天上の月影

勅命のほかに領解なし

幸西の聖道門観(5)

2016年10月14日 | 小論文

 幸西が「八万四千」を採用するのは、直接的には善導によることに間違いないであろう。「玄義分」序題門に、

門八万四千に余れり(門余八万四千)(1)。

といっているからである。ただこの文を幸西は『玄義分抄』に「八万四千」と「余」に分けるという特殊な解釈をしている。親鸞が「化身土文類」本に門余の釈をなすのは、この幸西の影響ではあるまいか。そこで「玄義分」の文は後にもう一度取り上げることにして、いまは善導が「八万四千」といっていることを確認するにとどめよう。そしてまた善導は『法事讃』に、

まさに十方法界の諸仏所説の修多羅蔵八万四千を奉請し、

といい、

門々不同にして八万四なり。

といっている(2)。『般舟讃』にも、

仏教多門にして八万四なるは、まさしく衆生の機不同なるがためなり

といい、

門々不同なるは、無明と果と業因とを滅せんがためなり

といっている(3)。仏教に八万四千も法門があるのは、衆生の機類が千差万別であるので、あたかも病に応じて薬を与えるがごとく、仏が機縁に応じてさまざまな法門を説いたゆえであるというのである。そしてそれは「無明と果と業因を滅せんがためなり」とあるように、衆生が生死を繰り返す因果を滅しようとするためであるというのである。善導はここで生死の苦果までいっているが、凝然の『八宗綱要』には「問ふ。何が故に法門の数量、必ず爾るや。答ふ。一切衆生の八万四千の諸の塵を対治せんと欲するが為の故に、所以に法門に必ず八万四千の数有り(4)」といっている。衆生の煩悩に八万四千あるから、それを対治するために八万四千の法門が説かれるというのである。ここでは煩悩の因だけを述べている。それでもその因は必ず苦果を招くから、善導は「果」までいったのであろう。なお、八万四千の煩悩については、『大集経』に貪欲の行に二万一千、瞋恚の行に二万一千、愚癡の行に二万一千、等分の行に二万一千あるから、八万四千になると説かれている(5)。『大智度論』ではそれぞれを病いに譬えて同じことをいっている(6)。こうして幸西はまず善導によって「仏道に八万四千の門有り」とおさえるのである。

(1)『観経疏』「玄義分」序題門(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』三○○頁)
(2)『法事讃』巻上(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』五一九頁)、巻下(『同』五八三頁)
(3)『般舟讃』(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』七二二、七二一頁)
(4)『八宗綱要』(龍谷大学編『講本 八宗綱要鈔』一頁)。なお、良忠の『観経玄義分伝通記』巻第二には「報恩経に云く。衆生に八万四千の煩悩有り。之を対治せんが為に八万四千の法門有り」(『浄土宗全書』二・一二五頁)といっているが、『大正新脩大蔵経』所収の『大方便仏報恩経』にこのような文は見当たらない。
(5)『大集経』巻第十五「虚空蔵菩薩品」(『大正新脩大蔵経』一三・一○二頁中)
(6)『大智度論』巻第五十九(『大正新脩大蔵経』二五・四七八頁中)

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