天上の月影

勅命のほかに領解なし

行空上人の評価(2)

2017年07月18日 | 小論文

            二

 ところが鎮西派では背師自立の邪義と断ずるのである。それは派祖である弁長(一一六二~一二三八)からはじまる。その著『末代念仏授手印』には「上人往生の後、其の義を水火に諍ひ、其の論を蘭菊に致す。還りて念仏の行を失し(失念仏行)、空しく浄土の業を廃す。悲しい哉、悲しい哉、何が為ん、何が為ん」と悲歎しているが、その直前に、「幸なる哉、弁阿、血脈を白骨に留め、口伝を耳底に納む。慥かに以て口に唱ふる所は五万六万、誠に以て心に持つ所は四修三心なり。之に依て自行を専とするの時は口称の数遍を以て正行と為し、他を勧化するの日は称名の多念を以て浄業と教ゆ」とあって(7)、自身が自行化他において多念の立場に立つことを明言している。また『浄土宗名目問答』のはじめに「問ふ。浄土宗一門の念仏者なりと雖も、一念の流れ・数遍の流れ、水火相ひ分て」と一念の人と数遍の人が互いに偏執を成していることを述べ、「何れか悪、何れか善。誠に以て其の是非知り難し。何ぞ将に是の善悪を弁じ、一方に付て其の心を固くして迷惑の念を止て、一向に往生の行願を調へ、今度浄土に往生して生死を出離せんや」と問いを出しているが、以下の論述は数遍の義(多念義)をもって正義とするものであり、一念の人が立てる義を出しては「此の義皆邪義也」といっている(8)。一念義を邪義とするのである。それは一念の信に執じて念仏を否定したり、一声の念仏に執じて多念の相続を軽視あるいは無視したり、ついには造悪無碍に堕する傾向をもっているからである。その邪義である一念義が正義である多念義と水火のごとく諍うから弁長の悲歎がおこるのであろう。そこで著述の至るところに痛烈な一念義批判を展開している。極言すれば、それが弁長の著述の一特徴であるとさえいわれている(1)。
 ただ弁長の随所に見られる一念義批判はその主唱者の名を挙げていない。前節で述べたように一口に一念義といっても種々雑多なものがあり、それらを普遍的な問題とするためであろうか。そのなかで『浄土宗要集』には、
 

法本房の云く、念とは思ひとよむ、されば称名には非ずと云云。答ふ、此は念仏を習はざる也(2)

といっている。これについての検討は後に譲るが、まず「法本房の云く」と行空の名を出している。そして「此は念仏を習はざる也」と痛烈に批判している。つまり弁長にとって行空は称名否定の邪義を唱える一念の人であったわけである。

(1)山上正尊氏『一念多念文意講讃』(為法館、一九五六年)九五頁。
(2)弁長『浄土宗要集』第五(『浄土宗全書』一○・二二八頁)

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