天上の月影

勅命のほかに領解なし

『西方指南抄』の位置(5)

2016年09月19日 | 法本房行空上人試考
 そうした法然の法語、消息、伝記、行状などを集成したのが『西方指南抄』である。その成立年時について明確なことはいえないが、次項で述べるように、親鸞が康元元年(一二五六)十月から翌二年一月にかけて書写している。法然滅後四十四年から四十五年である。それ以前のものとしては醍醐本『法然上人伝記』がある。大正六年(一九一七)醍醐三宝院の宝蔵から発見された。醍醐寺第八十代座主・義演(一五五八~一六二六)が書写させたものである。翌・大正七年(一九一七)に望月信亨氏によって紹介され(1)、大正十二年(一九二三)中外出版社から『浄土古典仏教叢書』の一つとして『法然上人伝記附一期物語』の題のもとに出版された。その題の下に「見聞出勢観房」とあるから、源智の門下らによって編集されたものであろう(2)。それは仁治二年(一二四一)ころといわれている(3)。法然滅後二十九年ころである。またその巻末にある望月信亨氏の「解説」によれば、全文漢文にして六篇あり、第一篇は「一期物語」と題して法然の物語二十条を集め、第二篇は禅勝房の問いに答えたもので十一問答あり、第三篇は三心料簡以下二十七条の法話を録し、第四篇は「別伝記云」と題して法然の略伝を掲げ、第五篇は「御臨終日記」と題して法然の臨終の祥瑞等を記し、第六篇はいわゆる三昧発得記で法然みずから三昧発得のことを筆録されたものといわれている。そのなか第二篇の「禅勝房との問答」、第五篇の「御臨終日記」、第六篇の「三昧発得記」は、『西方指南抄』所収の「十一箇條問答」、「法然聖人臨終行儀」、「建久九年記」と同じである。それらは独立して伝えられていたのであろう。そして遡れば、『源空聖人私日記』の浄土を観じた記事や夢中で半身金色の善導と対面した記事が「建久九年記」、臨終の様子の記事が「法然聖人臨終行儀」である。『源空聖人私日記』はそれらを素材として再構成し法然伝の形にしたものと考えれている(4)。醍醐本『法然上人伝記』や『西方指南抄』はその独立して伝えられていたものを「三昧発得記」「建久九年記」、「御臨終日記」「法然聖人臨終日記」として収録したのであろう。こうして『西方指南抄』以前に醍醐本『法然上人伝記』が法然の法語・伝記・行状などを集成しているが、『西方指南抄』に比べれば規模は小さい。もっと大がかりなものとしては良忠の門弟・道光了恵によって編纂された『黒谷上人語灯録』がある。その構成は『漢語灯録』一○巻として漢文体のものを二十二篇、『和語灯録』五巻として和文体のものを二十四篇、『拾遺語灯録』三巻として漢文体のもの三篇、和文体のもの八篇となっている。跋文に「予、二十年来、偏く此を華夷に索し、慎みて真偽を撿して撰集する所なり(5)」といっている。二十年の歳月をかけて真偽を見極め編纂したのである。分量において醍醐本『法然上人伝記』や『西方指南抄』をはるかに超えている。しかしその成立は文永十一年(一二七四)から翌十二年にかけてである。法然滅後六十二年から六十三年にあたる。したがって法然の法語類を集成したものとしては醍醐本『法然上人伝記』→『西方指南抄』→『黒谷上人語灯録』の順になる。ここに『西方指南抄』の位置があるといえよう。すなわち醍醐本『法然上人伝記』に次ぎ、『黒谷上人語灯録』に先立つ法然全集である。


(1)望月信亨氏「醍醐本法然上人伝記に就て」(『仏書研究』三七・三八、一九一七)など。
(2)梶村 昇氏「醍醐本法然上人伝記について」(『亜細亜大学教養部紀要』四、一九六九年)によれば、「一期物語」「禅勝房との問答」「三心料簡事」の三篇は源智の執筆になるといわれている。
(3)中野正明氏『増補改訂 法然遺文の基礎的研究』(法蔵館、二○一○年)八二頁。
(4)田村圓澄氏『法然上人伝の研究』(法蔵館、一九七二年)一七頁。
(5)『黒谷上人語灯録』跋文(『真宗聖教全書』四・七七九頁)
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