天上の月影

勅命のほかに領解なし

生因三願

2015年10月28日 | 水月法話
阿弥陀さまは四十八願を完成されたお方である。そこでもし、阿弥陀さまとはどのようなお方なのであろうかと思えば、四十八願を見るといい。四十八願が阿弥陀さまの内容をあらわしている。それを詳らかにするために、浄影寺の慧遠(523~592)という方は四十八願を三通りに分類されている。
  摂法身の願……第十二願、第十三願、第十七願
  摂浄土の願……第三十一願、第三十二願
  摂衆生の願……他の四十三願
憬興(七世紀後半)という方もまったく同じであるが、ただ「求仏身の願」「求仏土の願」「利衆生の願」という言い方をされている。それらはつづまるところ、最高の御身となられ、最高の浄土を建立され、私たちをお救いくださるということである。阿弥陀さまとはそういうお方なのである。

ただ問題は、その四十八願のなかに、「設我得仏、十方衆生~」という言葉が三回出てくる。第十八願、第十九願、第二十願である。これを生因三願(しょういん・さんがん)という。私たちが浄土に生まれるための因、道筋を誓われた願である。三つもあるのかというと、そうではない。まず第十九願は、さまざまな修行をして、この土でさとりを得ようと励んでおられる方を、修行はそのままにして、それによって浄土に生まれることができると、浄土に振り向かせるために設けられた諸行往生の願である。第二十願は、その修行に行き詰まった方を、念仏のほうがはるかに功徳が多いと示して、念仏によって浄土に生まれることができると、念仏に引き入れるために設けられた自力念仏往生の願である。しかしそれはどこまでも自力の心で称える念仏であるから、本当に浄土に生まれることができるのかどうかという不安が残る。それでも念仏までは到達した。あとは自力の心である。それを取り除き、第十八願に送り込むのが第二十願でもある。念仏を称えたという功績によって浄土に生まれるのではない。念仏はもともと第十八願によって選び取られた法であったと気付かせていくのである。その第二十願のはたらきによって送り込まれた第十八願は、念仏という法を与え、受け取らせて、まったくひとりばたらきによって、浄土に生まれさせる他力念仏往生の願である。これが真実の願であって、第十九願・第二十願はそこまで導いていくための方便の願である。あたかも二階に上がる階段のごとくである。それゆえ生因三願といっても三通りの道筋があるのではない。あるのは第十八願の道一つである。ただ阿弥陀さまはすべての人を救うために第十九願・第二十願を設けられたのであった。阿弥陀さまのお慈悲のあらわれである。

なお、これは親鸞聖人の三願観である。諸師によって異なる三願観があるが、真宗門侶はこれにしたがうべきである。
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