天上の月影

勅命のほかに領解なし

浄土教の一考察(9)

2016年10月08日 | 小論文

            九

 法然が立教開宗した浄土宗は、往生浄土宗の略で、浄土に往生することを本旨とする教えという意味であった。そしてそれ以外の既成の諸宗を聖道門と呼んだ。此土において聖者となる教えである。たとえば『和語灯録』「浄土宗略抄」に「聖道門といは、この娑婆世界にありながら、まどひをたち、さとりをひらく道也」とあり、「往生大要鈔」にも「この娑婆世界にありながら、断迷開悟の道を、聖道門とは申すなり」とあるごとくである(1)。しかしそこに「まどひをたち」とか「断迷開悟」とあるように、みずからの修行能力をたのんで断惑していく道であった。たとえ天台・真言等の頓教といわれる教えでも、実際は漸教とならざるをえないことは前に述べた。三学非器の自覚をもつ法然自身にとって実践不可能な道であったのである。「往生大要鈔」には、

たとひ即身頓証の理を観ずとも、真言の入我々入、阿字本不生の観、天台の三観・六即・中道実相の観、花厳宗の法界唯心の観、仏心宗の即心是仏の観、理はふかく、解はあさし。かるがゆえに末代の行者、その証をうるに、きはめてかたし(2)。

といっている。繰り返しになるが、教理がどれほど深くとも、それが実践できなければ絵に描いた餅にすぎない。法然自身そして「末代の行者」、さらにいえばすべての人が実践できる道、すなわち機において実践可能かどうか、そこに焦点を合わせていたのが法然であった。それゆえ法然の関心は因行にあって、証果についてはほとんど説かれていない。そのなかで『選択集』讃歎念仏章には空海の『弁顕密二教論』が長文にわたって引用されている。武田一真氏は引用意図の見える箇所として三箇所挙げているが(3)、そのうち二箇所は次のようである。

四重・八重・五無間罪・謗方等経・一闡提等の種々の重罪をして消滅るすことを説しめ、すみやかに解脱し、頓く涅槃を悟らしめんには、
よく重罪を除き、もろもろの衆生をして生死を解脱してすみやかに涅槃安楽法身を証せしむ(4)。

ここでいま注目されるのは「頓く涅槃を悟らしめんには」「すみやかに涅槃安楽法身を証せしむ」といっている点である。もちろんこれは『弁顕密二教論』のなかの文であるから、当分は真言の即身成仏のことをいっているのであろうが、その直前に有名な、

極悪最下の機のために極善最上の法を説くところなり。

とあり、武田一真氏は引用意図といわれている。そうすると法然は本願の念仏を「極善最上の法」として、すみやかに涅槃に至る法と見ていたことがうかがわれる。しかしながら法然は往生と同時に成仏するとは語らない。『西方指南抄』「念仏大意」には、

末代の衆生、その行成就しがたきによりて、まづ弥陀の願力にのりて、念仏の往生をとげてのち、浄土にして阿弥陀如来・観音・勢至にあひたてまつりて、もろもろの聖教おも学し、さとりおもひらくへきなり(5)。

といい、「要義問答」には、

まことに観念もたえず、行法にもいたらざらむ人は、浄土の往生をとげて、一切の法門おも、やすくさとらせたまはむは、よく候なむとおほえ候(6)。

といい、また、

とくとく安楽の浄土に往生せさせおはしまして、弥陀・観音を師として、法華の真如実相平等の妙理、般若の第一義空、真言の即身成仏、一切の聖教、こゝろのまゝにさとらせおはしますへし(7)。

といい、「四箇条問答」には、

蓮台に詫して、往生已後の増進仏道をもて用とす。これは極楽にての事也(8)。

といっている。浄土に往生して、一切の聖教を学び、一切の法門をさとり、仏道を増進するというのである。ただしそれは「こゝろのまゝに」である。また「法然聖人御説法事」には、

浄土者(は)まづこの娑婆穢悪のさかひをいで、かの安楽不退のくにゝむまれて、自然に増進して、仏道を証得せむともとむる道也(9)。

ともいっている。浄土を「安楽不退の国」といい、「自然」に仏道を増進するというのである。それが『往生要集』の「増進仏道の楽」を承けていることは明らかである。そしてここにもまた「自然」の語が用いられている。親鸞が「自然」を「おのづからしからしむ」と訓んだことはよく知られている(10)。しかし通常は「おのづからしかり」あるいは「みづからしかり」と訓む語であるから、親鸞の訓みは独特である。それが法然を承けているかどうかは明らかでない。梯 實圓氏は法然に「自然」についての特別な釈は見られないから、一般の用例にしたがって「自ずから然り」と読み「自ずからそうなる」という意味で用いられていたといわれている(11)。そうすると人為を超えて任運に事態がおこなわれていくことで、浄土の徳用として仏道が増進するのである。ゆえに浄土において自力の修行を積み重ねていかねばならないのではない。もしなそうと思えば「こゝろのまゝに」なせばいいのである。そして自分の思いを超えて成仏していくのである。したがって、成じがたい此土入聖の聖道門を捨てて、往生浄土を目指す本願念仏の法門を勧め、浄土宗という名をもって独立した一宗として立教開宗したのであった。

(1)『和語灯録』巻二「浄土宗略抄」(『真宗聖教全書』四・六○九頁)、『同』巻二「往生大要鈔」(『同』四・五六五頁)
(2)『和語灯録』巻二「往生大要鈔」(『真宗聖教全書』四・五六七頁)
(3)武田一真氏「真言密教と真宗教学─教判について─」(『龍谷教学』四四、二○○九年)
(4)『選択集』讃歎念仏章(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』一二五九頁)、同じ文が『漢語灯録』巻二(『真宗聖教全書』四・三五○頁)にもある。
(5)『西方指南抄』巻下末「念仏大意」(『真宗聖教全書』四・二二四頁)
(6)『西方指南抄』巻下末「要義問答」(『真宗聖教全書』四・二三八頁)
(7)『西方指南抄』巻下末「要義問答」(『真宗聖教全書』四・二五四~二五五頁)
(8)『西方指南抄』巻中末「四箇条問答」(『真宗聖教全書』四・一三○頁)
(9)『西方指南抄』巻上末「法然聖人御説法事」(『真宗聖教全書』四・一一九頁)
(10)『唯信鈔文意』(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七○一頁)、『正像末和讃』自然法爾章(『同』六二一頁)、『親鸞聖人御消息』第十四通(『同』七六八頁)
(11)梯 實圓氏「自然の法義について─『獲得名号自然法爾御書』の考察(その3)─」(『行信学報』一四、二○○一年、のち同氏『親鸞教学の特色と展開』〈法蔵館、二○一六年〉所収、六二頁)

 

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