天上の月影

勅命のほかに領解なし

本願章法話(1)

2017年03月20日 | 利井鮮妙和上集

弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文。

 法然聖人の『選択集』は我が宗祖にたまわりて、宗祖はこの御聖教によりて浄土真宗を御開闢(ひらき)なされたものでありまするから、この『選択集』は浄土真宗の根基(もとい)であります。そこで我が宗祖もこの御聖教を「まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり」とのたもうてあります。この真宗の根基(もとい)たる『選択集』について、本年より一月に一段づつ御話いたすことにしまして、一月と二月とで第二章まで済みまして、今月は第三章の本願章であります。
 この章の標文に「弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文」とあります。これがすなわち浄土真宗の根基(もとい)でありまして、余行はみな善なれども、阿弥陀様の御本願は余行をもって往生させるという御願いではない。ただ念仏の一法をもって往生させたいという御願いであります。しかるに真宗はおかしな宗旨である。善もほしからず悪もおそれなしなど、途方もないことをいう。弥陀一仏ばかりを念じて往生しようなど、まことにもってヘンテコな宗旨であるなど申すものがありますが、これらの人は阿弥陀様の御本願を知らぬから、こんな心得え違いがおこりまするので、一向に念仏を称えておるのがすなわち阿弥陀様の御本願にかなっているので、われわれ凡夫の往生の道はこの念仏よりほかにありません。他のことは尋ねあるくには及びません。そこで『御文章』のなかにも「一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり」とのたもうてあります。阿弥陀様は選択本願を御建てなされて、念仏をもって衆生を救おうと御誓いなされたによって、われわれは念仏して助けられたら、それで如来の本懐にもかないたてまつることができるのであります。

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