天上の月影

勅命のほかに領解なし

佐渡国司

2017年06月02日 | 水月随想

 前から気になって購入していた中井真孝氏『法然上人絵伝の研究』(思文閣出版、二○一三年)の第三部第四章「『法然上人行状絵図』所収の太政官符」を読みました。承元(建永)の法難において法然聖人の還俗名が「藤井元彦」なのか「源元彦」なのか、諸伝によって違いがあり、何か書かれていないかと思ったからです。そのなかで『法然上人行状絵図』第三十三巻第二段引用の太政官符を問題にされています。

    太政官符  土佐国司
     流人藤井の元彦
     使左衛門の府生清原の武次 従二人
     門部二人         従各二人
  右流人元彦を領送のために、くだんらの人をさして発遣くだむのごとし。国よろしく承知して、例によりてこれをおこなへ。路次の国、またよろしく食□具馬三疋をたまふべし。符到奉行
   建永二年二月二十八日  右大史中原朝臣 判
    左少弁藤原朝臣

というものです。井川定慶氏集『法然上人伝全集』でいえば二二五頁です。また赦免の太政官符も問題にされていますが、それについては省略します。いまは上の太政官符です。氏は、

    『行状絵図』の太政官符は、厳格にいえば法然上人を土佐国に流すことを「宣下」した官符ではなく、上人の流罪にともなう「食馬官符」なのである。

といわれ
 

   要するに、(中略)土佐国までの路次の国々において、左衛門府生清原武次と門部二人(馬各一疋)、そして従者四人、合わせて七人に食量を支給せよ、というのである。

といわれています。そして氏はこの太政官符は「本物」であると結論づけられています。それは前年の建永元年(一二○六)九月十八日付で佐渡国へ流罪に処せられた藤原公定への太政官符(食馬官符)と比較して、漢文体と和文体、日付の位置が異なること以外、様式に相違がないからです。そうすると法然聖人の還俗名は「藤井元彦」であったことがわかります。ではなぜ「源元彦」という伝承があるのかが問題になりますが、それは別の機会に考えることにします。ただ私が「おや?」と思ったのは、法然聖人の太政官符には冒頭に「土佐国司」とあり、藤原公定のそれには「佐渡国司」とあることです。国司に宛てているのです。考えてみれば当然です。このときすでに源頼朝が鎌倉幕府を開き、守護・地頭を全国に配置していましたが、興福寺からの訴えによって詮議し、念仏停止と法然聖人および門下を流罪・死刑に処したのは朝廷だったのですから。私は頭のなかで大きな勘違いをしていました。本間系図の一部に行空上人が本間忠綱に念仏の法門を授けたといわれており、それが事実かどうかを探索しているなかで、本間氏が佐渡国の守護であったとか、国地頭であったとか、地頭代であったとか、いろいろいわれていることを知りましたが、このとき宣下したのは朝廷であって、藤原公定の翌年に行空上人は流罪になっていますから、佐渡国司宛てに太政官符が届けられていたはずです。本間忠綱あるいはその父・能久は、もしかすると佐渡国司であったか、そのもとで従事するものであったか、考えが広がってきます。少なくとも日蓮上人が文永八年(一二七一)に流罪になったとき、まず佐渡国守護・大仏北条宣時に預けられ、その守護代であった本間重連が佐渡国へ送ったという事情とは異なるでしょう。これは幕府による流罪です。行空上人も同じように思っていた誤りに気づきました。

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