天上の月影

勅命のほかに領解なし

行空教学の先行研究(1)

2017年08月18日 | 小論文

 行空の教学をうかがうにはまずもって自著に依らねばならないが、そのようなものは伝わっていないし、あったという形跡もない。ただ資料としては三条長兼(生没年不詳)の『三長記』に、

    沙門行空、忽(たちま)ち一念往生の義を立つ。故(ことさら)に十戒毀(教カ)化の業を勧め、恣(ほしいまま)に余仏を謗り、其の念仏行を願(ママ)進す(1)。

とあるものや、弁長(一一六二~一二三八)の『浄土宗要集』に、

    法本房の云く、念とは思ひとよむ。されば称名には非ずと云云(2)

とあるものが確実なものといえよう。「行空」「法本房」と明記されているからである。他に同じく弁長の『末代念仏授手印』裏書に、

    或る人の云く、寂光土の往生、尤も是れ殊勝也。称名往生は是れ初心の人の往生也。寂光土往生は尤も深き也(3)。

とあり、『念仏三心要集』も同様であるが(4)、『念仏名義集』は少し文が違って、

    或る人は寂光土の往生を立つる。此の学文を我に随てせよ。若し此の心を知らずして念仏申さん者は往生すべからずと申す(5)。

とある。これが行空の立義であるかどうか問題があるが、私はそうであると考えている。詳しくは後の章において述べよう。ともあれ、このあたりが資料として用いていいと思う。ただし何をいっているものであるのか、文の理解は慎重でなければならない。ともすれば、誤解する可能性があるからである。石田瑞麿氏は「二、三の考え方を語るものがすでに知られているが、いわゆる一念義がどのような形で説かれていたものか、まったくわからないといった方が正しい(6)」とさえいわれている。換言すると、行空の一念義は解明されていないということになるであろう。では先学はどのように理解されているのであろうか。先行研究を概観することにしよう。

(1)三条長兼『三長記』元久三年二月三十日条(『史料大成』二五・二五○~二五一頁)。なお『鎌倉遺文』三・二七○頁、一六○五号では最後が「還りて念仏行を失す」となっている。
(2)弁長『浄土宗要集』第五(『浄土宗全書』一○・二二八頁)
(3)弁長『末代念仏授手印』裏書(『浄土宗全書』一○・一一頁)
(4)弁長『念仏三心要集』(『浄土宗全書』一○・三九一頁)
(5)弁長『念仏名義集』巻下(『浄土宗全書』一○・三八二頁)
(6)石田瑞麿氏「一念義と口伝法門」(『伝道院紀要』一、一九六三年、のち同氏『日本仏教思想研究 第三巻 思想と歴史』、法蔵館、一九八六年、所収)

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