天上の月影

勅命のほかに領解なし

出世本懐法話(3)

2017年06月15日 | 利井鮮妙和上集

 法華宗では法華経程尊い御法(みのり)はないから法華経は出世の本懐なりと云ひ、真言宗では釈迦出世の本懐は大円経なりと云ふ。又真宗では大無量寿経こそ出世本懐なりと申すが、斯(こ)う勝手に我も我もと出世本懐を云ふなれば我が田に水を引く様な話であって、果して本懐が何れにあるかといふ疑いが起る。
 法華及び真言は智者聖人のための本懐でありて浄土真宗は凡夫往生のための本懐である。仏は平等の大慈悲を以つて智者聖人を救ふに聖道自力の法を説け与へて本懐を談じ、凡夫は機根最劣にして聖道の法では往生が出来ぬから浄土易行の法をお与へ遊ばして本懐を談じたまふたのである。そこで凡夫のため聖人のためと本懐に二つありとすれば我田に水を引く話でもないが、正信偈の「唯説弥陀本願海」と申すより伺へば、高祖の本懐は矢張り唯一(ただいち)とお扱ひなさる思召であるから、凡聖二本懐を立てるのは唯(ただ)一応の話で、真実は弥陀本願海に限るのである。
 それは何故ぞ、「諸仏の大悲は苦者に於てす」と云ふてある。涅槃経には七子の比喩をあげて「一子病(やまひ)にあへば父母の心、重病の子を殊に哀れむ」とあって、病を好む親はなけれ共、可愛い児が病にかゝれば其の子を殊に憐れむが親の慈悲である。仏は一子の如く衆生を憐念したまへども凡夫悪人の其の者を殊に哀れみたまふが仏の慈悲である。故に火宅の門に入つて悪人正機としてお説きなされた弥陀本願海は本懐の中、本懐なるを知るのである。

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