天上の月影

勅命のほかに領解なし

自信教人信

2016年11月07日 | 水月法話

 以前、私どもの地域では法話のことを「お説教」と呼ぶことが多いといった。「お説教」とは文字通りいえば、「お」は尊敬語・丁寧語であり、「説教」は教を説くである。しかし「教」とは暁喩の義といわれ、「聖人、下に被らしむるの言なり」(『法華玄義』〈『大正蔵』三三・六八三頁中〉)といわれる。ここに「聖人」というのは菩薩の修行階位でいえば初地以上の菩薩のことである。無漏智をおこし、真如を分々にさとっている聖者(しようじや)である。その聖者が説く言葉を「教」というのである。とすれば、私のような煩悩にまみれた凡夫が「教」と説くことなどできない。それは「教」とはいえないというのが仏教の常識なのである。
 ところが親鸞聖人は私のような凡夫でも「教」という言葉を許してくださっているところがある。それは「自身教人信」という言葉の訓みである。ここに「教」の語があるが、本来これは使役の意味で、「みづから信じ人をして信ぜしむ」と訓む。しかし親鸞聖人は、たとえば「信文類」に「みづから信じ、人を教へて信ぜしむること」(『註釈版聖典』二六○頁)と訓んでいらっしゃる。もともと使役の意味に過ぎなかった「教」を「教へて」というのである。たとえ凡夫であっても、みずから阿弥陀さまのご本願をいただき、それを人々に伝えていくとき、「教」という言葉を許されているわけである。そうすると、法話を「お説教」をよぶならば、まず自身がご信心をいただかねばならない。信心のないものの説く言葉は、ただの世間話と異なるところはないであろう。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 畢竟依を帰命せよ | トップ | 蓮如上人の御一生 »

コメントを投稿

水月法話」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。