天上の月影

勅命のほかに領解なし

行空上人の佐渡における活動(10)

2017年05月12日 | 小論文

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 そこで忠綱に焦点を合わせると、佐渡の羽黒で誕生し、長じて播州明石の月園に住み、再び佐渡へ来て国政を執行している。祖父の能忠がいつ佐渡と明石の所領を与えられたのかわからないが、前に述べた文治五年(一一八九)の奥州合戦における戦功によってとして、忠家・能久の両子のうち、兄の忠家は相模の本貫を守り、弟の能久がまず明石に移り、鹿野の凶賊を退治するため佐渡へ入ったとすると、そのころ忠綱が誕生したのであろう。そして行空が配流されたのが承元元年(一二○七)であるから、念仏の法門を授けられたとすれば、十代半ばころと推測される。長じて明石に移るときであろうか。ただし下出穂与氏『佐渡本間遺文桜井文書』は十五種の系図を四種に分類し、いまの「本間系図 丸山本」を第三類に位置づけ、「かなり作為されたもの」「単なる口碑や伝承が中心になっているようである」(四五二頁)、「これにもとづいて佐渡の本間氏を考えると、トンでもないことになる」(四五三頁)といわれている。そうすると、能久の凶賊退治のことや忠綱が佐渡の羽黒で誕生したことなど、疑わしくなってくる。それでも諸系図に「住播磨国」等と註記されているのは納得のいくことであるから、ある程度は信用していいと思われる。そこで忠綱が長じて播州明石月園に住んだというのも事実とすれば、明石に移る前に佐渡で行空から念仏の法門を授けられたとみられる。それは『吾妻鏡』の記述から推測して十代半ばの若いころであろう。なお、下出氏は『吾妻鏡』の寛元二年(一二四四)正月二日条に「本間山城前司」(『続国史大系』五・二三○頁)とあるのを忠綱の嫡男である「頼綱のことだと思う」といわれている(四六七頁)。それに対して貴志正造氏訳注『全訳 吾妻鏡』三・三七○頁では「元忠」と括弧書きしてある。『佐渡本間遺文桜井文書』でいえば、「久知本間系図 野中本」と「本間系図 橘正隆説」に能久の弟として「元忠」の名が見える(四三四、四三九頁)。「海老名荻野系図」と「小野系図」には能久の弟として「基忠 山城守」(三九四頁)とある。しかし他の系図には見当たらない。下出氏が何を根拠に「頼綱」といわれているのかわからないが、もしそうであれば、父である忠綱の年代も見当がつき、やはり行空との接点は十代半ばといえるであろう。

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