天上の月影

勅命のほかに領解なし

本覚法門雑記(26)

2016年12月10日 | 法本房行空上人試考

           十四

 このように天台本覚思想と法然・親鸞を見てきたのは、行空の寂光土義において、体の浄土(九品平等の真実報土のことと思われる)の因を良心が「理解」、妙瑞が「理念理解」とするのを本覚思想との混同によると考えるからである。法然の立場は、娑婆と浄土、我と阿弥陀仏、生死と涅槃、煩悩と菩提といった、徹底した二元論に立ち、あくまで阿弥陀仏が本願において選択された称名の念仏一行を往生の因とした。それを承ける行空が、称名の「事行」のほかに「理解」「理念理解」を立てるはずはないであろう。行空は法然の教えを弘める伝道者であった(1)。その法然は『真如観』を評して「われら衆生は、えせぬ事にて候ぞ、往生のためにもおもはれぬことにて候へば、無益に候」と批判している。それにつづく空観についての質問にも「これはみな理観とてかなはぬ事にて候也。僧のとしごろならひたるだにもえせず、まして女房なんどの、つやつや案内もしらざらんは、いかにもかなふまじく候也。御たづねまでも無益に候」とも批判している(2)。理観はわれら衆生にかなわない行としている。とくに「女房なんどの」という語が見える。その「女房なんどの」に伝道していたのが行空なのである。どうして理観を勧めることがあろうか。法然の意に反することである。鎮西派は行空を「背師自立の人(3)」と見るが、親鸞が『西方指南抄』「七箇条制誡」連署名の最後に「行空」の名を記していることを忘れてはならない(4)。もし本当に行空が法然に反して理観を勧めていたとすれば、親鸞がその名を記すはずはなかったであろう。記しているということはそうでなかった証拠である。行空は法然や親鸞と同じく「女房なんど」にもかなう行として称名の念仏を勧めていたはずである。それが伝道者としてのつとめでもある。

 しかし良心や妙瑞はそのように見なかった。それはおそらく弁長が「法本房の云く、念とは思ひとよむ。されば称名には非ずと云云」といったのを「此は念仏を習はざる也」と批判していることに端を発しよう(5)。弁長は行空が称名を廃したと考えたのである。それが鎮西派の伝統となっていったと思われる。ゆえに良心が寂光土義について「何ぞ称名の事行を要と為すや」といったのである。また冒頭に取り上げたように、法然在世中、法然が念仏を勧めるのは愚癡の人のためであるといった者がいたようである(6)。同じことが『拾遺語灯録』「津戸三郎へつかはす御返事」のなかにも「無智の人にこそ、機縁にしたがひて念仏をばすゝむる事にてはあれと申候なる事は(7)」とある。そうした人の意底にあるのは、念仏とは別に勝れた行法があるということであろう。実際、『四十八巻伝』には弁長が元久元年(一二○四)に帰郷したのち、

こゝにある学者、上人の門弟と号して云、浄土甚深の秘義は天台円融の法門におなじ。これ此宗の最低なり。又密々の口伝あり。金剛宝戒これなり。善導の雑行を制して、専修をすゝめ給は、暫初心の行人のためなり。さらに実義にあらず。これすなはち上人の相伝なりと〔云云〕

といったものがいたらしい。それを耳にした弁長は翌・元久二年(一二○五)三月に門弟の度脱房を使いとして書状をもって法然に真偽を尋ねたところ、法然は自筆で「已上二ヶ條、以外僻事也」等という誓文を送ったとある(8)。ここに「浄土甚深の秘義は天台円融の法門におなじ」といっている。「天台円融の法門」とは天台本覚思想のことであろう。それを「此宗の最低なり」というのである。最も奥深い秘義とするのである。伝源信の『観心略要集』でいえば「我身即ち弥陀、弥陀即ち我身なれば、娑婆即ち極楽、極楽即ち娑婆なり」と観じることであり、同じく伝源信の『真如観』でいえば「真如と我と一つ物なりと知」ることである。それに対して法然が専修念仏を勧めるのは「初心の行人のためなり」といっている。弁長が『末代念仏授手印』に寂光土義を伝えるなかに「称名往生は是れ初心の人の往生也(9)」といっているのと通ずるものがある。それを「実義にあらず」というのであるから、法然の真意ではないとするのである。このような伝承が鎮西派にあったことを踏まえると、良心や妙瑞が寂光土義を天台本覚思想と混同するのは無理のないことといえよう。なお、そこに密々の口伝として「金剛宝戒」という語が出てくるが、良心や妙瑞は問題にしていないようである。

 それからもう一つ、行空が「寂光土の往生」といったことにも原因があると思われる。というのは、天台本覚思想史のうえで文献化から組織体系化されていくなか、三重七箇法門が整備された。一心三観、一念三千、止観大旨、法華深義の広伝四箇の大事と、法華深義から開かれた蓮華因果、円教三身、常寂光土の略伝三箇の大事である。田村芳朗氏によれば、それは一三○○年代の初めの心賀あたりからといわれている(10)。文献としては『修禅寺決』にも見られるが、略伝三箇の大事は名目のみである(11)。『修禅寺決』は田村芳朗氏の考えでは鎌倉中期一二五○─鎌倉末期一三○○とされ、花田充道氏の考えでは鎌倉初期ごろの成立とされている。略伝三箇の大事が述べられるのは俊範(~一二二一~)から静明・心賀を経て心聡によって記述され、嘉暦四年(一三二九)の花園天皇に呈上された『一帖抄』や、尊海(一二五三~一三三一)が心賀から相伝をうけて同学の一海が筆録したといわれる『二帖抄』からである。そのなかに「常寂光土義」があるのである(12)。良心が『一帖抄』や『二帖抄』を見ていたかどうかわからないが、『修禅寺決』は見ていたであろう。名目だけではあるが、「常寂光土」と記されている。つまり行空が「寂光土の往生」という名目を立てたとき、天台本覚思想と同類の義と映じたのではなかろうか。妙瑞にいたっては『一帖抄』も『二帖抄』も見ているはずであるからなおさらである。また常寂光土は法身の所居とするのが天台の常談であり、往生するとかしないとかを超えている。まして凡夫が称名によって往生するなどとはいえない。そこで称名とは別に「理解」「理念理解」を立てたと考えられる。しかし、実のところ行空がいおうとしていたのは信具の称名いいかえれば他力の称名であったことは別に述べたのでいまは略する(13)。

(1)拙稿「法本房行空上人の教学試考─とくに寂光土義をめぐって(その一)─」(『行信学報』二九、二○一六年)参照。
(2)『和語灯録』巻五「百四十箇条問答」(『真宗聖教全書』四・六四六頁)
(3)鸞宿『浄土伝灯総系譜』巻下(『浄土宗全書』一九・一一八頁)
(4)『西方指南抄』巻中末「七箇条制誡」(『真宗聖教全書』四・一五六頁)
(5)『浄土宗要集(西要集)』第五(『浄土宗全書』一○・二二八頁)
(6)『西方指南抄』巻中末「二位の禅尼に答ふる書」(『真宗聖教全書』四・一六九~一七○頁)
(7)『拾遺語灯録』巻中「津戸三郎へつかはす御返事」(『真宗聖教全書』四・七三三頁)
(8)『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』第四十六(井川定慶氏集『法然上人伝全集』二九七~二九八頁)
(9)『末代念仏授手印』(『浄土宗全書』一○・一一頁)
(10)田村芳朗氏「天台本覚思想概説」(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』解説・五三三頁)
(11)『修禅寺決』(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』八二頁)
(12)『一帖抄』(『天台宗全書』九・一九頁)、『二帖抄』巻下(『同』九・一二三~一二五頁)
(13)拙稿「法本房行空上人の教学試考─とくに寂光土義をめぐって(その一)─」(『行信学報』二九、二○一六年)参照。

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