天上の月影

勅命のほかに領解なし

高野堂「行空上人の墓」について(22)

2017年04月22日 | 未発表論文

      六、天福元年九十歳説

 ここに一つ残った難問がある。それは前に触れた行空の命日を天福元年(一二三三)七月六日とすることである。『聖方紀州風土記』→今村和方氏『純忠星野氏』→江頭 亨氏『郷土史物語』という経過を経て、『星野村史 年表編』にも採用されていた。また本覚院自体も文永年中としていたにかかわらず、今日では天福元年説を用いている。高野堂(こうやんどう)「行空上人の墓」に昭和五十九年(一九八四)七百五十二回忌が修されたときの記念碑が建っているが、天福元年から数えたものである。二○一二年四月二十六日に拝見させていただいた本覚院の『当国過去帳』にも赤字で「天福元癸年七月六日寂 西暦一二三三年」の書き込みがあった。文永年中から切り替えたようである。

 それはとくに江頭 亨氏『郷土史物語』の影響であろう。一三八頁にも記されているが、一四五頁には「天福元年七月六日、黒木町と星野村の境界近く、高牟礼峠の下、星野村内縫尾久保という所で、頓死しました。行年九十才と元亨釈書にかいてあります」といわれている。この「行年九十才」については氏自身が示されているように前節で述べた『元亨釈書』、遡れば『法華験記』に記されているが、一宿上人としての行空の没年齢であることはいうまでもない。ただ江頭氏はそれを法本房としての行空と同一視されているので、天福元年に九十歳で没したとすると、天養元年(一一四四)の生まれとなって、法然(一一三三~一二一二)より十一歳年少、親鸞(一一七三~一二六二)より二十九歳年長となる。年代上、無理はないといえよう。そこで氏は一四三頁に「法然上人が八十才で死んだ時、行空上人は六十九才、親鸞上人は三十九才であったのであります」などといい、行空の年齢を示されている。それを承けて花田玄道氏は「法本房行空について」(『仏教論叢』三五、一九九一頁)や『鎮西教学成立の歴史的背景』(大本山善導寺開基八百年慶讃大法要記念出版、一九九六年)六一頁に行空の生没年を「一一四三~一二三三」と明記されている。しかし「九十歳」という年齢が一宿上人としての行空のものである以上、容認するわけにはいかない。

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