天上の月影

勅命のほかに領解なし

高野堂「行空上人の墓」について(4)

2017年04月04日 | 未発表論文

 そして氏は、「上人は星野村と黒木町の境界にある高牟礼峠を越して星野に下る途中、縫尾久保という所で急に卒倒して死亡したという事であります。村人達は大いに驚いて手厚くそれを、ふもとの里に葬りました。そこが黒木谷高野の里であり、墓の現存する場所であります」(一三八頁)といわれている。非常にリアルな文章であるが、何を根拠にいわれているのかわからない。しかもその直前に「行空上人は黒木にあって黒木助能夫妻のこの上もない優遇をうけて天福元年七月六日九十才の天寿を全うしました」といわれるのである。その「九十才」という年齢については後に譲るとして、命日を「天福元年(一二三三)七月六日」としているのが注目される。現在の墓標の正面に「天文十六年(一五四七)」、左側面に「宝暦十年(一七六○)」と刻まれていることはすでに述べたところであるが、氏は「天福元年と天文十六年の墓碑は宝暦十年の物とかわっております。現今の物は宝暦十年に改修したものであります」(一四六頁)といわれるのである。『星野村史 文化財民俗編』(一九九七年)三八頁には氏の説を取り上げて、「行空上人の旧墓塔にかく記されていたように書いてありますが、今日ではそれを確認できないのは残念です」と述べている。解説版に「高野山本覚院之由来記」という資料によって没年を文永年中(一二六四~一二七四)としているのと相違するが、『星野村史 年表編』(一九九五年)一五頁には氏の天福元年説を採用し、文永年中説を細字で註記してある。

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