天上の月影

勅命のほかに領解なし

高野堂「行空上人の墓」について(21)

2017年04月21日 | 未発表論文

 第二に一宿上人としての行空は『法華経』を「日に六部を誦し、夜に六部を誦し、日夜に十二部を誦して」「一生に誦するところの部数は三十余万部なり」とあるように、まったく法華の行者である。本覚院は行空がつねに『法華経』を講じていたので「講坊」と称せられたというから、『法華経』を介して、この一宿上人としての行空と開基としての行空を重ね合わせて伝記を用いたのかもしれない。もともと伝説なのであるから、それはそれでいいであろう。ただ高野堂(こうやんどう)「行空上人の墓」の解説版に法本房としての行空が諸国を巡錫して一宿上人と称せられたというのは問題である。まったく年代が合わない。解説版は十中八九、江頭 亨氏の『郷土史物語』に基づいていると思う。その一三八頁に『元亨釈書』の行空伝を載せ、一四一頁に「元亨釈書に鎮西に歿す、年令九十というのは、前記福岡県八女郡星野村下小野高野の墓の現存することで証明が出来ます」(これについては次節で述べる)といい、一四四頁に承元(建永)の法難のころは「元亨釈書にあるように五畿七道を足にまかせて跋歩(ママ)するという事もなかったと思います」と述べ、一宿上人としての行空と法本房としての行空を同一視されていることは明白である。しかし、前者は法華の行者であり、後者は念仏の行者である。まったく性格を異にしている。前に引用したように氏は一四四頁の所述の直前に「中央に於ける大弾圧(=承元(建永)の法難)をよそに行空上人は黒木にあって念仏宗の布教に余念なかったのであります」といわれている。念仏を勧めつづけていたということである。ところが一宿上人としての行空は生涯に三十余万部も『法華経』を誦していたのである。論述が矛盾しているといわざるをえない。それは両者を同一人物と見るからである。事実は行空という名が同じであっても別人なのである。年代も、行状も、両者は異なるからである。そこでたとえば重松明久氏『日本浄土教成立過程の研究─親鸞の思想とその源流─』(平楽寺書店、一九六四年)巻末の索引に「行空(一宿聖人)」「行空(法本房)」とあるように区別しなければならない。

 

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