天上の月影

勅命のほかに領解なし

行空上人の佐渡における活動(9)

2017年05月11日 | 小論文

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 それを踏まえてこの「佐渡合戦記」という文書を「本間系図 丸山本」を参照しながら見ていくと、年代は不明ながら能久ははじめ播磨国明石の月園に住んでいて佐渡に来り、羽黒城主の佐渡太郎と力を合わせて鹿野の凶賊を退治し、この土の太守に任ぜられ(「本間系図 丸山本」四○二頁は守護とある)、佐渡太郎ののち、能久が国政を執行した。そして「本間系図 丸山本」の忠綱の註記には「忠綱佐渡羽黒誕生、長じて播州明石月園住、後人皇七十二代白川帝文保二壬戌年四月、佐渡羽黒へ来、後河原田に住」(四○三頁)とある。このなかの「文保二壬戌年」というのは年代が合わないが、忠綱は佐渡の羽黒で誕生したことになっている。能久が国政を執行していたころのことであろう。長じて播州明石の月園に住み、また佐渡の羽黒へ来り、後に河原田に住むようになった。その佐渡に来たときが「佐渡合戦記」のいう「能久嫡男忠綱、播州明石月園より爰へ来り住す、国政を執行」であろう。「本間系図 丸山本」の能久の註記には「能久者、長男忠綱河原田置、能久播州へ帰、後忠綱も播州へ帰住」(四○三頁)とある。能久は忠綱を佐渡の河原田に置いて播州に帰り、また忠綱ものちに播州に帰ったようである。「佐渡合戦記」は忠綱の嫡男である頼綱も「播州明石月園より羽黒へ来り家を継、河原田に居城を築起」とある。「本間系図 丸山本」も同様のことを記している。また「河原田本間系図 佐渡風土記」にも「播州より佐渡に渡り」(四二七頁)とある。頼綱が家を継いだから、忠綱は播州へ帰ったのであろう。このように能久─忠綱─頼綱は佐渡と播州明石の月園を往き来している。ただ播州明石は現在の兵庫県明石市のことであろうが、月園というのがどこかわからない。明石市にある兵庫県立図書館の職員の方々にいろいろ調べていただいたが、結論としてわからない、もしかすると建物の名称かもしれないということであった。そこで明石というだけでとどめるほかない。それでも諸系図に「住播磨国」等といった註記があるのはこれのことであったと思われる。下出穂与氏は『佐渡本間遺文桜井家文書』四六七頁に、能久の父・能忠が前に述べたように武勲をあげるなどしたことから、「思うに、御家人として頼綱に認められた能忠は、本国相模の他に佐渡においても初めて所領を与えられたのであろう。そしてその佐渡の領地を、能忠は忠家・能久両子のうちの弟能久に譲ったのではなかろうか」といわれている。氏は播州のことについて触れられていないが、諸系図の「住播磨国」等の註記からみて、播州明石にも所領を与えられたのではなかろうか。そして能久─忠綱─頼綱は佐渡と播州を往き来し、頼綱になって佐渡を本拠にしたと思われる。

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