天上の月影

勅命のほかに領解なし

行空の提言

2015年10月28日 | 法本房行空上人試考
行空の教学を知るうえで、弁長の『浄土宗要集』第五に記されている断片は一番の資料である。すなわち、

法本房の云く、念とは思ひとよむ。されば称名には非ずと云云(『浄全』一○・二二八頁)

とあるものである。それは「法本房の」と明記されているように、確実に行空のものといえるからである。

まず「法本房の云く」という「云く」について考えてみると、弁長は『徹選択集』に「近代有る人の云く、夫れ菩提心は大乗の慈父、菩薩の悲母也。仏海の源底、法門の奥蔵也」等といっている(『同』七・九○頁)。その「近代有る人の云く」とは明恵(一一七三~一二三二)の『摧邪輪』を指していることは明らかである。しかし弁長と明恵に面識があったという記録はないから、今の『徹選択集』は『摧邪輪』からの引用を「云く」といっていることがわかる。それに対して「法本房の云く」は、行空に自著がないので、弁長が耳に聞いたことであったと考えられる。つまり行空の提言であるといっていいであろう。

そうすると、弁長がこの行空の提言を聞くことができたのは法然の膝下にあった時代にほかならない。ただ行空が法然のもとに入室した年時が明らかでないので、弁長が法然のもとにいた時期を示すと、
  ・建久八年(一一九七)五月から同年七月まで
  ・建久十年(正治元年 一一九九)二月から元久元年(一二○四)七月まで
である。ただし了慧の『聖光上人伝』には「元久元年〈甲子〉八月上旬、東山の学窓を辞し」(『同』一七・三八九頁)とあり、これによってであろうか、弁長の帰郷を八月とする文献がしばしば見られる。たとえば望月信亨氏『浄土教之研究』(仏書研究会、一九一四年)八一五頁などである。しかし弁長自身が『念仏名義集』巻中に「此の奴(やっこ)三十六と申せし年の五月の比より法然上人御房に参て四十三の歳の七月まで弁阿は八年相ひ副(そ)ひ進(まいら)せて浄土の法門を教へられ奉りて候しに」(『同』一○・三七三頁)といい、『念仏三心要集』にもそれを引いて述べているから(『同』一○・三九一~三九二頁)、七月までとすべきである。したがって弁長が行空の提言を聞き得たのは元久元年七月までということになる。

弁長はこの時期に見聞したことを自身の著作や門下の良忠(一一九九~一二八七)に伝えている。たとえば良忠の『決答授手印疑問鈔巻上』には、弁長は一日も怠らず法然のもとで学問していたが、「有る時、真感房、予に告て云はく、連日御学問の間、御老体定んで窮屈せしめ給はんか。夜中の御念仏も御大事に候。今より已後は二日に一度御参有るべきか」といった。そこで一日参上しなかったら、法然から早く来いという使いが来たという(『同』一○・二八頁)。また弁長の『浄土宗要集』第六には、「上人御在生の時、真観房が臨終を見て云く、源空は老の身也。汝真観は若き身也。老老の師なれば我れこそ先き立つべかりつるに生き留るよ。汝は若ければ遙かに吾より後にあるべきに老ひたる師に先き立て死するは汝が往生の果報の殊勝なる也」(『同』一○・二三九頁)とある。真観房感西(一一五三~一二○○)が臨終のとき、弁長も居あわせて、法然の言を聞いたのであろう。また同じく『浄土宗要集』第四には「聖覚、法然上人の御前にて説法のときに」(『同』一○・二一○頁)とある。聖覚(一一六七~一二三五)が法然の前で説法したとき、弁長も聴衆のなかにいたのであろう。また良忠の『徹選択鈔』上に、あるとき弁長が法然から智者の称名と愚者の称名に功徳の勝劣があるかと問われ、本当はわかっていたが、あえて愚者の念仏がどうして上人(=法然)の念仏に等しいであろうと答えたところ、法然は「あの阿波の介が念仏も源空が念仏も只だ同じ事也」と弾じたという(『同』七・一○三~一○四頁)。自身がほめられたことならともかく、叱られたことまで伝えているのは興味深い。そうしたなかで「源空」「真観(感)房」「聖覚」「阿波の介」と固有名詞が用いられている。いまも「法本房の」といわれているから、実際に聞いたことといってよいであろう。

そして『四十八巻伝』第二十四には、あるとき弁長と法力房蓮生(レンセイ)と安楽房遵西の三人が法然のもとで質疑応答したという記述がある(1)(『法伝全』一四六~一四七頁))。こうした門弟同士が集まって法談をすることは当然あったであろう。『歎異抄』後序にも有名な信心一異の諍論が記録されている(『註釈版』八五一~八五二頁)。同じことが覚如の『御伝鈔』上・第七段(『同』一○五○~一○五一頁)にも記されている。そのおり法然の裁決を仰いだのであったが、いまの「法本房の云く」のときに法然がいたかどうか、また裁決があったかどうかはわからない。しかし、もし法然がいて何らかの言をなしていれば弁長はそれを記したであろうから、法然はいなかった可能性が高い。門弟同志の法談のなかか、あるいは行空が説法するなかで聞いたのであろう。
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4 コメント

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あわのすけ (かささぎの旗)
2017-07-28 18:01:06

本当はわかっていたが、あえて愚者の念仏がどうして上人(=法然)の念仏に等しいであろうと答えたところ、法然は「あの阿波の介が念仏も源空が念仏も只だ同じ事也」と弾じたという(『同』七・一○三~一○四頁)。自身がほめられたことならともかく、叱られたことまで伝えているのは興味深い


阿波の介とは?
法然上人の弟子の中で、どのような人なのですか。
何も知らないため、お教えいただければ、もっとよくわかるのですが。
阿波の介について (水月)
2017-07-29 08:17:48
これは文字制限のある論文の中の一文ですので、説明をすることができませんでした。

弁長上人(久留米の善導寺に廟所があります)の後継者・良忠上人の『決答授手印疑問鈔』巻上には次のようにあります。

阿波の介とは陰陽師なり。上人(=法然)に志し深くして独り僧徒の中に交わり常に御前に候せし人なり。(『浄土宗全書』一○・三四頁)

つまり阿波の介は元・陰陽師で、法然聖人に帰依し、他の僧と交じって常に聖人の御前にいたという人です。

昔、梯實圓先生からお聞きしたところによると、弁長上人との問答のとき、阿波の介はたいへん見窄らしい格好をしていたそうです。その阿波の介が申す念仏と、この源空が申す念仏と、同じかどうかと、尋ねたということです。
陰陽師! (かささぎの旗)
2017-08-02 18:12:55
そうでしたか。
なにか文脈上、いかにも軽んじられてるような印象を受けましたので、。
陰陽師といえば、先日お寺に吊るされていた切子燈籠を初めてみて、色彩が陰陽師みたいだ、と感じました。赤と青。
いつも関係ないこと書いてすみません。
切子灯籠 (水月)
2017-08-03 07:49:31
「なにか文脈上、いかにも軽んじられてるような印象を受けましたので」
そんなことはありません。丁寧に書いたつもりですが、そのような印象を受けられたのなら、お詫び申し上げます。

切子燈籠とは?私どものお寺では見たことがありません。宗派の違いか、地域の違いかなのでしょうね。珍しいものを見られたものです。陰陽師の色彩は赤と青なのですか。私は陰陽師という言葉を知っているだけで、内実についてはまったく存じません。そういえば、かつて梯實圓先生のお寺で勉強会があったとき、パーキングに車を止めて、お寺まで歩いていく途中に、安倍晴明ゆかりの神社があったような……。何か懐かしく思い出されます。

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