天上の月影

勅命のほかに領解なし

承元(建永)の法難の結末(7)

2017年08月17日 | 小論文

 ところが二○一七年七月二十七日、平雅行氏に御教示いただいたところによると、この『拾遺古徳伝』の記事は信憑性に欠けるということである。なぜなら、「さきの中納言親経の卿」とあるが、藤原親経は法難の段階で見任の中納言であるので官位があわない。また「八座にて議定」とあるが、これは「杖座」=陣定の誤記である。そもそも、鎌倉初期の段階で、死罪を科すかどうかの議論が陣定で行われたとする話そのものが、きわめて怪しい。鎌倉時代の朝廷では、死罪の僉議をしていないはずである。実際には鎌倉時代でも処刑が行われているが、朝廷の正式の手続きによるものではなく、幕府や後鳥羽上皇や東大寺などの権門が私的に処刑するのを黙認しただけである。法難では、後鳥羽上皇が暴走して安楽ら四名を処刑した。後鳥羽上皇の側近もふくめて、これに驚き、内心ではやりすぎだと考えたであろうが、この頃の後鳥羽上皇を止めることのできる人間は誰もいない。院御所議定の場で上皇から意見を求められれば、顔色をうかがい、言葉を選びながら、慎重に意見を言ったであろうが、後鳥羽上皇のいない陣定で死罪僉議をしたという話そのもが荒唐無稽である。誰を死罪にするかという重要案件は、後鳥羽上皇にしか決められない。陣定での死罪僉議が後鳥羽上皇の耳に入れば、おそらく越権行為として激怒したはずである。したがって氏はこの記事を、法然門下における親鸞の位置を大きくみせようとした覚如の作り話であると思うといわれた。ただこれを覚如の創作とまでいえるかどうかはわからない。先に梯實圓氏が「そういう伝承があったにちがいありません」といわれていたように、何らかの伝承があったのかもしれない。しかし事実としてはありえないということになる。お忙しいなか御教示いただいた平雅行氏にこの場を借りて厚く御礼申し上げる。
 

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