天上の月影

勅命のほかに領解なし

畢竟依を帰命せよ

2016年11月06日 | 水月法話

 「正信偈」のおつとめは、「帰命無量寿如来」からはじまって「唯可信斯高僧説」でカネを打ち、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏のお念仏と、和讃と呼ばれる平仮名混じりの歌が六首となえられる。その第二首目からあとの和讃の四行目ごとに、「真実明に帰命せよ」「平等覚を帰命せよ」「難思議を帰命せよ」「畢竟依を帰命せよ」「大応供を帰命せよ」とある。真実明、平等覚、難思議、畢竟依、大応供というのは、みな阿弥陀さまのお徳をたたえた言葉で、阿弥陀さまの別名といっていいであろう。とくに五首目に「畢竟依を帰命せよ」とある。「畢竟依」とは、究極のよりどころということである。私たちは私たちの人生のなかで、それぞれ何かをよりどころとして生きている。けれども、それが本当にあてになるのか、たよりになるのか、という問題があるであろう。蓮如上人は「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず」とお示しくださっている。いま命が終わろうという場になったとき、これまでたよりとしてきた家族やお金は何のたよりともならないというのである。確かに、家族やお金は私たちの生活を支え、潤し、豊かにする大切なものである。それでも、いざ命が終わろうとするとき、たとえ家族に手をつないでもらっていたとしても、家族はどうすることもできない。またどれほどお金を積んでも、お医者さんはただ見守るしかない。そうした手のつけようのない命の厳しさに直面したとき、これまであてたよりとしてきたものはいったい何であったのか。あてにならぬものをあてにし、たよりにならぬものをたよりとして生きてきたのではないのか。そうしたよるべのない私たちに阿弥陀さまだけは、必ず救うと抱きしめてくださるのである。家族やお医者さんが手に負えなくとも、阿弥陀さまだけは決してお見捨てにならない。そのみ手に抱きとり、間違いなくお浄土へと生まれさせてくださるのである。それは命が終わるというギリギリの究極の場を設定しての話であるが、究極の場においてたよりとなるということは、本当にたよりとなるということである。単に命終わるときだけではない。生きていく上でも同じである。その確かな阿弥陀さまを「畢竟依」と呼び、阿弥陀さまをたよりとして生きていけよ。それが最も安心できる生き方であるぞとお示しくださっているのが「畢竟依に帰命せよ」といわれたお言葉なのである。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« いまに十劫をへたまへり | トップ | 自信教人信 »

コメントを投稿

水月法話」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。