天上の月影

勅命のほかに領解なし

幸西の聖道門観(11)

2016年10月20日 | 小論文

         八

 聖頓が聖者の為に説かれた教えであるなら、凡頓は凡夫の為に説かれた教えということになる。それこそ法然によって独立された浄土宗を指す。『選択集』には、

元暁の『遊心安楽道』にいはく、「浄土宗の意、本(もと)凡夫のためなり、兼ねては聖人のためなり」と(1)。

といわれている。もともと浄土宗は凡夫のための教えなのである。そうすると聖道門は聖者のための教えということができる。法然は明言をしていないが、幸西はそのように領解したわけである。そして『浄土法門源流章』には「『略料簡』の頌に云く、聖凡二頓を対するに、凡を採るを正門と為し、釈迦凡の為に出づ、唯だ頓一乗を説く(2)」といっている。聖頓・凡頓のなかで凡頓を採るのを正門とし、その凡頓を説くことが釈尊出世の本懐であるというのである。

 ところで幸西は聖頓の聖を「聖とは十聖」というのに対して、凡頓の凡を「凡とは五乗なり」といっていた。「五乗」とは菩薩・縁覚・声聞・人・天であることはいうまでもない。それらを凡夫とするのである。もっとも「聖とは十聖」といっているから、菩薩といっても初地以前、すなわち地前の菩薩のことで、十住、十行、十回向の三賢位の内凡、十信位の外凡である。声聞・縁覚でいえば煗・頂・忍・世第一法の四善根位の内凡、それ以前の五停心・別相念住・総相念住の三賢位の外凡である。預流果以上は聖者であるが、「聖とは十聖」と取りきっているから、その聖者も凡夫のなかに入るのであろう。つまり十回向位の菩薩以下を凡夫と見ているのである。

 そして善導の「玄義分」序題門には「一実の機なしといへども、等しく五乗の用あれば(3)」とあるが、それを幸西は『玄義分抄』に釈して、

「雖無一実之機等五乗之用」といは、真如の機なしと云とも弘願の機ありと也。五乗其の辺を測らず、故に真如の機にあらず。仏願に託して五乗斉入す、故に弘願の機也。但し三界の極位に居して十聖の初地に隣なるもの、真如の機に当れりと云とも、修福念仏を以て無生の国に入る事は仏法不思議の力也。敢て其機にあらず、故に仏の願力の外に都て真如を証する門なき也(4)。

といっている。「一実の機」とは真如の機のことで、無漏智をおこして真如をさとる初地以上の菩薩をいう。それを「なし」というのはこの娑婆世界に存在しないことを意味している。とすれば、初地以上の菩薩のために説かれた聖道門はこの娑婆世界において行ずる教えではないということを暗に示している。そして「五乗の用」とは、「玄義分」和会門に「まさしく仏願に託してもつて強縁をなすによりて、五乗をして斉しく入らしむことを致す(5)」といわれているように、仏願力によって五乗の凡夫が同じく報土に往生せしめられることをいう。その五乗の凡夫を幸西は「弘願の機」といっているのである。それはたとえ十聖の最初の位である初地に隣接する十回向の満位の菩薩が真如をさとるべき機であるといっても、第十八願に誓われた念仏を修し、「仏法不思議の力」すなわち本願力によって、浄土に往生するのである。決してみずからの智力によるのではない。無漏の領域である「無生の国に入る」ためには、第十回向位でも有漏智であるかぎり不可能である。必ず本願力によらねばならない。そこで「仏の願力の外に都て真如を証する門なき也」というのである。したがって聖道門は「真如を証する門」ではないということになる。いわゆる聖道無得道である。すなわち幸西は聖道門を凡夫にとって得道の法ではないと見るのである。聖道門はどこまでも聖者が修するための教えとするのである。

 ただし幸西は「仏の願力の外に都て真如を証する門なき也」といっても、往生と同時に成仏するとはいわない。『玄義分抄』には、

当知乗願は不退、往生は安楽、証彼無為之法法楽は初地、

といい、

純一に化生して即ち初地に入る、

といっている(6)。『浄土法門源流章』所引の『称仏記』には、

先づ浄土を求め順次生に菩薩の初地に階ふ。是を菩薩蔵頓教一乗海と名づく。

とあり、凝然の言葉としては、

浄土の教門は唯だ凡夫に被らしむ。諸の凡夫をして浄土に往生して頓に初地に登り、無生忍を証せしむ。

具縛の凡夫、仏の本願に乗じて報仏の土に生じ、頓に初地に入る。是れを凡頓と名づけ、頓に聖に登るが故に。

などといっている(7)。凡夫が本願力によって浄土に往生し、頓に初地の位に入るから凡頓なのであった。往生即成仏を語る親鸞とは異なるところである。

(1)『選択集』二門章(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』一一八五頁)。なお、『遊心安楽道』の文は元来「浄土の宗意」と読むべきで宗名のことではないが、法然は「浄土宗の意」と読み、宗名の証権としている。
(2)『浄土法門源流章』(『浄土宗全書』一五・五九二頁)
(3)『観経疏』「玄義分」序題門(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』三○○頁)
(4)梯 實圓氏『玄義分抄講述─幸西大徳の浄土教─』(永田文昌堂、一九九四年)付録・四三七~四三八頁。
(5)『観経疏』「玄義分」和会門(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』三三○頁)
(6)梯 實圓氏『玄義分抄講述─幸西大徳の浄土教─』(永田文昌堂、一九九四年)付録・四六二、四六七頁。
(7)『浄土法門源流章』(『浄土宗全書』一五・五九二頁)

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