天上の月影

勅命のほかに領解なし

高野堂「行空上人の墓」について(24)

2017年04月24日 | 未発表論文

 ところが『聖方紀州風土記』には、最後に、
  行空上人の命日 天福元年七月六日
  第二世 行阿
  現今  第卅七世
とあるのである。その「現今 第卅七世」とは稲葉宗瑞師のことである。師の代になって急に行空の命日を「天福元年七月六日」とするのである。まったく不可解としかいいようがない。なぜ先代の文永年中を改めたのであろうか。何か資料があればいいのであるが、そのようなものはない。國武久義氏も私信①において「『聖方紀州風土記』の著者は何にもとずいてそう書いたのかについては、全く分かりません」といわれている。天福元年説は「?」とせざるをえないのである。ひそかに思うには、その著者の前に現在の墓標の正面にある「天文十六年/七月六日」と書かれたメモのようなものがあり、それを行空の命日と見て、「天福元年七月六日」と写し間違えたのではなかろうか。もっとも「天文元年」ならともかく、「十六年」を「元年」と間違うことがありえるかどうか疑問であるが、もしそうならケアレスミスとなる。あるいは「天文十六年」を罹災した「天正十六年」と混同して誤りと考え、建久年間(一一九○~一一九八)に開創されたという伝承によって、文永年中(一二六四~一二七四)に没したとすれば年月が経ちすぎるので、共通する「天」から「天福元年(一二三三、翌十一月五日に文歴と改元)」としたのかもしれない。もしそうなら作為的といえる。いずれにせよ、それらは推測である。推測になるのは、わずか一代で変更された天福元年説の根拠が明確でないからである。それでも現在の本覚院は天福元年説と採っているので、否定はできない。ただ『高野山本覚院因由并に筑後国檀縁之由来』『聖方紀州風土記』など、すべての本覚院の伝承のなかに開基の行空が法然門下になった、あるいはのちに法然門下になったということはいわれていないから、法本房としての行空の命日とはいえない。

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