書きぶりではない。梯 實圓氏は「親鸞聖人の生涯(26) 流罪赦免と関東移住(2)」(『一味』七一八、二○一○年)に、三部経千部読誦について、

それを実行するには、寺院か、少なくとも仏像が安置されていて、修法ができる道場に籠もらなければなりません。しかし見ず知らずの、それも妻子を連れた旅の「俗聖」が、いきなり願い出てそれを受け容れてくれる寺院はないはずです。というのは、たとえば浄土三部経を一回読むのに一時間半という超スピードで読んだとしましても十回読むのに十五時間はかかります。食事や休憩を入れると一日十回が限度でしょう。それでも千部読誦するには、百日かかります。もし百日で満願にしようとすると、堂籠もりをしなければならないし、そのためには介添え役の僧侶が必要でしょう。そしてその間、その寺は一般の行事を休まなければなりませんし、同行している聖人の妻子の生活の面倒を誰かが見なければなりません。
こうして三部経千部読誦を実行するには、少なくとも、三ヶ月以上もその地に滞在し、また強力な支援者がなければできないことだと思います。またもし土地の有力者の要請を受けてはじめたことだとしますと、わずか四、五日で中止することは、その依頼者を裏切るこになりますから決してできません。したがって三部経読誦は誰かに依頼されたことではなく、聖人の自発的な行為であったとしなければなりません。

といわれている。そうすると親鸞は自発的にはじめ、自発的に中止したことになり、まことに勝手な行為といわねばならないであろう。しかし、四、五日でも読誦をしたのであるから、何らかの支援があったのではなかろうか。それは性信房であったかもしれないが、そうするといわゆる「お布施」が発生する。私は突飛な発想をすれば、それを義援金のような形で残すため佐貫をあとにしたのではないかと思う。佐貫の惨状が「自信教人信」の伝道を許す状態ではなかったからであると考えるがどうであろうか。

なお『恵信尼消息』のこの逸話は『口伝鈔』第十一条にもある。しかし両者には多くの点で相違がある。それについては梯 實圓氏『聖典セミナー 口伝鈔』(本願寺出版社、二○一○年)一八二~一八五頁に詳述されているので参照されたい。

こうしたように親鸞に関する歴史的な問題は多々あるが、いまはそれより親鸞の思想を読み解きたいと思う。
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『教行証文類』序説(6)

2016年04月27日 | 教行証文類序説
また親鸞は『恵信尼消息』によれば建保二年(一二一四)の四十二歳のときに越後から関東に移住したことが知られる。ただしその理由については学者のあいだで諸説あって定かではない。そうしたなかで細川行信氏は『真宗成立史の研究』(法蔵館、一九七七年)九四~九五頁に、(一)三善氏との縁故関係、(二)井上善性の誘導という二つの仮説を立てられている。そのうち梯 實圓氏は「親鸞聖人の生涯(27) 流罪赦免と関東移住(3)」(『一味』七一九、二○一○年)に(二)の善性招待説を「考慮すべき説です」と注目されている。それは、下総の下川辺庄の磯部に善性の弟子・明性がのちに住したこと、親鸞が常陸に入国した当初に住んでいたと考えられる常陸の下妻の南方近い所にある蕗田に善性が居住したこと、のちに親鸞が移住する稲田の草庵の伝統を継いでいる越後・高田の浄興寺が善性を開基とすること、親鸞の消息集のうち最初の編集が善性によってなされたこと(善性本『御消息集』)、信州・飯山の西教寺所蔵の『寺社領並由緒目録』の文中に「開山親鸞聖人建保年中東関斗藪之砌出羽守頼季苗裔信濃国領主井上越後守善勝信順帰依之余奉一子於聖人給法名於善性附与十字名号列座九番弟子聖人依縁占常州稲田之幽栖善性求近居総州久我之磯部」という一節があるからである。そして梯 實圓氏は、親鸞の関東移住の根本動機を「選択本願念仏、いいかえれば法然聖人から伝授された専修念仏の伝道にあったことは明らかです」といわれ、「その本願念仏の伝道には、決して念仏者以外の力を借らないということも生涯一貫した基本姿勢でした」とし、念仏者でもない有力者の力を借りることを前提に関東へ進出したとは考えられないとしたうえで、

聖人を関東に迎えたのは、まさに名もない念仏聖たちだったと思います。恐らく信濃の善光寺などを本寺などを本寺としている勧進聖たちの集団で、その中心人物は、飯沼あたりを根拠地として、常陸、下総に勧進圏を広めつつあった性信房や、先に述べた下総蕗田の善性房たちであったと考えられます。
彼等は『選択集』の伝授を受け、その真影まで拝受しているという親鸞聖人から、専修念仏の伝授を受けようとしたのです。それによって、法然聖人の流れを汲む念仏者としての信念と、聖社会での位置づけを確立したかったのだと思います。そこでかねてから親鸞聖人の教えを受けていた性信房が代表して、聖人を越後までお迎えに参上し、関東へお供をしたと考えられます。

といわれている。このなかで性信房(?~一二七五)が親鸞を関東へ招待したということは、梯 實圓氏が講義のなかでいつもいわれていたことである。性信房は横曽根門徒のリーダーで、その系統のなかで編纂された『血脈文集』の終わりには、『教行証文類』後序の親鸞の回心から『選択集』の書写・真影の図画を許された一連の文を引き、
  右以此真文性信所尋申早預彼本尊也。
といい、
  源空聖人奉譲親鸞聖人本尊銘文
として善導(六一三~六八一)の『往生礼讃』本願取意の文を記し、最後に「釈善信聖人以御真筆令書之也」とあり、次の行に、
  建保四〔丙子〕歳七月下元旦奉令書之
と記している(『真宗聖教全書』二・七二二~七二三頁)。これは唯善事件と関わりがあると思われるが、詳細は別の機会に譲る。ともあれ、建保四年(一二一六)に性信房は親鸞から法然の真影を預かったようである。おそらく写しであろうが、性信房が親鸞の古い弟子であり信頼を受けていたことがわかる。二十四輩の筆頭に性信房を挙げるのはそのゆえであろう。親鸞の一番弟子であった可能性が高い。板東性純氏は伝説として、性信房ははじめ法然の説法を聞いて感動し、弟子となることを願い出たが、年齢が五十以上も離れているので親鸞を紹介され、その弟子になったといわれている(板東性純・今井雅晴・赤松徹真・大網信融氏『親鸞面授の人びと─如信・性信を中心として─』〈自照社出版、一九九九年)九一~九三頁)。今井雅晴氏『親鸞と東国門徒』(吉川弘文館、一九九九年)はそれが事実とすれば、性信房の十八歳、親鸞の三十二歳のときになるといわれている(一一一頁)。梯 實圓氏はその性信房が親鸞を関東に招いたことについて、次に述べる上野国の佐貫が彼の根拠地の一つであったことを根拠とされるが、私は後世の伝記としても、『正統伝』巻四に「四十一歳」の「同年十一月、常陸国小島郡司武弘が許より越後へ使をたてまつり、頻りに招請申されけり、聖人許応ありけるに、年の内は雪深しとて、明年の春御迎をまヰらせらる」とあり、「四十二歳、二月上旬、当国横曽根の性信房を御迎として、越後へまヰらせけり」(『真宗全書』六七・三七六頁)といっていることに注意されるのである。『正統伝』は性信房と同じく親鸞から信頼を受けていた真仏(一二○九~一二五八)の系統である高田派の正統性を述べるものであるにもかかわらず、性信房が越後へ迎えに行ったといっているのは、そういう伝承が脈々と伝えられていたからではないかと思うのであるが、いかがであろうか。
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『教行証文類』序説(5)

2016年04月26日 | 教行証文類序説
たとえば親鸞の吉水時代における有名な信心一異の諍論である。『歎異抄』後序と『御伝鈔』上・第七段に記されている。両者の根幹は同じであるが、表現などに少し相違がある。しかしいまはそれについて問題にしようとするのではない。疑問に思うのはその時期である。伝存覚(一二九○~一三七三)の『親鸞聖人正明伝』巻二下には「是は建永元年丙寅秋のことにてありけるとぞ」(『真宗全書』六七・三○七頁)と記している。また五天良空(一六六九~一七三三)の『親鸞聖人正統伝』巻三には「三十四歳、八月十六日」(『同』六七・三六四頁)と記している。そこでこれらによれば、諍論がおこったのは親鸞の三十四歳にあたる建永元年(一二○六)八月十六日ということになる。この時期について、たとえば梯 實圓氏『聖典セミナー 歎異抄』(本願寺出版社、一九九四年)には、

 もちろんそれを確認する資料はありません。しかし、もし『歎異抄』に記されているように親鸞聖人が「善信房」とよばれていたとすると、元久二年(一二○五)七月二十九日、三十三歳以降のことになります。この日に聖人は、それまで名のっておられた綽空を改めて、善信と名のることを法然聖人に認めてもらっているからで、そのことは『教行証文類』の後序(『註釈版聖典』四七二頁)と、それを註釈された存覚上人の『六要鈔』(『真宗聖教全書』二・四四○頁)に詳しく述べてあります。
また三十五歳いなられた建永二年(承元元年)二月上旬には、念仏停止の勅命によって両聖人とも検挙され、それぞれ流罪になります。その前一ヶ月ぐらいは、吉水の草庵も物情騒然としていて、とても晏然と法義を語りあうような雰囲気ではなかったから、やはりこの諍論は、建永元年ごろとみて大きなちがいはなかろうと思います。(二八九~二九○頁)

といわれている。『正明伝』や『正統伝』の説を認められているのである。ただその根拠になっている「善信」の改名については、実は「親鸞」ではなかったかというのが前に触れた最近の新しい説である。その当否はともかく、改名は親鸞が法然から『選択集』の付属を受け、真影の図画を許されたことを契機としている。諍論が建永元年とすれば、その翌年におこったことになる。つまり『選択集』付属・真影図画が先で、諍論は後になる。私はこれが疑問なのである。親鸞の「善信(=親鸞)が信心も聖人(=法然)の御信心も一つなり」という主張を聞いて、梯 實圓氏もいわれるように、法然は一度もいったことのないことであったので驚嘆し、「如来よりたまはりたる信心」という教語をもって親鸞の主張を理由づけていったのである。もっとも法然はそれを教義論的に展開することはなかったが、親鸞はのちにその教語を源泉として本願力回向という教義体系を樹立していった。そこで私は、師弟一味の信心と主張した親鸞に法然は驚嘆し、『選択集』付属・真影図画を思い至らせたのではなかろうか。いいかえれば、信心一異の諍論によって法然は親鸞の力量を見抜き、『選択集』を付属し、真影の図画が許したと思うのである。そうすると諍論は元久二年以前となる。そのとき法然は「綽空」と呼んでいたかもしれない。それを親鸞は『歎異抄』の著者である唯円(?~一二八八、一説に一二二二~一二八九)に語るときに「綽空」ではわからないから「善信房」といいかえたとも考えられる。いかがなものであろうか。
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『教行証文類』序説(4)

2016年04月25日 | 教行証文類序説
これらに対して山田雅教氏は、
(1)中世における出家得度の様相は、実に多様である。親鸞が出家したという九歳という年齢はやや若いとは言えるが、八歳で出家した例もあり、決して特異なものではない。
(2)得度の師になるには、必ずしも伝法潅頂を受けている必要がなかった。一身阿闍梨に補せられた段階で、弟子をとることができたと考えられる。親鸞が九歳のとき慈円は未潅頂であったが、すでに一身阿闍梨に補せられていたから、この点では親鸞の得度の師となるのに差障りはない。
(3)治承五年当時の慈円は、遁世生活に惹かれつつも、遂に交衆に踏み切った時期であった。したがって、親鸞の得度を執行することは十分可能であった。
(4)慈円はまだ青蓮院の門主ではなく、門跡相続も不確定ではあったが、すでに法性寺座主に補せられており、将来的に天台座主になるというレールは敷かれていた。
(5)一生を天台僧として暮らした親鸞の弟尋有でさえも、若年の行実は『門葉記』に記載がない。この例からすると、親鸞の行実が『門葉記』に見えないのは何ら怪しむことではない。
(6)建永の法難に関しては、親鸞には適当な預かり人がいたため、慈円はその身柄を預からなかったのではないか。
(7)当時の門跡や院家の組織と運営は、未解明な点が多い。平氏が例として挙げた覚如や存覚は、親鸞とは百年以上も時代が下がり、比較対象としてふさわしくない。それよりも、親鸞の猶父範綱の能力と、治承五年というタイミングを考えたい。
(8)法名の命名は、様々なものがある。慈円も弟子の法名をつける時、みずからの一字を入れるかどうかは五分五分であった。したがって、「範宴」という法名のうち「宴」は師のものである可能性が高いという議論は成り立たない。
と述べられている。ただし私見として、親鸞の出家の季節を春とすることについては、「覚如の作為的な感じがするを拭いえない。秋や冬であった考えられるように思われる」といわれている。

この山田雅行氏の論に対して、平 雅行氏がさらに反論されるかもしれないが、いちおう平 雅行氏の疑念は晴れたといっていいであろう。さかのぼれば中沢見明氏の疑念の解消でもある。それでも親鸞の生涯には多くの疑念が残されている。たとえば「親鸞」という名をめぐって最近、新しい説が出されている。それについては後述するが、私にもいくつか疑問に思うところがある。そのうち二、三を記しておこう。
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『教行証文類』序説(3)

2016年04月24日 | 教行証文類序説
(昨日の投稿について、その後の勉強により、修正・補筆したい点があるが、別の機会に譲ることにする)

そのように中沢見明氏による疑いは次々と覆されていったのであるが、ただ『史上の親鸞』において「『親鸞伝絵』上第一段の、青蓮院得度の記事にも、疑ふべきものがあると思ふ。(中略)慈円の門に入られたと云ふことも、よい加減のことを、書いたのかもしれぬ」(五四頁)といわれている。『親鸞伝絵』に親鸞が九歳の春に慈円(一一五五~一二五五)を師として得度したいう記述を疑われているのである。これについて近年、平 雅行氏が『歴史のなかに見る親鸞』(法蔵館、二○一一年)等に同様の疑念を示されている。しかし山田雅教氏が「親鸞の出家得度」(『高田学報』一○三、二○一五年)において平 雅行氏の論点を一つ一つ検証されているので、それを見ておきたい。

まず平 雅行氏の論点は山田雅教氏によれば次のようである。
(1)中世の日本で顕密僧になるには、入室→出家→受戒という段階を踏んだ。入室は五歳から十二歳、そして十一歳から十三歳くらいで出家している例が多いので、親鸞が九歳で出家得度したとすればかなり異例である。
(2)親鸞が出家したとされる治承五年(一一八一)春の段階では、慈円は道快と名乗っていた。まだ伝法潅頂も受けていず、いわば一人前の密教僧ではなかったから、そうした人物が弟子をとるか疑問である。
(3)当時の慈円は精神的に不安定で、遁世して籠居したいと思っていた。慈円が延暦寺の僧侶としてやっていく決意を固めるのは、その年の冬、慈円と名を改める頃のことである。
(4)当時は慈円の政治的な地位も安定せず、青蓮院の門主ではなかったし、門跡相続も不確定であった。その地位が安定するのは、翌寿永元年(一一八二)に無動寺検校となり、また伝法潅頂を受けてからのことである。
(5)親鸞が九歳から二十九歳まで慈円のもとにいたのであれば、『門葉記』に記載がないはずがない。
(6)建永の法難に際し、j慈円は親鸞に対して何の援助もしていない。もし入室の弟子であれば、親鸞の身柄を預かったのではないか。
(7)親鸞の家格では直接門跡に入室せず、院家クラスに入室するはずである。覚如も存覚も、院家に入室している。
(8)親鸞が比叡山時代に名乗った「範宴」という法名のうち、「範」は父有範の一字であるが、「宴」は入室の師のものである可能性が高い。この字が付いた僧侶は大勢いるから、親鸞はそうした僧のもとに入室したのではないか。

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『教行証文類』序説(2)

2016年04月23日 | 教行証文類序説
それは主として歴史的研究であって、とくに注目されるのは中沢見明氏の『史上の親鸞』(洛東書院、一九三三年)である。氏は本願寺派の僧籍にありながら、それまで伝えられてきた伝説や伝承に対して徹底的に疑っていったのである。たとえば、覚如(一二七○~一三五一)が著した最古の親鸞の伝記である『親鸞伝絵(=御伝鈔)』のはじめに、

それ聖人の俗姓は藤原氏、天児屋根尊、二十一世の苗裔、大織冠[鎌子内大臣]の玄孫、近衛大将右大臣[贈左大臣]従一位内麿公[後長岡大臣と号し、あるいは閑院大臣と号す。贈正一位太政大臣房前公孫、大納言式部卿真楯息なり]六代の後胤、弼宰相有国卿五代の孫、皇太后宮大進有範の子なり。(『註釈版聖典』一○四三頁)

とあって、親鸞は有国の五代の孫・有範の子としている。『尊卑分脈』によれば、

有国—資業—実綱—有信—有範

とあるから有国五代の孫は一致している。ところが有範を有信の子であるとすると、年代が合わないのである。かりに有信が四十歳のときに有範が生まれたとすれば、有範は九十六歳のときに親鸞を生んだことになるというのである。そして後世の『本願寺系図』には、

有国—資業—実綱—有信—宗光—経尹—有範

とあって時代がよく相応しているが、これによれば有国七代の孫になって、『親鸞伝絵』の有国五代の孫とは一致しない。そうしたことから氏は「覚如上人は自家(日野)の祖先有信の子に、有範なる世を早うして子孫も残つて居なかつた人があつたから、年代等の考へもなく、無造作に有範の子として終つたのではあるまいか」(四六頁)と大胆な推測をなされたのである。つまり『親鸞伝絵』の記述は偽系図だというわけである。しかし山田文昭氏は『真宗史稿』(法蔵館、一九六八年復刊)に、古本『本願寺系図』と「大体に於て原形が伝はつて居ると思ふ」『尊卑分脈』の貞嗣流の下が一致し、中沢見明氏は『尊卑分脈』の内麿流の下のみを論じて貞嗣流の下を見ていないと指摘され、「たゞ内麿流の系図を中心として論じ、且つ親鸞伝絵に対して反感を抱いた結果、これを否定せんとする論者に同意することは出来ない」(一八一頁)、「要するに『史上の親鸞』の説は、たゞ筆者の穿鑿に過ぎた憶測であつて、伝絵の系譜を否定すべき力がないと思ふ。斯くて私はこの伝絵の俗系を支持せんとするものである」(一八二頁)といわれている。古田武彦氏『前掲書』によれば、有国五代の孫とは、

有国—資業—(1)実綱—(2)有信—(3)宗光—(4)経尹—(5)有範

であって、親鸞伝絵』の記述は正しいと認められるといわれている(二七頁)。
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『教行証文類』序説(1)

2016年04月22日 | 教行証文類序説
   一、はじめに

親鸞(一一七三~一二六三)という名は日本の仏教史上、浄土真宗の開祖として燦然と輝いている。今日、真宗門徒はもちろんのこと、そうでなくても一般教養として、その名を知らない人は少ないであろう。そのように名をとどろかせている親鸞であるが、在世中から蓮如(一四一五~一四九九)の出現まではほとんど無名な存在であった。蓮如の活躍によって全国にあまねく知られるようになったのである。親鸞を開祖と仰ぐ本願寺教団が爆発的に発展したからである。以後、親鸞は「ご開山さま」として真宗門徒のあいだで尊崇されるに至った。それにともなって日本仏教における祖師の一人として数えられることとなったのである。

ただ明治の終わりころ、東京帝国大学の学者たちのあいだで親鸞抹殺説がささやかれたことがあった。辻善之助氏『日本仏教史 第二巻中世篇之一』(岩波書店、一九四七年)にはその辺の事情について「公表されたものではなく、ただ口で伝えられて、一部の人の間に話されていたにすぎない。それを語ったのは、故田中義成博士と故八代国治博士とであるが、その説は特にこれという論拠をもっているものではなく、深く考えた説でもなかったので、談話の際に話題に上った程度で、説という程のものではなかった。強いてその説の要点をいえば、親鸞は当時の世間の記録に一切見えない、その伝記も後世に作られたものが多い。これをもってその人の存在を証明することはできない。筆跡も確かなものがないから、恐らくは架空の人で、後世本願寺が盛大になってから作ったものであろう。あるいは蓮如あるいは覚如が作ったのであろう。いわゆる親鸞抹殺説はこのような趣意であって、甚だ大胆な説であった」(三五七頁)といわれている。また古田武彦氏『人と思想(8) 親鸞』(清水書店、一九七○年)にはその背景として「そのころ、明治後期の学者の間では『歴史上の人物を抹殺しよう。』という傾向が一つの流行となっていたのである」(二四頁)といわれている。親鸞抹殺説はいわば学者間における流行の内輪話であったのであるが、それが契機となって、大正九年(一九二○)に辻善之助氏が『親鸞聖人筆跡之研究』(金港堂書籍)を発表され、翌・大正十年(一九二一)には西本願寺の宝庫から親鸞の妻・恵信尼の消息が発見された。それらによって親鸞の実在を疑う者はもはやいなくなった。そして親鸞の研究が多くの学者たちの手によって進んでいったのである。

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寂光土義の論文(5)

2016年04月21日 | 法本房行空上人試考
【寂光土義の論文(4)の後半を修正】

ただ信を強調したことが誤解を招いたようである。信の一念で往生決定すれば、称名は不要となるからである。前に述べた弁長が「設ひ仏名を唱へずと雖も、此の信心に依て往生を得と也」「此の信心を具する者は、称名せずと雖も決定往生すと〔云云〕」といい、良心が「何ぞ称名の事行を要と為すや」というがごとくである。しかし、行空が称名を否定したとは考えにくい。親鸞が『西方指南抄』に「行空」と記名しているからである(57)。そうすると行空が深遠の念仏と浅近の念仏の二種を立てたというのは、「念とは思ひとよむ」といって信を重視したことから推すると、信の称名と不信の称名のことではなかろうか。

法然は『選択集』三心章に「念仏の行者かならず三心を具足すべき文(58)」と標章している。三心とは『観経』に説かれる至誠心・深心・回向発願心のことであるが、念仏者は必ずこの三心を具足しなければならないというのである。そしてその三心の意味を明らかにするために善導の「散善義」と『往生礼讃』の三心釈を引用し、私釈において深心のところで信疑決判をおこなっている(59)。そこで三心といっても深心におさまることが知られる。『三部経大意』には明確に「三心はまちまちにわかれたりといゑども、要をとり詮をゑらびて、これをいへば、深心ひとつにおさまれり(60)」といっている。そして『往生礼讃』には「二には深心。すなはちこれ真実の信心なり(61)」とある。深心が真実の信心なのである。その内容を開けば、いわゆる機の深信と法の深信という心相になることはいうまでもない。それを『和語灯録』「往生大要鈔」には「はじめにはわが身のほどを信じ、のちにはほとけの願を信ずる也。たゞしのちの信心を決定せしめんがために、はじめの信心をばあぐる也(62)」等といっている。要するに「依仏本願故」の本願を信ずることである。それによって「称名必得生」といいえるのである。

また法然は『和語灯録』「念仏往生要義抄」に、

問ていはく、称名念仏する人は、みな往生すべしや。
答ていはく、他力の念仏は往生すべし、自力の念仏はまたく往生すべからず(63)。

といって、念仏に自力・他力を分別し、往生の可否を述べている。そして自力・他力については「浄土宗略抄」に端的に「自力といは、わがちからをはげみて往生をもとむる也。他力といは、たゞ仏のちからをたのみたてまつる也(64)」とある。そこで、自身の修道能力をたのんで称えるのが自力の念仏であり、ひとえに本願をたのんで称えるのが他力の念仏と知られる。いいかえれば先ほどの本願を信ずるか信じないかであるから、信の念仏と不信の念仏ということになる。行空はそれを承けて、信を強調し、他力の念仏を勧めるために念仏に二種を立てたのであろう。それゆえ行空が「称名往生は是れ初心の人の往生也」といった「称名」は不信の念仏すなわち自力の念仏のことであり、「初心の人」というのは他力の念仏に達していない不信の人のことであると思われる。


(57)たとえば『親鸞聖人御消息』第十三通の蓮位添状によると、慶信の上書に「一念するに」とあったところを、親鸞は「一念にとどまるところあしく候ふ」といって、「一念までも」と訂正したとある(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七六四頁)。多念の称名を否定することになりかねない表現であるからである。その親鸞が『西方指南抄』「七箇条制誡」に「行空」と記名しているということは、行空が称名を否定したのではない証左であろう。拙稿「法本房行空上人の教学試考─弁長上人『浄土宗要集』の断片をめぐって─』(『龍谷教学』五一、二○一六年)を参照されたい。
(58)『選択集』三心章(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』一二三一頁)
(59)『選択集』三心章(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』一二四八頁)
(60)『三部経大意』(『真宗聖教全書』四・七八六頁)
(61)『往生礼讃』前序(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』六五四頁)
(62)『和語灯録』巻一「往生大要鈔」(『真宗聖教全書』四・五七八頁)
(63)『和語灯録』巻二「念仏往生要義抄」(『真宗聖教全書』四・五九一頁)
(64)『和語灯録』巻二「浄土宗略抄」(『真宗聖教全書』四・六二二頁)
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三経説時について(4)

2016年04月20日 | 小論文
しかしながらこのような考察は、現在の文献学的研究成果よりすればまったくナンセンスといわなければならない。およそ「三経説時」の論題は、岡村周薩氏『前掲書』巻一に三経は「釈尊の説教を記録した者であることは言を俟たぬ事である」(六八九頁)といわれているように、釈尊一代の中に当てはめることができるというところからはじまっている。しかし経典というのは釈尊入滅後数百年の歴史の中で成立したものであり、ことに三経の属する大乗経典というのは紀元前後に興起した大乗仏教運動よりのちに編纂されたものである。釈尊一代の中のいつ頃であるか定めるというのは土台無理なことといわねばならない。

実際、三経の文献批判的研究にもとづく成果の頂点に立つ藤田宏達氏『原始浄土思想の研究』(二五七頁)によると、『大経』と『小経』の原初形態はほぼ時を同じくして、西紀一○○年ころ成立したものであり、その地域はおそらく北西インドであろうと推定されている。そしてそれよりかなり遅れて『観経』が編纂されたと考えられている。しかも『観経』には中国撰述説、中央アジア撰述説も出されている。したがって『大経』『観経』『小経』という順序は今日の経典成立史の上から見れば全くナンセンスだといわねばならないであろう。

では三経説論は過去の遺物として何らの意味もなさないのであろうか。私は、経典成立史は経典成立史として、その研究成果を尊ぶべきであると思う。しかし教義学的に見るとき、様相は一変するであろう。すなわち『大経』『観経』『小経』の順に説かれたとするから、親鸞の三経観が確立しているのである。いいかえれば親鸞の三経観の前提として三経説時論があるのである。とくに親鸞の三経観の特徴として『観経』『小経』に隠顕を見ることがあるが、『観経』の隠顕は前に触れたように定散二善を説きながら最後に念仏を付属するという説相にうかがわれ、すでに親鸞の兄弟子であった幸西がいっている。しかし『小経』に隠顕を見た人はいない。そこで親鸞は「『観経』に准知するに」として隠顕を見ていく。それは『観経』が先に説かれているとするからこそいえることである。親鸞の三経観は三経説時論が確定していなければ成立しないのである。

そしてそれは阿弥陀仏の大悲の活動をあらわすものでもある。経典成立史を超えて、阿弥陀仏は釈尊をしてまず『大経』を説かしめ、絶対他力である第十八願の法を示された。それは『大経』が根本であることをあらわす。法然は『西方指南抄』「法然聖人御説法事」に「次に『双巻無量寿経』(=大経)、浄土三部経の中には、この経を根本とするなり」といっているが、その理由は『大経』に第十八願が説かれているからである。つぎにそれをただちに受け入れられない自力諸行にとらわれている者に行体をそのままにして『観経』を説かしめ浄土門へと導き、最後に自力諸行より念仏のほうが多善根であるとして『小経』を説かしめ、根本である『大経』へと導いていくのである。そのように見れば、『大経』『観経』『小経』の順は阿弥陀仏の大悲の活動であったといえよう。経典成立史はどうであれ、不思議に三経説時論は生きている。
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三経説時について(3)

2016年04月19日 | 小論文
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ただ、『小経』が『観経』より前か後かということは、『大経』ほど明確な論証があるわけではない。身近な参考書を見てみると、中央仏教学院編『三経要義』には「法然の『小経釈』によると」(四頁)として、その所説をまとめて示してある。すなわち『観経』ははじめに広く定善、散善という自力の行が説かれているが、最後になって「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」(『註釈版』一一七頁)といって、無量寿仏の名、すなわち阿弥陀仏の名号を称えることを勧めている。けれどもこれははなはだ簡略にしてその意を尽くし難いから、さらに『小経』を説いて、自力の行は少善根であるから捨てしめ、念仏の一法によれと詳説されたというのである。したがって『観経』が先で『小経』が後であるということである。

また利井鮮妙師『前掲書』五頁には、『小経』冒頭の会座の列衆に「迦留陀夷」(『註釈版』一二一頁)がいることに注目されている。また岡村周薩氏『真宗大辞典』巻一の「三経説時」の項(六九一頁)にもこの迦留陀夷のことが記されているので、それによると、迦留陀夷は出家してのち、しばしば問題を起こして諸経の会座に列することを許されなかったが、『法華経』の会座においてはじめて授記を蒙り、経の列衆に加えられるべき大弟子となったとある。すなわち迦留陀夷は『法華経』の会座にはじめて出るということである。そして、別の機会に述べるが、『法華経』と『観経』は同時の説といわれているので、『小経』に迦留陀夷の名が記されているということは、『小経』は『観経』より後ということになる。

もっとも『小経』の迦留陀夷について、岩波文庫『浄土三部経』下(一四九頁)によれば、迦留陀夷は生まれたときにその容貌が悪いため「黒きウダーイン」と名づけられ、黒光、黒身と訳されている。そしてしばしば問題を起こしたのはラールダーインであるが、彼もウダーインと呼ばれ、迦留陀夷と混同して伝えられているといわれている。すなわち迦留陀夷とラールダーインとは別人ということである。

こうした問題もあるが、先哲は三経の説時について、『観経』が釈尊七十二歳のときに説かれ、それより前に『大経』が説かれ、『観経』の後に『小経』が説かれたと定めていかれる。換言すると『大経』『観経』『小経』の順に説かれたというのである。
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三経説時について(2)

2016年04月18日 | 小論文
しかし『大経』『小経』については説時を確定すべき史料がない。ただ『観経』より前か後かということは窺うことができる。『小経』を翻訳した鳩摩羅什の上足であった僧肇(推定三七四~四一四)は『阿弥陀経疏』において『観経』が先で『大経』が後であると述べているそうであるが、法然は『漢語灯録』所収の「観経釈」(『真聖全』四・三○九頁)において、三文一理をもって『大経』が『観経』より先であることを論証している。三文一理とは三つの文証(経文の上からの証)と一つの理証(道理の上からの証)ということであるが、まず文証から見てみよう。

一に『観経』華座観に、

法蔵比丘の願力所成なり。(『註釈版』九九頁)

とある。

二に『観経』中品下生に、

また法蔵比丘の四十八願を説く。(『註釈版』一一三頁)

とある。

『大経』には広く法蔵比丘の願が説かれている。それを指して『観経』に「願力所成」「法蔵比丘の四十八願」といっていると考えられるから、『大経』が先で『観経』が後であるというのである。

三に『大経』上巻に、

阿難、仏にまうさく、「法蔵菩薩、すでに成仏して滅度を取りたまへりとやせん、いまだ成仏したまはずとやせん、いま現にましますとやせん」と。
仏、阿難に告げたまはく、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億 刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と。(『註釈版』二七頁)

とある。

『観経』には安楽国、すなわち浄土のありさまが広く説かれている。もし『観経』が『大経』より先であれば『大経』において阿難は改めてこのような質問をする必要はない。それをあえて問うのは『大経』が先に説かれているからだというのである。

次に理証を言うと、『大経』には阿弥陀仏の因位の発心修行及び結果としての浄土の荘厳のことが説かれているが、『観経』はこの『大経』の所説にもとづいて、その浄土を対象とする十六の観法が説かれている。故に『大経』が先で『観経』が後であるというのである。
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三経説時について(1)

2016年04月17日 | 小論文
いわゆる一切経といわれるものの中に、阿弥陀仏に関説する経論は非常に多くある。それゆえ中国天台宗の荊渓湛然(七一一~七八二)の『止観輔行伝弘決』には「諸教の讃ずる所、多く弥陀に在り」(大正四六、一八二)というのである。具体的な数字で示すと、藤田宏達氏は『原始浄土思想の研究』に阿弥陀仏に関係ある経論を精査して漢訳経論二九○点、サンスクリット経論三一点を取り出されている(一四一~一六四頁)。

それほど多くある中、中国の浄土教、すなわち迦才(~六二七~)、懐感(~七世紀末)、宗暁(一一五一~一二一四)などは十部以上の経論をもって重視しているが、法然(一一三三から一二一二)は『選択集』二門章において、

正しく往生浄土を明かす教といふは、いはく三経一論これなり。「三経」とは、一には『無量寿経』、二には『観無量寿経』、三には『阿弥陀経』なり。「一論」とは、天親の『往生論』これなり。あるいはこの三経を指して浄土の三部経と号す。(『七祖篇』一一八七頁)

といい、独立浄土宗の所依の経論は三経一論であると定められた。そして「浄土三部経」という名称もここではじめて用いられた。これを承けて浄土真宗も「浄土三部経」をもって所依の経とするのである。

この「浄土三部経」は略して単に「三経」とも呼ばれる。またそれぞれにおいても、『無量寿経』は真宗では『大無量寿経』ともいわれ、略して『大経』と呼ばれる。『観無量寿経』は略して『観経』と称され、『阿弥陀経』は『小経』と略称されている。『無量寿経』については上下二巻あるので源信(九四二~一○七)や法然が『雙巻経』と呼んでいるのを承けて、親鸞(一一七三~一二六三)もそう呼ぶこともある。また『大本』とも呼んでいる。そして『阿弥陀経』については『小本』と呼んでいる場合もある。けれども一般的には『大経』『観経』『小経』の略称が普及しているようである。

さてこの「浄土三部経」について、古来多くの論題が設けられ討究されてきたが、その中に「三経説時」というのがある。釈尊一代の中で三経がいつごろ説かれたのであるか、また三経の説かれた順を討議するものである。

利井鮮妙師『真宗論題蹄筌』(一頁)によれば、その出拠は『口伝鈔』第十五条の

三経の説時をいふに、『大無量寿経』は、法の真実なるところを説きあらはして……、『観無量寿経』は、機の真実なるところをあらはせり、……『小阿弥陀経』は、さきの機法の真実をあらはす二経を合説して……。(『註釈版』九○○頁)

とあるものとされている。けれども、そこにはたしかに「三経の説時」という言葉は出てくるが、明確に説時は示されていない。

経文の上でも「如是我聞一時仏」等とあるだけで、その「一時」がいつなのか確定することができない。ただ『観経』のみそれを明確にすることができる。というのは別の機会に詳しく述べるが、『観経』はマガダ国の阿闍世太子がその父 頻婆娑羅王の王位を奪うクーデター事件を縁として説かれた経典である。すなわち阿闍世太子が即位したのと『観経』が説かれたのは同年と考えられる。そこで阿闍世の即位年代を探ると、『善見律毘婆沙』巻二に、

爾の時阿闍世王、王位に登りて八年仏涅槃したまへり。

とあるそうである。これよりすれば釈尊入滅の八年前に阿闍世が即位したことが知られる。すなわち釈尊七十二歳のときであり、そしてこのときに『観経』も説かれたということがいえる。
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宗名について(10)

2016年04月16日 | 小論文
       七

そうした蓮如上人の意にもかかわらず、真宗教団はあいかわらず一向宗と呼ばれていたようである。時代は下がって江戸時代になっても、宗門改の寺請証文やそのほか寺送証文などの公文書には多く一向宗を用いられていた。また京都では本願寺門徒、仏光寺門徒などと記して宗名を出さない地方もあったようである。つまり江戸時代、いろいろな俗称がおこなわれて統一がなかったのであった。そこでこのような一般慣習的な呼称を廃して、親鸞聖人が示した浄土真宗を宗名とするよう要求して、いわゆる宗名論争がおこったのでしあった。

それは安永三年(一七七四)八月のことである。東西本願寺、専修寺、仏光寺などが合議のうえ、両本願寺の浅草・築地輪番から幕府に願い出た。これをうけて幕府は寛永寺、増上寺に諮問したところ、天台宗の寛永寺は無関係であるから認めたが、浄土宗の増上寺は許さなかった。ここに浄土宗との間で論争がおきていくのである。

もともと寛文(一六六一~)のころから浄土宗徒が真宗の宗義宗風を論難することがしばしばで、真宗との間に争論がなされていた。それはともに多く著述による私的なものであったが、そうした傾向がついに表面化したのがこの宗名事件であると見られている。

浄土宗は翌・安永四年(一七七五)四月(一月か)、諸国檀林の会合にはかり、「浄土真宗」の呼称は本来、浄土宗において称するのであり、他宗においてこれを称すれば真偽問題の争論の基になることなどの故障書を幕府に提出した。

この間、真宗では安永三年(一七七四)から翌年のころにかけて、紀伊・和歌山領、摂津・高槻領などにおいて、浄土真宗の宗名が許される地方も現れている。

けれども幕府は増上寺に対して、故障書の趣旨を両本願寺の輪番に申し渡し、以後真宗教団の宗名は一向宗として取り扱う旨を通達したのであった。

これを伝聞した両本願寺は幕府に抗議するとともに、おのおの、増上寺の故障書に対して逐条反駁をくわえ、これに対して増上寺もまた再反駁し、彼我の応酬が続いて、互いに譲ることはなかった。

ここにおいて幕府はこの問題を決着づける方針を捨てて、ただ現状維持をすすめる方策をとった。それは幕藩体制の維持と安定を求める幕府にとって、真宗と浄土宗との抗争は決して願わしいものではなかったからである。

安永五年(一七七六)一月、幕府は増上寺に取りあえず当年の宗門改帳は従来通りの宗名によると通達して増上寺の意を迎えている。これに対して真宗はなお抗議をつづけ、東本願寺は五月に訴状を出し、また四月の将軍・家治の日光社参に際して沿道の真宗末寺はみな「浄土真宗」の門標を掲げて示威運動を行うなどのことがあった。

けれども幕府は安永六年(一七七七)二月、増上寺、浅草・築地両本願寺輪番に対して、宗名問題に関する詮議は時日を要するため宗門改帳は従来通りとし、沙汰あるまで引き取るように申し渡した。そして幕府や各藩の公文書では多く一向宗の称を用いることに内定したのであった。そこで増上寺や鎌倉の光明寺などはにわかに浄土真宗の新額を掲げ、そのほかの諸寺も門前に浄土真宗の札を立てたのである。これに対して西本願寺の玄智や東本願寺の慧琳などが江戸に滞在して解決に当たったのであるが、幕府は何も決することがなかった。

ところが西本願寺はこの後、三業惑乱がいよいよ激烈となり、東本願寺は天明八年(一七八八)正月の大火によって類焼し、両本山はこれらの前後策に没頭しなければならなくなった。その間、増上寺の運動はますます猛烈となったのであるが、真宗側は江戸・光円寺の宝景や宗恩寺の大旭のように幕府に対して十数回直訴するような運動が継続した。

そこで幕府は寛政元年(一七八九)三月、再び増上寺、両本願寺に対して旧慣によるべきことを達して、この問題は一応終わりを告げたのであった。それは真宗が一向宗と呼ばれることを意味していたが、明治五年(一八七二)三月になってようやく維新政府から真宗と公称することを認められたのであった。

したがって親鸞聖人が用い、また現在も用いられている浄土真宗、あるいは真宗の宗名が確立するには多くの紆余曲折を経てのことであったのである。

なお、真宗十派のなかで西本願寺のみ浄土真宗と公称していることについて、梯實圓和上は明治政府から宗名を提出することを要請されたとき、十派はそろって真宗と決めたのであるが、西本願寺だけ浄土真宗と書いて提出したといわれ、「言うたもん勝ちや」と皆の笑いをとるのが常であったことを思い出す。
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