天上の月影

勅命のほかに領解なし

高野堂「行空上人の墓」について(3)

2017年04月03日 | 未発表論文

      二、江頭 亨氏の所論

 この墓については江頭 亨氏の『郷土史物語』(一九六八年)を見なければならないであろう。一三七~一四七頁に詳細な記述があるからである。そこに法本房としての行空が取り上げられている。ただし氏は、行空の事蹟として、行空の事蹟として、興福寺の強訴により「建永元年(元久三年、一二○六)二月源空の高弟行空と遵西は遠流にされたのであります。源空はやむを得ず、行空と、遵西を破門しました。(中略)この時行空は筑紫に配流ときまりました」(一四三~一四四頁)といわれている。建永元年(元久三年、一二○六)二月、興福寺の強訴によって朝廷は筑紫に配流し、法然は破門したとしている。それは三条長兼(生没年不詳)の『三長記』元久三年二月三十日条に、
 

今朝、源空上人の一弟子二人、念仏を弘通せんが為、諸仏諸教を謗るに依りて、罪名を勘せらる。中宮権大夫に宣下し了んぬ。其の状、此の如し。
      元久三年二月三十日  宣旨
      沙門行空、忽(たちま)ち一念往生の義を立つ。故(ことさら)に十戒毀(教カ)化の業を勧め、恣(ほしいまま)に余仏を謗り、其の念仏行を願(ママ)進す。沙門遵西、専修に穏(ママ)れて余教を毀破す。雅(ママ)執に任せ衆善を遏妨す。宜しく明法博士をして件の二人の罪名を勘申せしむべし。
                                                                     蔵人頭左中弁藤原長兼
    件の両人、遵西は安楽房なり。行空は法本房なり。行空に於ては殊に不当なるに依りて、源空上人、一弟を放ち了んぬ。(『増補史料大成』三一・一八二~一八三頁)

とあるものに基づくことは間違いあるまい。しかし、法然が行空を破門したのは事実であろうが、遵西(?~一二○七)の破門は記されていない。またこの時点で行空は配流になっていないと思われるし、まして筑紫とはどこにも示されていない。何を根拠に筑紫といわれるのであろうか。はなはだ疑問である。つづいて氏は筑紫に配流になった行空を後述する黒木助能夫妻が黒木(=八女市)に招請し、翌年の承元(建永)の法難では筑紫から佐渡に改められ遠流を命じられたが、「中央に於ける大弾圧をよそに行空上人は黒木にあって念仏宗の布教に余念がなかったのであります」(一四四頁)といわれている。そうすると行空は佐渡へ赴かず、黒木にいたということになる。しかも「行空上人はわが八女山中部にありて二十数年間念仏宗の布教につとめました」(一四五頁)といわれるのである。ここで行空が八女の山中部において念仏を布教していたということに注意しておきたい。

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