天上の月影

勅命のほかに領解なし

末代無智章法話(5)

2017年02月13日 | 利井鮮妙和上集

【読みやすさの便をはかり、旧字を改め、句読点や送り仮名を付したところもある】

 前四帖目迄は年月日の次第にて編集されてありますから、次第に付ては別に御話することはありません。五帖目は次第不明なるを円如様が次第して下されたのであります。円如様は蓮師が八十通の御文を集めん為に再来遊ばされたものと一般に崇敬してをります。故に御本山にも代々の善知識と同様の御取扱なされてあります。今日の我等が毎日朝暮御文章拝読出来得るは全く円如様の御恵(めぐみ)であります。
  偖(さ)て末代無智章を初に安じたまへしは、当流は浄土真宗選択本願なるが故であります。開山上人は浄土真宗とは選択本願是(これ)なりと仰せられた。今此の末代無智章に「これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり」と仰せられて、浄土真宗は第十八願なることを先に安じたまへたものであります。此の一章を判り易く致しますと、五段になります。「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは」までは十八願の十方衆生の事にして、助けられての機類を示し下されたのであります。「こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば」までは十八願の至心信楽欲生我国にして願文の上は「ほんまにうたがひなく生るゝと思へ」と訓釈すべきことを今は「こころをひとつにして」等と仰せられたのであります。「たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし」とは十八願の「設我得仏若不生者不取正覚」のこゝろにして、乃(すなは)ち若し生れずんば正覚は取らぬ、正覚とった上は必らず救ふから安心せよのこゝろであります。「これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり」とは蓮如様がこれが十八願の御こゝろだぞよ、五劫の思案もこれがためだ、永劫の修行も是(これ)が為だぞと示したまふたのであります。「かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」とは十八願の「乃至十念」のこゝろで、信一念に命終るものなら乃至十念はなくとも差支(さしつかへ)はなけれども、命長きものは自然と多念に及ぶ道理にて臨終までは御礼の称名喜ばねばならぬことぢやと御示し下されたのであります。

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