天上の月影

勅命のほかに領解なし

行空上人の佐渡における活動(3)

2017年05月05日 | 小論文

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 しかしこれは何かの誤りであろうと思われる。というのは、本間忠綱の祖父である能忠の名が「義忠」として『吾妻鏡』に出てくる。文治五年(一一八九)七月十九日に「本間右馬允義忠」(『続国史大系』四・九七頁)とあるのが初見である。『続群書類従』第五輯下の「本間系図 浅羽本」に「初関東居住。仕頼朝公。奥州合戦之時有忠功」(五○七頁)とあり、「海老名荻野系図」にも「文治五年七月奥州役。従頼朝卿之軍有戦功」(五一一頁)とある。文治五年に奥州藤原氏とのあいだで東北地方で行われた奥州合戦において軍功があったようである。『吾妻鏡』は次に建久元年(一一九○)十一月十一日に「本間右馬允義忠」とある(『続国史大系』四・四四七頁)。また建久六年(一一九五)三月十日に「本間右馬允」とある(『同』四・五六五頁)。そして同年三月三十日に、
 

   将軍家御参内、殿下御参会ありと云々。此の間、門前に於て、本間右馬允、犯人を搦め取ると云々。(『同』四・五七四頁)

といわれている。源頼朝が参内のとき、藤原兼実(一一四九~一二○七)も参会したが、そのおり斬りかかるものがいて、それを能忠が捕らえるという武勲をあげたようである。そのことは「海老名荻野系図」にも能忠の註記に記されている(五一一頁)。そしてその子・能久について『佐渡本間遺文桜井家文書』所収の「佐渡羽茂略系」に「建長五年卒」という註記がある(四三七頁)。それは一二五三年であるから、事実とすれば相当な長命であったことになる。忠綱については『吾妻鏡』の建仁元年(一二○一)九月十六日に「本間源太」の名が見える(『国史大系』四・六二八頁)。貴志正造氏訳註『全訳 吾妻鏡』一(新人物往来社、一九七六年)の五八頁にはそれに「忠貞」という右註がある。忠貞は「本間系図 浅羽本」や「海老名荻野系図」によれば忠綱の従兄弟のようで、前者には「承久兵乱時関東方。忠功あり」(三八九頁)、後者には「承久三年六月之役、従北条時房の軍」(三八九頁)という註記がある。承久の乱(一二二一年)のとき戦功があったようである。しかし橘正隆氏『河崎村史料編年志』二二六頁には「後の忠綱」といわれている。それは附録・七頁に収録されている「本間系図」の忠綱の註記に「源太左衛門」とあるものによられたのであろう。ただしすべての系図にそうした註記があるわけではない。『佐渡本間遺文桜井家文書』所収の十五種の系図では「小野系図」(三九六頁)、「本間系図 丸山本」(四○三頁)、「久知本間系図 野中本」(四三二頁)のみである。あとは「太郎左衛門尉」か「左衛門尉」か何も記されていないかである。そこで忠貞か忠綱か、どちらが正しいのかわからないが、橘正隆氏のいわれることにしたがえば、能忠─能久─忠綱は、一一八九~一二○一年(~一二五三年)のあいだに存在が確認される。そうすると、行空と時代が一致する。また貴志正造氏のいわれるように忠貞であったとしても、能忠の年代から推測すれば、忠綱と行空のあいだに接点があったと考えられよう。

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